2017年8月8日火曜日

続フシギな短詩150[谷川電話]/柳本々々


  終電の連結部分で恋人を異常なぐらいじっくりと見る  谷川電話

谷川電話さんの歌集『恋人不死身説』は穂村弘さんが「天使解析者」という解説を書いている。だから穂村さんのこんな有名な恋人の歌を引用して考えてみてもいいかもしれない。

  恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死  穂村弘

この歌が特徴的なのは、恋人が過剰反復されればされるほど恋人とは無関係の場所にたどりつくということである。これだけ恋人が繰り返され、かつ、「恋人の恋人」「恋人の死」という扇情的で決定的な喪失をめぐる言葉まで入っているのに(恋人に恋人がいたことが発覚する、恋人が死んだことが発覚する)、一首としては恋人とはまったく関係がないのだ。

恋人は横滑りしていく。なぜなら、〈結婚〉をまだしていない〈恋人〉はわたしに恋をするだけでなく、他者にも恋をする潜在的な可能性をつねに秘めているからだ。そして、わたしが恋人に恋をするならば、他者もまたわたしの恋人に恋をする可能性が潜在的に恋人には書き込まれている。恋人はわたしを離れ恋人をつくるかもしれない。

恋人という存在(ことば)は、だから、リスキーだ。穂村さんの歌のいうように、いつでも横滑りする危険をもっている。わたしたちが、恋人ってなんだろう、って考えたときに、それは穏やかな隠喩(メタファー)にならない。A=Bという安心したパッケージングはできずに、A→Bとどこかに横滑りしていく換喩(メトニミー)存在が恋人なのだ。

わたしはそうした恋人の横滑り性を打破しようとしたのがこの電話さんの歌なのではないかと思う。もちろん歌に語られているとおり、「異常」な部分はちょっとあるのだが、でも穂村さんの歌をふまえてこの歌をかんがえたとき、この歌が行おうとしている〈恋人の記号学〉のようなものがあるように思えてならないのだ。

「恋人を異常なぐらいじっくりと見る」。「異常なぐらい」と語り手本人も〈異常さ〉を意識している。たとえば恋人を安心して眺めるとか、眼をみつめあわせるとか、会話しあうとかそういったことではない。「異常なぐらいじっくりと見る」のだ。これは恋人を〈喩え〉に回収させない行為といっていい。それどころか恋人とわたしの関係を逆説的にぎりぎり切り離す行為といってさえいい。

「恋人を異常なぐらいじっくりと見」ているときに、見ている〈わたし〉は恋人にとっての恋人でなくなってしまっているかもしれないのだ。それは「異常」事態なんだから。それでも〈わたし〉は異常なぐらいじっくりと見る。なにかを思ったりもしないし、比喩も差し挟まない。穂村さんの歌は、恋人が他者になっていく大きなレトリックになっていたが、そういう言葉のレトリックに恋人を回収させることもしない。

ここには「異常なぐらいじっくりと見」られる「恋人」と、「異常なぐらいじっくりと見」ている「恋人」がいるだけだ。

でもここにこの歌の恋人の記号学のフレッシュな感じがあるように思う。恋人をいくら隠喩や換喩のレトリックで語っても、しょせんそれは言葉なのだから、恋人は消えてしまう。恋人をほんとうに語るとするなら、恋人をもうどこにもいかせないかたちで、かつ自分自身が〈恋人でなくなりそうなヤバいリスク〉も背負いつつ、「じっくりと見る」しかないのではないか。ただ、ほんとうに、異常なぐらい、じっくりと、見る、こと。

「終電の連結部分」だから、ここは〈終わりの場所〉でありながら〈つづく場所〉でもある。なにかが終わっていて、なにかが続いている。「じっくりと見る」わたしはなにかが終わっていて、なにかが続いている。あす恋人でなくなるかもしれないし、あす恋人でいつづけるかもしれない。いまわたしでなくなってるかもしれないし、いまわたしをつづけているかもしれない。

歌集タイトルは『恋人不死身説』というすごくインパクトのあるタイトルになっている。でも、ほんとうに恋人としての不死を願っていたのは、目の前の恋人とは無関係に、〈わたしが恋人であること〉ではなかっただろうか。あなたの不死を願っていたのではなく、じつはわたしが恋人であることの不死を願っていたのではないか。

誤解を恐れずにいえば、たとえあなたがいなくなっても、めのまえの恋人がたとえいなくなったとしても、わたしが恋人として不死ならばこの説、恋人不死身説は、補完される。《わたしはあなたがいなくなっても恋人でいたい》という恋人説の過激さ。そして、だからこその、、なのだということ。

電話さんは「あとがき」でこう書いていた。

  ぼくは恋人のまま消滅したいのかもしれない。

この歌集は、《ぼく=恋人》という等式で終わった。そしてこの歌集は、〈わたし〉が「恋人」をじっくりと見ることではじまっていた。

実は、恋人というのは〈ひとり〉存在なのではないか。〈ふたり〉ではなくて。そしてそう思えたときに、いや、説を唱え、思おうとしたときに、恋人は「不死身」になる。穂村弘の歌の「恋人の死」は、〈ひとりでも恋人の不死身の詩学〉というたくましさを得て、「恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の不死」になる。

  「お客さまおひとりですか?」「ひとりですこの先ずっとそうかもしれない」  谷川電話

          (「恋人不死身説」『恋人不死身説』書肆侃侃房・2017年 所収)