2017年8月31日木曜日

続フシギな短詩190[奥村晃作]/柳本々々


  中年のハゲの男が立ち上がり大太鼓打つ体力で打つ  奥村晃作

穂村弘さんがこんな解説をしている。

  奥村晃作には、普通の大人が当然身につけている筈の意識のフレームがない。生存に優位な情報を重く見て、そうではない情報を軽く見るという判断が解体されている。……「中年の」においても「ハゲ」に対する偏見がゼロである。
  (穂村弘『近現代詩歌』河出書房新社、2016年)

実はこの歌をわたしはずっとある別の歌人のひとが詠んだ歌として記憶していた。でも、その〈まちがい〉に意味があるような気がして、すこし考えてみたのだが、ここにはこの語り手の独特のフレームがないために、実は、〈だれ〉が詠んでも、〈だれ〉がこの風景を観ていても、かまわないということなのではないかと思うのだ。零度の風景。だから、実はこの歌は、だれが署名しても、いい。でもそのだれが署名してもいい歌というのを歌としてつくりあげてしまったところにこの歌の署名性がある。

ところでこの歌には形容詞がひとつもないことに注意したい。形容しないからこそ、ここには語り手の意識がないように感じられるのだ。情報処理感覚がないというか。まるでボルヘスが創造した架空の国「トレーン」の逆バージョンのようなかんじなのだ。

  トレーンでは誰も見ていなければ月は存在せず、そもそも「月」を表す名詞すら無くて「暗い=円い、上の、淡い=明るいとか、空の=オレンジ色の=おぼろの」というような形容詞の連なりがあるだけだそうです。瞬間聖者や瞬間動物たちの世界とも言えるでしょう。なにしろ、今日から明日までずっと存在する月、もしくはあなたや私、という「もの」は存在しないし、だからといって、今が特別重要なわけでもありません。今が特別だと思うのは、私達のような、今以外の存在も暗黙に認めている俗人です。
  (西川アサキ『ユリイカ臨時増刊 『シン・ゴジラ』とはなにか』)

形容詞しかない国「トレーン」に比べて、事態はまったく逆である。奥村国は、形容詞のない国だ。トレーンでは形容詞しかなく名詞(カテゴリー)がないために瞬間的な意識しかないのだが、奥村国には形容詞がないことによって、ずーーーーっと続く純粋なカテゴリーが逆に感じられる。無限持続カテゴリーといったらいいか。ただしそれは意識ではなく、無限に続くカテゴリーの1コマに過ぎない(アゴタ・クリストフの『悪童日記』やトゥーサンの『浴室』みたいな)。

だからここでの「中年のハゲ」は、純粋に持続するカテゴリーでしかなく、語り手はカテゴリーになんの感情ももっていない。それは、ずーっとなんにも変わることなく持続していく「中年」カテゴリー、「ハゲ」カテゴリーの群れでしかなく、それは〈意識〉されなかったものであり、「中年」「ハゲ」「男」「立ち上がる」「大太鼓」「打つ」「体力」「打つ」と名詞と動詞が並べられただけである。

ここには瞬間的な感覚がない。瞬間的な〈感覚する〉がないので、このカテゴリーを使って語り手は明日も明後日も明明後日も十年後も百年後もまったくおなじ風景をみることが、再現=表象することができる(まるでボルヘスの「不死の人」みたいだ)。ここにはカテゴリーしかないので、百年後、やはり、中年のハゲの男が立ち上がる、立ち上がり大太鼓打つ。年齢も頭髪も体力もまったく変わらずに。語り手はそのときもカテゴリーにであうだけで、かなしいとかやさしいとかはげしいとかせつないとかすきとかきらいとかは、おもわない。それはカテゴリーにはならない。瞬間意識になっちゃうから。 

そう言えば、西川さんはこうも言っていた。

  (トレーンには)死の恐怖はありません。「死ぬ者」がいないからです。
  (西川アサキ『ユリイカ臨時増刊 『シン・ゴジラ』とはなにか』)

しかし、ずーっと持続してゆだけのカテゴリーも、逆に痛みや死を消してゆくのではないだろうか。カテゴリーに、〈痛い〉という形容詞はないから。

  転倒の瞬間ダメかと思ったが打つべき箇所を打って立ち上がる  奥村晃作

          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)