2014年10月15日水曜日

今日の小川軽舟 9 / 竹岡一郎

虹といふ大いなるもの影もたず      「呼鈴」

 全て存在するものは影を持つ。虹は確かに影を持たない。では、虹は非存在であるか。そうかもしれぬが、一方で虹が実存しているかどうかは、我々人間が「人間の認識の領域」に留まっている限り、窺い知ることが出来ない。我々は存在しているが、実存してはいない、というと仏教の認識論になる。「諸法無我」とは、判りやすく言うと「世界には実体がない」。「三世十方法界に常住の諸仏諸菩薩」と云う、その場合の「常住」とは即ち「実存」である。後は「言説(ごんせつ)不可(ふか)得(とく)」、論理ではなく、直感で認識するしかない。その直感の到達する範囲をどこまでも広げてゆく努力が、「精進力」というものであると思う。

掲句に戻ると、非存在であるからこそ、「大いなるもの」なのである。存在していれば、どんなに大きくとも、その形の枠内に留まらざるを得ない。虹が影を持たぬのは、我々から見れば悲しみかもしれぬ。虹自身から見れば、歓喜かもしれぬ。句集では掲句の前に、

ものにみな影戻りきて虹立ちぬ
なる句が置かれている。一方では虹が立ち、他方で諸々の「もの」には、存在し且つ非実存である悲哀が、影となって戻り来るのである。戻り来る前には、影の無い時間があったであろうが、それはどんな時間であるか。夜、ではつまらない。ものが「もの」として有ることを忘れている、無我の時間ではないかと取りたい。全て「もの」は有情無情に拘らず(人であろうと虫であろうと草であろうと石であろうと)、存在しようとする意志ゆえに存在するのである。どうも倶舎論になりそうなので、もうやめておく。平成二十二年作。