こんな日は揺れたくなるなと関は言った 御中虫
2011年から5年が経った。〈関悦史〉さんがさまざまな位相で揺れ続ける御中虫さんの句集『関揺れる』。たとえば掲句のように、だんだんと〈震災の揺れ〉そのものの意味はゲシュタルト崩壊し、フィクショナルなものへと移行していく。「こんな日は~したくなるな」とドラマのような〈安い定型フレーズ〉に〈揺れ〉も〈関〉さんも収められていく。
でも、〈揺れ〉がリアルで高尚なものと〈誰〉が決めたんだろう。
わたしたちは常に〈揺れ〉をテレビの中で、ドラマの中で、映像の中で、マンガの中で、映画の中で、フィクショナルな文法で語り・思考していたのではないか。
だとしたら、その〈揺れ〉をめぐるフィクショナルな文法そのものをもう一度〈再―文法化〉しなければならないではないか。
つまり、わたしたちはなにかを〈うたう〉ときの語法そのものを〈揺らし〉つづけなければならない。わたしたちは出来事は忘れないでいようとしながらも、すぐにその出来事を語法化するやり方そのものは無意識に置いてしまう。でもそうした忘却の淵に腰掛けて、関さんはずっと揺れ続けている。
そのために、関さんはいる。
2016年の〈今〉も、わたしたちの〈すべて〉の関さんは、揺れる。
(『関揺れる』邑書林・2012年 所収)