春の昼ひよこまみれになりやすい 石原ユキオ
この句が収められた連作のタイトル「ルッカリー」とはそもそもペンギンが集団でこどもを産み・育てる場所のことだ。ルッカリーでひしめきあったペンギンたちをひとめみてわかるのは、それが〈もふもふ〉しているということである。
たぶん、あなたがルッカリーに頭からつっこめば〈もふもふ〉するだろう。わたしも。
「ひよこまみれ」も、そうだ。「春の昼」だからただでさえ「あたたか」なのだが、「ひよこまみれ」になれば、もっと「あたたか」くなる。というよりも、これは、
〈あたたかすぎ〉である。
ここには、〈あたたかさ〉の過剰がある。
前回のてふこさんの句の〈あたたかさ〉は俳句によって相対化された〈あたたかさ〉だった。それはひとによって〈変化〉するものだった。
しかし、ユキオさんの句は、ちがう。ここには、〈絶対的なあたたかさ〉がある。
しかも、「なりやすい」と語られている。〈症候〉としての〈あたたかさ〉でもある。なりたくてなっているわけでも、ないのだ。「なりやすい」のである。
てふこさんの〈あたたかさ〉がみずから選び取った〈意志のあたたかさ〉なら、ユキオさんの〈あたたかさ〉は偶発的に起きてしまう〈災難としてのあたたかさ〉なのである。
そうなのだ。ユキオさんには災難俳句がたくさんある。しかも、のどかな。
「ひよこまみれ」も〈のどかな災難〉ではあるが、この連作「ルッカリー」には他にも〈のどかな災難〉はある。たとえば、
鉄柵に園児はさまる日永かな 石原ユキオ
はさまっちゃったんだ。どう、しよう。
しかし、とはさまった園児をみて〈わたし〉は考える。
のどか、だ。
(「ルッカリー」『石原ユキオ商店』2014年7月 所収)