2016年2月8日月曜日

またたくきざはし 7 [大井恒行]    竹岡一郎




水の村魚とりつくし魚佇つ冬     大井恒行

「水の村」とあるから、水郷なのだと思う。海辺の村ではあるまい。「水」と「とりつくし」の語から、「水涸る」という季語も連想される。水源地の積雪や氷結のために川沼の水量が減る現象である。季は冬であるから、水の村は当然、水量も減っているだろう。厳しい寒さも連想される。ここにおいて、末尾の季が春や夏や秋ではなくどうしても冬でなければならない必然性が生じる。背後に「水涸る」状況を立ち上がらせるためである。

掲句では、涸れるのは水でなく魚であるから、ここで魚と水は等価ではないかという錯覚が起きる。魚をとるのは人間であろうが、中七の結果として下五の「魚佇つ」が置かれているから、魚を捕っていたのは実は人間ではなく、魚だったのかという錯覚もまた起きる。

水の村に住みながら同胞をとりつくした挙句、冬の厳しい枯渇の中に茫然と立っている魚は、やはり人間の暗喩であろうか。いや、人間であると否とを問わず、魂の暗喩だろうか。とりつくした理由を「魚なる魂」の愚かさに求めるよりは、むしろやむを得ぬ運命の結果と捉えた方が、句の寂しさは増すように思う。

<「風の銀漢」拾遺。「大井恒行句集」ふらんす堂1999年所収>