最初読んだときは、只事俳句だと思った。ところが、ことあるたびに思い出す。この句には人間の普遍の憧れが沁み出しているのだと、ある時、気づいた。人間にはどんな苦しいときでも、空を仰ぐという行為がある。空を仰ぐとは、空(くう)を仰ぐことであろう。子供など、行き場がないときほど、いつまでも空を仰いでいるものだ。
たとえ行き場があっても、一日が終わろうとするときに、なんとなしに空を仰ぐ。誰でも覚えがあるだろう。その行為に秘められる意味は大きいのだ。
空は、人間の如何なる喜怒哀楽にも応じられる深みを持つ。人間は空を仰ぐとき、自分を忘れるという試みをしているのである。掲句で「刻」という字を使うのは、人間の生きている時間が、永遠の空から見れば、一瞬の刻み目に過ぎぬという認識を表わしている。
掲句の空には雲が出ている。夕方なので、当然、雲は美しく燃えている。いわば、空の花である。そして、地には草の花がある。この季語が下五に置かれているのは、目線の移動を表わしている。先ず空を仰ぎ、それから地に目を落とす。空には赫赫たる雲の花、地には慎ましい草の花、されば人間は如何に、という問いが、掲句には隠されている。
無論、人間も花であり、考える花であろう。ありきたりな、名も呼ばれぬ花である「草の花」と、これ以上ない大輪の花である雲の間で、人間は如何なる花であるか。いや、作者は自身を如何なる花と観ているのか。
「季語は自分である」という作者の常日頃の主張に沿うなら、華たる雲よりも草の花であろう。なぜなら、人間は空ではなく、地に生きざるを得ないからである。それでも、華たる雲を憧れて仰ぐ。その憧れこそは、華たる雲にも比する花であろう。平成十六年作。