月光の途中に地球月見草 「呼鈴」
月は普段の人間の目線から見ると、地上を照らしているように見えるが、宇宙から見た場合、月球は太陽の光を反射している、いわば球体の鏡である。必ずしも地球だけを照らしているわけではない。
月光という、太陽の光の反射である光の途中に、偶々地球が有るだけだ、という思考は、人間中心主義からも地球中心主義からも遠く離れた、大きな思考である。
季語の「月見草」は付き過ぎのようでいて、実は含蓄がある。「月見草」と呼ばれる草の立場から言えば、別に月が見たくて咲くわけではあるまい。本当は、月が見たいのは人間である。美しい月をいつまでも見ていたい心情を、月光を思わせる色に夜通し咲く小さな花に託し、月見草と呼ぶのだ。
即ち、この季語は作者の心情である。「月光」という太陽の反射光の進む途中に偶々有るに過ぎない地球、その表皮の在るか無きかの一点に月を眺めている自分。宇宙から見て、月見草と人間である自身の違いは如何ほどであろうか。ほとんど区別できないであろう。そう考える眼は、巨視的と言っても良い客観である。平成十九年作。