2017年8月26日土曜日

続フシギな短詩176[岡部桂一郎]/柳本々々


  父母(ちちはは)よ杖つき歩む夕方のこの桂一郎をご存じですか  岡部桂一郎

文字と意識をめぐる話を前回したのだが、岡部さんの歌にも、文字とわたしをめぐる微妙な意識があらわれているように思うことがある。

掲出歌では、「この桂一郎」となっている。「この桂一郎」は、この歌に署名した「岡部桂一郎」のことである。だから「この」と言っている。語り手にとっては、「この桂一郎」は、いま・ここ・「この」桂一郎しかいないからだ。

ところがこの歌が不思議なのは、〈このわたくし〉としないで「この桂一郎」としたところだ。「桂一郎」という〈わたし〉を固有名としての「文字」として媒介したことで、「桂一郎」は分岐する。「父母」にとっての「この桂一郎」と、「岡部桂一郎」のいま・ここの「この桂一郎」に。そして第三者的な、「父母」も、「岡部桂一郎」も、知ることのない、第三者がみている「この桂一郎」に。

「桂一郎」は「桂一郎」を媒介する。「父母」は普遍的な名詞で語られたために、分岐はしない。そこに収束してゆくのだが、「桂一郎」は、「この桂一郎」と語られた瞬間、分岐してゆく。〈どの桂一郎〉なのか、と。それは「桂一郎」が「桂一郎」しかあらわさないからであり、すでに「桂一郎」には〈この性〉が含まれているはずなのに「この」と名指ししてしまったからだ。

わたしも混乱しているのかもしれない。こんな歌もみてみよう。

  生き死にのことにふるるなかたわらに岡部桂一郎全歌集ある  岡部桂一郎

「かたわらに岡部桂一郎全歌集」があるとどうして「生き死に」のことにふれてはいけないのか。たとえばこの歌を「岡部桂一郎」さんのかたわらに「岡部桂一郎全歌集」がある歌としてみる。そうすると、文字上は、岡部桂一郎は〈分岐〉することになる。岡部桂一郎の生は岡部桂一郎にあるが、岡部桂一郎がそれまでの生で書き継いできた歌は「岡部桂一郎全歌集」にある。そして「岡部桂一郎全歌集」はすでに出版されてあり、岡部桂一郎の予想外のところにも、予想外の人間の「かたわら」にもある。わたしのてもとにも歌集がある。

だとしたら「生き死に」をうんぬんする〈岡部桂一郎〉はどのように測位すればいいのだろう。なにかを書き付けたとき、そしてそのテクストがもう放たれたとき、ひとの〈生き死に〉というものは、だれが・どこで・どのように測位するものなのだろう。

わたしは、わからなくなる。でも「ふるるな」というので、わからなくなって、正しいような気もしている。

ときどきは、いや、しばしば、よくわかんないことのほうが、正しい。

  3に5を足せば桂一郎9になるなあ?そんなむずかしいこと聞かれても  岡部桂一郎

          (「施設夕ぐれ」『坂』青磁社・2014年 所収)