2014年10月29日水曜日

今日の小川軽舟 19 / 竹岡一郎

ひぐらしの声いくつかは鏡文字      「呼鈴」

難解な句である。前衛句と言っても良い。小泉八雲は、蟬の鳴き声の中で蜩が最も美しい、と言ったそうだ。蜩の声はどこまでも広がってゆく観がある。朝方にも鳴くが、蜩と聞いて思い浮かべるのは「日暮」の意の通り、夕暮れであろう。あの果てしない単純なリフレインは、人を瞑想に誘う。
永遠にフラットであるような、あの調子にも僅かに変化が聴き取れる時がある。その瞬間の声を「いくつかは」と表現し、鏡文字に喩えたのだと読む。

鏡に映して初めて読み取れる鏡文字は、秘すべき記述に良く使われる。錬金術など、世界の秘密について記した本を思えば良い。蜩の声は世界の秘密、具体的には日本の山河の秘密を、秘密のまま展開してゆくのであるが、作者は声の一瞬の僅かな乱れに、その秘密が開示されかかるような思いを抱いたのであろう。

個人的には、貴船の檜の森を思う。何処までも同じ景が続く、懐かしく、清々しい香に満ちた異界だ。蜩の声に包まれて、いつまでも彷徨っていれば、ある時、世界の秘密が垣間見えるだろうか。平成二十一年作。