2017年8月7日月曜日

続フシギな短詩148[カニエ・ナハ]/柳本々々


  覚えていない隣人の、
  生活の中に存在している、
  自分から分離した、
  新しい家を残して、
  撤退する、あまりにも
  私たちは沈黙の中で
  十数年、慈悲の一つ屋根の下で
  安全だと信じ続けた唯一の
  地球の言葉を忘れないように
  覚書としての
  火傷は腕の中で苦しんで、
  嘆願の最後で
  人は
  共感を拒否された。  カニエ・ナハ「世帯」

カニエ・ナハさんの詩には改行時になにかが起こっている緊張感がある。

詩は、改行を特徴とする文芸だが、そもそも詩にとって改行とはなんなのだろう。高橋源一郎さんが改行についてこんなふうに述べている。

  詩の本質と考えられるものの一つに「改行」があります。「改行」はなぜ存在するのでしょう。私の考えでは改行するのはその行のところでことばの角を曲がるからです。ここを曲がったら、自分の知らないなにかがあるのではないかと思って、角を曲がるのです
  (高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』)

改行とは、〈曲がり角〉であり、「自分の知らないなにかがある」と思ってひとは改行において曲がるのだという。だとすると詩においてドラマチックなのは、記述された文=言葉=意味そのものよりも、その意味が改行に達し、折り返されたときだということもできる。詩は、改行で、ドラマが起こるのだ(これは短歌・俳句・川柳と詩のひとつのおおまかな違いにもなっている)。

このカニエさんの詩「世帯」は語り手が〈改行〉を意識し、〈改行〉そのものと戦おうとすらしている詩である。

語り手は「慈悲の一つ屋根の下」や「安全だと信じ続けた唯一の/地球の言葉」「覚書としての/火傷」「嘆願」を信じようとしているのだが、それらは統合されず、細かい改行のなかで、「覚えていない隣人」や「自分から分離した/新しい家」、「撤退」、「沈黙」「苦しんで」と対立しあっていく。語り手の〈一〉の〈願い〉は改行によって切断=分離され、最終的に改行は「人は/共感を拒否された」と「拒否」に向かう。

改行というのは、認識の分断であり、価値転換だとするなら、詩とは改行をふつうの文章よりも多めに入れることでひとつのイデオロギーでくくらないようにするための文章形式と言えるかもしれない(もし詩のわかりにくさがあるのだとしたらそれはたぶんひとつの価値で価値づけられないからだ)。

詩においては、微細な価値観が改行を介して拮抗しあっている。「共感」が最終的な改行によって「拒否」されるまで、言葉と言葉は「唯一の/地球の言葉を忘れないように」せめぎあっていた。しかしそうした「唯一」の価値観は分断され、「共感」という〈まとまり〉のイデオロギーは「拒否」される。それがたぶん詩だからだ。

わたしたちが詩をひつようとするのは、こうした価値観のこまかい拮抗を託せるからではないだろうか。それは文章という統合形式のスタイルとは異なるものだ。

この詩「世帯」の冒頭にはこんな一節がある。

  誤った情報を信じて
  路上では人々の戦争が続いていた。

「誤った情報」により〈一〉にまとめあげられた路上の人々の戦争は続いている。この〈一〉の戦争に介入していくのが、まさに、詩なのだ。

一気に〈戦争〉と止揚させないように、なにげない生活のなかに〈改行〉を挿し挟んでいくこと。わたしたちの生活のなかにどれくらい〈改行〉を見いだせるかを、詩は問いかけ、賭けていく。

ねむる前に、詩人になってかんがえてみてもいい。もう終わろうとするきょうという一日のなかでどれくらい改行があったかを。でも、かんがえているうちに、あなたはねむってしまう。そして、それでいいのだ。ねむりも、改行なんだから。ねむるあなたは、改行する。改行すると、
朝だ。

  生まれている人が、
  存在しない
  静かな一日を置く、
  いま覚えていることを
  つぎの8月まで覚えておくこと。
   (カニエ・ナハ「塔」)

          (「世帯」『ユリイカ』2016年4月年 所収)