2016年2月26日金曜日

フシギな短詩5[石原ユキオ]/柳本々々



  春の昼ひよこまみれになりやすい  石原ユキオ

この句が収められた連作のタイトル「ルッカリー」とはそもそもペンギンが集団でこどもを産み・育てる場所のことだ。ルッカリーでひしめきあったペンギンたちをひとめみてわかるのは、それが〈もふもふ〉しているということである。

たぶん、あなたがルッカリーに頭からつっこめば〈もふもふ〉するだろう。わたしも。

「ひよこまみれ」も、そうだ。「春の昼」だからただでさえ「あたたか」なのだが、「ひよこまみれ」になれば、もっと「あたたか」くなる。というよりも、これは、

〈あたたかすぎ〉である。

ここには、〈あたたかさ〉の過剰がある。

前回のてふこさんの句の〈あたたかさ〉は俳句によって相対化された〈あたたかさ〉だった。それはひとによって〈変化〉するものだった。

しかし、ユキオさんの句は、ちがう。ここには、〈絶対的なあたたかさ〉がある。

しかも、「なりやすい」と語られている。〈症候〉としての〈あたたかさ〉でもある。なりたくてなっているわけでも、ないのだ。「なりやすい」のである。

てふこさんの〈あたたかさ〉がみずから選び取った〈意志のあたたかさ〉なら、ユキオさんの〈あたたかさ〉は偶発的に起きてしまう〈災難としてのあたたかさ〉なのである。

そうなのだ。ユキオさんには災難俳句がたくさんある。しかも、のどかな。

「ひよこまみれ」も〈のどかな災難〉ではあるが、この連作「ルッカリー」には他にも〈のどかな災難〉はある。たとえば、

  鉄柵に園児はさまる日永かな  石原ユキオ

はさまっちゃったんだ。どう、しよう。

しかし、とはさまった園児をみて〈わたし〉は考える。

のどか、だ。

          (「ルッカリー」『石原ユキオ商店』2014年7月 所収)