2016年2月16日火曜日

フシギな短詩2[北大路翼]/柳本々々



  乳輪のぼんやりとして水温む  北大路翼

ひとは、どうやって、〈乳房〉にたどりつくんだろう。

でも、掲句は、「乳輪」である。〈乳房〉ではない。どうして、だろう。

この句の季語は「水温む」だ。春の水は〈あたたかい〉というよりも、〈ぬる〉んでいる。冬の水とも違うし、夏の水とも、ちがう。

  水温むとも動くものなかるべし  加藤楸邨

という句があるように、春のぬるんだ水と〈動・物〉は親和性が高い。ぬるむからこそ、ようやく、動き出せるのだ。

掲句において、このぬるんだ水の中で語り手が発見した〈動・物〉は「乳輪」だった。しかもそれは「乳首」でも「乳房」でもない。〈突起物〉ではなく、語り手は〈乳輪=円環〉という〈図〉をぬるんだ水のなかに見ているのだ。

語り手は、「乳輪」という〈図〉を、みている。〈図〉は視覚によって構成されるものだが、お湯をとおしてみている以上、〈図〉は明確には再構成されえない。

「水温む」という季語を通過した「乳輪」は「ぼんやりと」する。となると、語り手は、「乳輪」を見ながらも、その「乳輪」を見ることを「水温む」によって阻まれているといってもいい。〈季語〉に阻止されたのだ。

だとしたら、こう言ってもいいのではないか。

語り手は、〈季語〉によって〈乳輪=性〉にたどりつくことを阻害されてしまったのだと。

目の前のお湯のなかの〈乳輪〉を通してそこにあらわれたのは、〈俳句〉だった。〈性〉ではなかった。

語り手は「乳輪」をみながら「水温む」をとおして、〈俳句〉のことを考えている。かんがえてしまっている。〈性〉でもなく、〈乳房〉でもなく。

だからこう言うしかない。

俳句は、乳房に、たどりつけない。

          (「春立つや」『天使の涎』邑書林・2015年 所収)