人類に空爆のある雑煮かな 関悦史
金、暴力、この二つは古来から「この世の君」即ち悪魔の王国を支える双柱であると、若い頃は思っていた。しかし、つまるところは一本である。本来、金が悪いわけではない。それが暴力という色彩を帯びるとき、人間を容赦なく卑しめる。歴史を繙けば明らかではないか。そして、古代から今に至るまでの政治を見ても明らかではないか。
先の大戦以来、この地上に一日たりとて戦争のない日は無かった。空爆が無かった日は多少あったかもしれないが、地上戦が無かったときはない。絶えずどこかで紛争という名の戦争は起こっている。そして、戦争こそは最大の暴力であり、空爆こそは戦争が続いていることが誰の目にも明らかな証である。勿論、天から俯瞰する時、なお一層明らかであろう。
そして、「雑煮」という、誰の目にもめでたい、しかし極めて庶民的な正月の料理を「空爆」に取り合わせることにより、如何なるめでたさも、本来、この地上には存在し得ない事を冷徹に告げているのだ。
(これが仮に、正月の他の料理ではどうか。例えば、伊勢海老や数の子ではどうか。それらは贅沢に過ぎる。雑煮は贅沢ではない。主成分は餅という炭水化物である。雑煮に存する贅沢は、正月の淑気のみである。そのささやかな、雰囲気でしかない贅沢さえも、空爆という地獄の前では、途方もない贅沢に見えるところに、この季語の必然性がある。)
雑煮を食う場所である茶の間のテレビが、空爆のニュースを映し出している必要はない。テレビは吉本新喜劇を映し出していても良い。或いは振袖姿の若い娘たちが嬉々としている初詣を中継していても良い。或いは穏やかな能舞台を映し出していても良い。だが、テレビが何を映し出していようと、たとえテレビが消えていて、正月特有の静かな雰囲気の中に家も町も浸っていようとも、この地平の遙かどこかで空爆は続いている。殊に湾岸戦争以来、空爆はずっと続いている。米国の盟友である日本では、安保協定に守られて雑煮を食えるが、一方で、米国による空爆は中東の無辜の人々を吹き飛ばし、それこそ雑煮の中に散らした具のように肉片や骨を砂漠に撒き散らし続けている。
我々の意識するとしないとに拘らず空爆は続き、そして、我々日本人が一番それを意識したくない時、言い換えれば、無関心でありたい時があるとすれば、例えば正月、淑気に満ちた景の中で穏やかに雑煮を喰い、暖かに腹を満たしている時だろう。
現代の我々は、いつ如何なるめでたさの只中においても、現実には暴力の上に存在し、放射能を日々気付かずに呼吸するかのように暴力を呼吸し、暴力の上に平和を謳歌している。
尤も、それは現代に、或いは日本に限った事ではない。人間が、本来、そういう性質の生き物なのだ。「人の痛みは百年でも我慢できる」という言葉がある。動物は他者の痛みを百年でも我慢しているのだろうか。動物は口を利けないので、わからない。少なくとも、人間はそうである。これは如何に人間の在り方が不良品かということを端的に示している。
ここで掲句が「人間」ではなく、「人類」という語を用いている事には理由がある。鳥類、爬虫類などのように、人類といえば、或る生物の種を指す。つまり、ヒト類ヒト科ということだ。ここで「人類」という語を用いることにより、掲句に人類の側からの視点ではなく、他の生物も含めて人類を公平に見る如き、俯瞰的な視点が暗示される。末尾に「かな」を置くのも、同様の視点ゆえであろう。激すべきところを敢えて、諦観とも取れるような冷静さを漂わせるべく、「かな」で流している。
だから、これは人類という生物には常に暴力が付きまとうという地獄の事実を、正月の普遍的な食事という、最もその事実を突き付けられたくない状況において突きつけているのだ。
(「暴力」と言ってしまえば、概念になる。空爆といえば、これは具体的な、且つ最も一方的な、且つ最も容赦のない、無差別の暴力である。)
さて、この事実を突き付けられて、我々はまだ雑煮を食えるか。食えるのである。食う、とは生物が生き延びるための基本だからだ。極端なことを言えば、頭上で空爆があり、目の前に血泥の雑煮と化した死体が転がっていても、死ぬほど腹が減っていれば食える。それは先の大戦における大空襲の後、焼け跡で何よりも食料が大事であったことを思い起こせば自明である。
我々は地獄の住人なのか。恐らく、そうであろう。我々はそれを認めたくなく、だがそれを先ず認めなければ地獄の住人である事から脱却できないから、だからこそ、この句は存在意義がある。我々人類という種の容赦ない悪を、めでたい食事の只中で突き付けているからだ。もしも将来、人類が高度な道徳観念を本能として持ち、戦争がなくなる日が来れば、その時に漸く、掲句は役目を終えるのであろう。
<「六十億棒の回転する曲がつた棒」2011年邑書林所収>