2017年8月20日日曜日

続フシギな短詩164[松井真吾]/柳本々々


  十二支の端から食べてゆく鼬  松井真吾

松井さんの句集はすごく大きい。縦25cm位、横18cm位のB5サイズで、大学ノートとおなじ大きさだ。これはでかい、と率直におもう。こんなにでかい句集には出会ったことがなかったし、これからも出会わないかもしれない。そんなでかさとすごさがある。

しかも、表紙が象の写真なのだが、象の頭ではなく、姿でもなく、お尻なのだ。象のお尻がでっかく表紙になっている。物質的にでかいだけでなく、意味生成としてもさらにおおきなことをしようとしている。とにかく、でかいものをめぐっている。俳句がでかいものをめぐるってどういうことなんだろう。

例えば掲句。鼬(いたち)が十二支の動物たちを端から食べてゆく。たった17音なのに、そう言われてしまうと、スケールがでかい。鼬は牛も虎も龍も食べるだろう。

こんなミクロコスモスとマクロコスモスがであう句も。

  白魚を載せて気球の飛び立てり  松井真吾

白魚というミクロコスモスをのせてマクロコスモスの大空へと気球が飛び立っていく。これは「でかい」というか、考えてみると、「めまい」だ。

  いっせいに椅子の引かれる蜃気楼  松井真吾

とたんに全員の座っている椅子が引き抜かれ、全員が後ろにひっくりかえるバスター・キートンの総動員。これは「でかい」というか、「いたい」。

松井さんの俳句のおもしろさのひとつは収拾のつかない空間である。

  噴水に家族写真のばら撒かれ  松井真吾

  涅槃図のトムはジェリーを追いかける  〃

  きみとぼくだけの学級閉鎖春の雪  〃

  向日葵のアジトで内緒の少女たち  〃

区切られた空間で収拾のつかないなにかが起ころうとしている。それはあらたな空間の収拾のつかなさを呼ぶだろう。象のお尻みたいに。そう、象のお尻とは、収拾のつかない空間の生成なのだ。だからこの句集がでかいのには、《わけ》がある。とりとめもない空間に読者も《体感的》にそれは巻き込もうとしているのだ。

  蜘蛛の巣にピントを合わせ世界散る  松井真吾

だから松井さんのこのでかい句集を手にとって、でかいな、と思いながら、あなたも、巻き込まれてみてほしい。このでかい空間に「ピントを合わせ」世界の遠近を「散」らせてみてほしい。

夏休みだってもっとアナーキーな「死後」を含んだ空間だっていいのだ。収拾のつかなさとしての生前=整然として。

  死後さばきにあうぼくたちの夏休み  松井真吾


          (『途中』2016年 所収)