2016年2月15日月曜日

またたくきざはし 8 [筑紫磐井]     竹岡一郎



美しくありますやうに妻に言ふ   筑紫磐井

二年ほど前に掲句を読み、妙に印象に残っていて、時々考える。最初、恐妻家の句かと思い、あるいは惚気の句かとも思ったが、どうも違う。この妻が美人か否か、それは問題ではない。たぶん、人としての立ち振る舞いとか心情の有り方とかそういうことを言っているのだと思う。これは「妻に言ふ」のだから、妻に対して要求している、とひとまず取れるのだが、本当にそうだろうか。

そう思う理由は、「ありますように」という措辞にある。「なりますように」や「いられますように」なら、これはもう妻限定であるが、目の前にいる当人に向かって、「ありますように」とは、あまりにもおかしい。だから、これは妻に対して、妻以外の何かが美しくありますように、と言っているのである。「やうに」とあるから、冀(こいねが)っている。そうなると、眼前の妻は何かを祈禱する対象である。妻に向かって、何かの、たぶん叶わぬ美しさを祈っているのだ。

上五の前に来るべき名詞が省略されているため、それは読者の頭の数だけ想像できよう。近所とか地域とかが美しくありますように。俳壇とか会社とか人間関係とか世間とかが美しくありますように。政治とか経済とかが美しくありますように。人類が美しくありますように。過去が或いは未来が或いは現在が美しくありますように。もしかしたら、天や神が美しくありますように。

即ち、作者と妻以外の、作者と妻を取り巻く何か、または取り巻く全てが美しくありますように、と希(こいねが)っているのである。

これは途方もなく贅沢な祈りなのか、あるいはこの上なく慎ましい祈りなのか。慎ましく且つ贅沢な祈りなのであろう。

私は一寸、ミレーの「晩鐘」を思い出したりもするのだ。あれは何を祈っているのか、子供の頃から疑問だったが、最近、世界の美しさを祈っているのだと思うようになった。

橋本無道の「無禮なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ」を思い出したりもする。あれは妻を罵っているようで、実はそうではない。毎日、ごはん作ってくれて有難う、とはとても照れくさくて言えぬが、何か言ってやりたいので口に出すと、あんな風になる。掲句も、祈る対象で居てくれる妻を有難く思っていることは言うまでもない。

<「我が時代」実業広報社2014年所収>