2016年2月25日木曜日

人外句境 34  [櫂未知子] / 佐藤りえ



てのひらに蝌蚪狂はせてみたりけり  櫂未知子

幼い頃、屋敷といってよいぐらいの広い家に住む子の家に遊びに行った。敷地のなかにある池には毎春蛙がたくさん卵を産む。それを引きずり出しては遊び、生まれたおたまじゃくしをつかまえては遊び、していた。たくさんいれば、蝌蚪を捕まえるのは容易なことだった。掌にいっぴきすくい上げてみると、水分を失っていくそれは確かに狂ったように身をよじらせ、てのひらで藻搔いていた。
生き物の動作、所作に意味を見出すのはいつも人間の側である。死んだふりをしたり、体の一部を失って逃げるなどの行動に、生物にとってはそれ以上以下の意味はない。動きの思わぬ激しさに狂気を感じるのは人間のほうである。

佐渡島ほどに布団を離しけり
ストーブを蹴飛ばさぬやう愛し合ふ
経験の多さうな白靴だこと
火事かしらあそこも地獄なのかしら

作者には上記のような激しさを感じさせるような作品が多数あるが、下記のような作品に、激しさと同時に抱えられた繊細さを感じることができる。

ぶらんこは無人をのせてゐるらしく
八百政の隅で遊んでゐるメロン
さびしさうだから芒を三つ編みに
日記買ふ星の貧しき街なれば
雪まみれにもなる笑つてくれるなら
ひばりひばり明日は焼かるる野と思へ

「八百政の隅で遊んでゐるメロン」個人商店ぽい名称の八百屋の隅で、売れないメロンを見ている視点。遊んでいる、は売れ残りに対しての救済ともいえる。「ひばりひばり明日は焼かるる野と思へ」は、「ここもそこも焼かれるべき野である」と捉えられるとするなら、田畑、山野を焼く農業従事者だけのものではなく、季語「野焼」を現代へ委譲していく姿を、生き急ぐべし、というメッセージとともに見せているように思う。
〈『櫂未知子集』(邑書林/2003)〉