2017年8月4日金曜日

続フシギな短詩143[陣崎草子]/柳本々々


  好きでしょ、蛇口。だって飛びでているとこが三つもあるし、光っているわ  陣崎草子

まだ短歌をつくっていなかった頃に図書館の椅子にすわってなにげなく『短歌ください』を読んでいたらこの歌が私の眼に飛び込んできてすごくおどろいたことがある。

短歌ってこういうことなんだ、ってすごくびっくりした思いだったのではないか。具体的に、みてみよう。

出出しの7音の「好きでしょ、蛇口。」。たぶんほとんどのひとが「蛇口」を「好き」ではないと思う。というか、関心すらないのではないか。わたしたちが詩性を感じるのはその蛇口からほとばしる水のほうなのであり、水のひかりやゆらめきの方なのだから、「蛇口」には詩的には用がないのだ。

ところが語り手は「好きでしょ、蛇口。」ではじめた。「いいでしょ、蛇口。」ではない。「好き」が前提になっている。ここで「好き」でないひとはまずこの歌からはじきだされる。その強さをもった7音だ。「好きでしょう、蛇口。」の5音はじまりでは、弱い。ここは個性をもった7音で「好きでしょ、蛇口。」とはじまるから、強い。

蛇口がなぜ好きなのかその理由もこの歌では説明されている。「だって飛びでているとこが三つもあるし、光っているわ」。たしかに蛇口は「飛びでている」。しかしそれは蛇口を形からとらえた場合であり、意味をぬいた蛇口に出会わなければならない。わたしたちは蛇口から機能をぬいて、意味もぬいて、形としてみたときに、この語り手が出会っている蛇口に出会える。

しかしその蛇口のなんと遠いことか。わたしたちはこのような蛇口に出会えるのだろうか(そもそも、いま、あなたが毎日使っている家の蛇口の形状を思い出せますか? わたしはむりでした)。

ただこの歌はさいごに「蛇口」のよさを翻訳してくれている。それが「光っているわ」だ。わたしたちは光によって像を認識するが、きらきらと光っている蛇口をみて、それまでにはなかった蛇口に気がつくことはできるかもしれない。光というのは、形式を翻訳しなおすのだ。印象派の絵画を思い出そう。たとえばモネの絵画には輪郭がない。点描である。でも、「光」に沿って世界をみると輪郭の溶けた世界になる。人がいる。花がある。傘をもっている。と意味で世界をみるのではなく、光のうつろいによって世界をみるからだ。

光は世界の輪郭を再構築する。ここですでに取り上げている堂園昌彦さんの光にあふれた歌集も、田島健一さんの光に満ちた句集もそうだ。

光は、世界の翻訳を、再要請する。

だからこの歌は、光によって蛇口を翻訳しなおした歌だったのではないか。でもそこに「好きでしょ」という賭金が用意されたことがこの歌の強度だ。「わかるでしょ」ではない。「好きでしょ」なのだ。

この歌は、あなたに理解ではなく、跳躍を求めている。世界への飛躍を。歌を、世界を、イメージを、光をとおしてのひやくを。

  指を入れてはいけないと目を閉じる星降る夜にまわるミキサー  陣崎草子


          (「指を入れてはいけない」『春戦争』書肆侃侃房・2013年 所収)