テレビの罪とは情報の受動性にあり、テレビばかり見ている子供は物を考えなくなる、とは、高度成長期に良く聞いた論調だが、テレビ世代がもう五十を過ぎる今、それほど馬鹿になったとも思われない。むしろ個々の人間は、昔よりも良く考えるようになったと思う。テレビからインターネットへ移行する時点で、情報は一気に多様化していったが、考える者はますます考えるようになった。それは膨大な情報を取捨選択する過程で、思考の垣根というものが取り払われていったからだと思う。思考にタブーというものがなくなった。これは素晴らしいことだと思う。
さて、掲句は、平成のリビングでテレビを見ている子供に、作者が自身の子供の頃を重ねているのだと読んだ。昔と今では、何が違うのだろう。その考察が「こほろぎ」の季語に表われている。昔あって今少なくなってしまったものは、鳴く虫の数、ではない。仮に鈴虫、或いは草雲雀、又はキリギリスと比較してみるとき、こおろぎの声は、鳴く虫の中で最も平凡で、普遍的で、伸びやかであろう。
その平凡であり、普遍的であり、伸びやかである事、それが昭和の高度成長期と重なるのだ。世の中に平等が満ち、誰でも働けばそれに見合う収入が得られ、未来はますます良くなるだろうという希望に、一億人があやされていた時代、子供の見る番組は単純で、ヒーローと悪党、善と悪がはっきり区別されていた時代だ。
しかし、それは結局の処、夢なのだ。夢であったことが判る今は、良い時代かもしれぬ。渾沌として惨たらしくとも、夢に盲いているよりは遙かにマシだと思う。平成十八年作。