2017年8月20日日曜日

続フシギな短詩166[寺山修司]/柳本々々


  肉屋の鉤なまあたたかく揺るるとききみの心のなかの中国  寺山修司

ときどき短詩のなかの国名について考えることがある。たとえば、

  サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい  穂村弘

という歌があるが、このときの「サバンナ」とはなんだろう、と考えたりする。たとえばそれが〈アフリカ〉だったとしてもこの歌で特徴的なのは、「Xよ聞いてくれ」と呼びかけの形をとっていることである。つまり語り手の「心のなかのアフリカ」ということになる。

この「サバンナの象のうんこ」は、実物の「サバンナの象のうんこ」とはたぶんかすかにずれている。もし目の前にサバンナの象のうんこがあるならば、「サバンナの象のうんこに話しかける」でもいいのだし、そもそも「象のうんこ」でいい。「サバンナ」と特定したのは、「Xよ」と〈遠く離れて〉呼びかけるためだ。しかしその呼びかけは届かない。「私の心のなかのアフリカ」だからだ。つまり、私は・私に「だるいせつないこわいさみしい」と言っている。この「だるいせつないこわいさみしい」といううねりは、〈排泄〉できない。いつまでもわたしのなかに回流しつづける。

  マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや  寺山修司

寺山修司のとても有名な歌だが、「つかのま」が「祖国」と響きあい、「祖国」という言葉の重たさがいったん軽減されている。「つかのま」の「祖国」だ。身を捧げる「祖国」は、「マッチ」を「擦るつかのま」くらいの〈幻想〉でしかないのだが、しかし、「海」に派生した「霧」は「ふか」い。〈幻想〉だが深い奥行きがある。軽減された「祖国」はべつのかたちで、重くなってゆく。

これも、「私の心のなかの祖国」だと思うが、〈心のなか〉をいったん通すことによって、ステレオタイプになりがちな〈国〉のイメージを「心のなか」のステレオタイプとしてあらかじめ引き受けた上で、ずらしている。

穂村さんの「アフリカ」もまたそうなのではないかとおもう。アフリカはステレオタイプになりがちだ。いまだにステレオタイプなアフリカは、ディズニーのジャングルクルーズやひょっとすると『パイレーツ・オブ・カリビアン』で微妙に再生産されているかもしれないが、しかしそうしたステレオタイプな国のイメージをあらかじめ自意識のねじれとして引き受ける(だるいせつないこわいさみしい)。そういう機制としての国の表象の仕方があるのではないか。

  老犬の血の中にさえアフリカは目覚めつつありおはよう、母よ  寺山修司

つまり寺山も穂村さんも両者とも、国を語ろうとしているのではなく、〈国〉というイメージの立ち上げ方を語っているのではないか。〈中にある〉国として。

  行かないと思う中国も天国も  なかはられいこ

川柳において否定語法で語られた「中国」と「天国」。国を語るとしたら、国を語ることの機制を発見しなければならない。国をめぐる短詩をみていると、そんな気がする。国のイメージに、どう、ノイズやスクラッチをしょわせるのか。どう、どう、どう。

  出奔後もまわれ吃りの蓄音機誰か故郷を想わ想わ想わ  寺山修司
  (未発表歌集 月蝕書簡)

          (「テーブルの上の荒野」『寺山修司全歌集』講談社学術文庫・2011年 所収)