2017年8月5日土曜日

続フシギな短詩147[種田山頭火]/柳本々々


  分け入つても分け入つても青い山  種田山頭火

高倉健最後の主演作品となった降旗康男監督の映画『あなたへ』は、高倉健演じる主人公が死んだ妻の真意を知るために長崎県まで旅をする物語なのだが、その旅の途上でおなじく旅をしている国語教師と名乗るある男に出会う。その男は北野武が演じているのだけれども、北野武は高倉健に種田山頭火について話してくれる。こんな内容だ。

旅と放浪の違いはわかりますか。芭蕉は旅をしたひとです。山頭火は放浪をしたひとでした。要するに旅と放浪の違いは、《目的があるかないか》なんですよ。

そして北野武は山頭火の「分けいっても分けいっても青い山」の句をつぶやく。つまり、放浪しても放浪しても目的がないのでどこまでも「青い山」が続くということだ。どこにもたどりつかない。それは「青い」という絵画的修飾が示すようにまるで遠景からとらえられた「山」なのだ(ほんとうに今わけいっている人間が「青い山」だなんて認識するだろうか?)。

そう、この句には「分けい」るという近距離なのにもかかわらず、近距離と遠距離がないまぜになっていく瞬間そのものが描かれている。近距離と遠距離がごたまぜになって見境がつかなくなる倒錯的〈放浪〉のしゅんかんが。

もちろん繰り返すがそれはどこにもたどりつかない。

でも、それは、いい。

今回気になったのは自由律についてである。映画のなかの北野武は、この句の内容に沿って「目的」がないことを「放浪」といったが、しかしそれはむしろ形式面においていえることなのではないか。

定型は17音と音数が決まっている。その意味で、定型は、しっかりとした目的のある目的論的形式である。17音にむかってわたしたちはことばを紡ぐのだ。

でも、自由律はちがう。自由律は、「自由」の名のとおり、非目的論的形式である。そこには「目的」がない。つまり「自由律」とは「自由」が目的というよりは、目的論的形式のレールから逸脱しつづけることが唯一の非目的的目的と言える。もちろんそれは込み入った考え方だ。しかし「分け入つても分け入つても」そのものは込み入っている。大事なことなので二回も「分け入つて」込み入っていく。しかしそれでもぜんぜん対象物は近接せずに、「青い山」として遠景化されていく。こうした目的志向(分け入つて)が非目的物(青い山)としてたえず逸脱してしまう非形式的形式こそが自由律なのではないか。

北野武は実は「国語教師」ではない。車上荒らしの犯罪者である。警察に取り押さえられた彼は「旅をしているうちに目的を見失ってしまいました」と高倉健にむかって悲しそうに笑う。でもそれこそが、まさに「分け入つても分け入つても山」の体現そのものなのである。目的志向を反復するうちに、非目的志向の内側にとらえられてしまう。むしろ目的としていたはずのそれそのものから自分自身が被目的化されてしまう。「青い山」が遠景になったのは、目的を見失ったからではない。みずからが被対象化されてしまったのだ。《こちら側》が遠景になってしまったのである。だから、たどりつかない。

自由律とは、どこかで、遠近の倒錯なのだ。だから、

  墓のうらに廻る  尾崎放哉

映画のなかの北野武は旅のもうひとつの特徴を語っていた。「旅とは、帰るところがあるということです」と。

でも、遠近が倒錯してしまった人間には帰る場所なんてない。だから自由律の人間は、いつも、さみしい。あるいてもあるいてもまっすぐな道なのにぜんぜんどこにもたどりつかない。たどりつけない。歩いても歩いても。

  まつすぐな道でさみしい  種田山頭火


          (降旗康男『あなたへ』東宝・2012年 所収)