2017年8月28日月曜日

続フシギな短詩182[芦田愛菜]/柳本々々


  ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 ……なんだったかな下の句  芦田愛菜

『徹子の部屋』のゲスト芦田愛菜さんの回をみていたら、いま中学校で百人一首が流行っているという。黒柳徹子さんから、好きな歌あります? と聞かれ、芦田さんがすらすら暗唱したのが、

  いにしへの 奈良の都の 八重ざくら 今日九重に 匂ひぬるかな  伊勢大輔

「八重」と「九重」の掛けが好きだという。たしかに視覚的にわかりやすいし面白い。芦田さんはすらすらと朗唱する。ほかに、

  瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ  崇徳院

この歌はストーリーが好きだという。やはり芦田さんはそらですらすら朗唱する。川の水が割れてもまた合流する感じを、ひとが別れてもまたいつか出逢うことにたとえた歌はたしかに話として面白い。

でも学校では「ちはやぶる」の歌がいちばん人気なのだというと、黒柳さんが「やって」という。「やって」と。「なんだっけ」という芦田さん。でも、やってみる。

  ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 ……

まで行ったものの、「なんだったかな下の句」と止まる芦田さん。黒柳さんも、わからない。ふたり、だまる。とつぜん、「どなたかご存じ?」と観客席に話しかける黒柳さん。観客席への下の句のヘルプ。観客席に百人一首にくわしいひとがいるのか。すると、観客席から反応が。黒柳さんが「ん?」と聞き返すと、(すいません、知りません)というただの負の反応で、「あ、ご存じじゃないの」と黒柳さん。会場は穏やかな笑いにつつまれた。終わり。

いや終わりじゃなくて、私が興味深いなと思ったのが、芦田さんが上の句まではすらすら暗唱したにもかかわらず、下の句を忘れてしまったように、上の句と下の句の間にある微妙な〈裂け目〉である。575と77のあいだにある微妙な記憶の境界。これは、歌の記憶の整理のされ方が、〈575〉というパッケージングと〈77〉というパッケージングに別れていることをあらわしていないだろうか。

  ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 から紅に 水くくるとは  在原業平朝臣

《すごい神々の時代にも聞いたことがないような龍田川だ。紅葉で水がまっかに染め上げられている》というような意味なのだが、「八重/九重」「割れた川/別れた人」という上の句と下の句の対照がないので下の句を忘れてしまうと思い出しにくい。また第3句が「龍田川」と名詞で終わることによって、体言止めの〈終わった感〉が出てくるのもいっそう忘れやすくなっている。下の句で、川がすごい! と思った理由が示されるが、すぐわかるような覚えやすい上の句と下の句の対照がないのだ。

575(上の句)と77(下の句)の間には、こんなふうに各歌にしたがって、接合やアクセスの仕方が異なり、その差異が読み手の心象や記憶にそのつど違ったバイアスを与えているといえないだろうか。図示してみると「八重/九重」の歌は、

  575⇄77

「割れた川/別れた人」の歌は、

  575=77

「ちはやぶる」の歌は、

  575←77

こうした接続方法の差異により、57577のトータルイメージとしての心象が変わってくるように思うのだ。あるいは、記憶のありかたが(ちょっと漱石『文学論』のF+fみたいだが)。

上の句と下の句の接合点(ジャンクション)のようなものについていつも思考をめぐらしているジャンルがある。連句だ。浅沼璞さんは、1句、2句、3句、4句と続いていくときの連句の接合イメージをこんなふうに視覚化している。

  ┃(発句=立句)
  \(脇句)
  ─(第三句)
  ─(平句)
  (浅沼璞『俳句・連句REMIX』)

詳しくは浅沼さんの本で確認してほしいのだが、私が乱暴な言い方で解説すると、連句のいちばん最初の発句は、縦にすっと落ちてゆく線になる(俳句が、そう)。縦に落ちてゆくので、もう後はいらないよ、というイメージである。だから、縦棒。自立できている、一人前の大人のような句だ。

ところが連句は、そこから続いていく(連句の大事なところは、前進あるのみ、なので)。二番目の「脇句」は、いちばんめの発句を気にかけながら、三番目にくる句も気にかけなければいけない。脇にそうコーディネーターみたいなところがある。だからここではどっちも気にかける視覚イメージの「\」が用いられている。大人にも子どもにもなれない、どちらへも揺らいでいる青年のイメージといってもいいかもしれない。

三番目、四番目は、平句といって、べたーっとした句がつづいてゆく。これは、つながっていく句で、ひとりだちしない、こう言ってよければ、自立できない、こどものような依存する句である(ちなみにこの平句が川柳である。だから川柳には「切れ」がない。べたーっとしているが、そのべたーっが散文的な詩情を呼び込んでくる)。でもそのかわり、どんどん横に続いていくこともできる。この横に移動していく運動は、実は、短歌にも川柳にも俳句にも確認できる。「連作」と呼ばれるものだ。「連作」は合間合間につまらない、ひらたい、意味もないような、つなげるだけの歌や句を入れなければならない、というのはここにある(と思う)。

こういうふうに連句は、接合ポイント、アクセスポイントをたえず気にかけている。というか、私は連句とは実は〈そこ〉を気にかける文芸であり、そして〈そこ〉を気にかけたときはじめて「座」の意識がでるのではないかとも、おもう。

芦田さんに戻るが、芦田さんの「なんだったかな下の句」はこうした接合ポイントはなんでしょう、という問いかけを行っているようにも、思う。もちろん、おまえが思ってるだけだよ、と言われればそれまでだし、それまでだが、今回は、それまでを書いてみたかった。

  寺山修司は「現代の連歌」について、「日本文学の縦の線を横の線におきかえる意図にはじまっている」とエッセイのなかでのべています。
  (浅沼璞『「超」連句入門』)

          (「芦田愛菜」『徹子の部屋』テレビ朝日・2017年8月28日 放送)