2016年3月25日金曜日

フシギな短詩9[佐藤文香]/柳本々々



  あいたいしたいやきにくちかくおねがい  佐藤文香


「●恋愛編」と頭に小タイトルが振られているなかの一句。だから〈恋愛〉をめぐる句だ。

難しい句だと思う。でも、その〈難しさ〉〈読みにくさ〉がまずこの〈恋愛〉の俳句では大事だと思うのでその〈難しさ〉から始めてみたい。

どういうことか。

  あいたいしたいやきにくちかくおねがい

一読して、分節しがたいのだ。すべてひらがなになっているのもその一因になっている。五七五定型でうまくいかないのも。

でも難渋しているうちに、ふっと、こんなふうに思う。

簡単にわかっても逆にだめなんじゃないか。なぜななら、これは〈恋愛〉をめぐる句なんだから。

〈恋愛〉というのは当事者の二人がわかればいいのであって、実は第三者が〈わかりやすい〉必要はない。というよりもむしろ第三者がわかりにくいほどに、第三者を理解されない他者として〈疎外〉することによって、当事者間の恋愛的共同意識は生まれるのではないか。

恋愛とは、言ってみれば、〈疎外〉なのだ。

だからこの〈読みにくさ〉は〈恋愛〉をめぐる句としてのひとつのポイントなのではないかと思う。

ここで《あえて》この句を分節してみよう。

  会いたいし/鯛焼きに口/書くお願い

  会いたい/したい/焼き肉近く/お願い


こんなふうに無理にすれば分節できるのだが、たとえ分節しても明確な意味や風景を結ばない。

でも、無理に分節してみると、ひとつだけ、わかることがある。それは、どんなふうに分節しても「会いたい」と「お願い」《だけ》はくくりだせることだ。

つまり、この句は、「会いたい/お願い」の句なのではないかと私はおもうのだ。誰かが無理に分節したり割り込んだりしても、この句は「会いたい/お願い」を発しつづける。そういう句なんじゃないかと。

そして〈恋愛〉とは、とどのつまり、「会いたい/お願い」のことではないかと思うのだ。あなたに「会いたい」こと。それを「お願い」しつづけること。「会いたい/お願い」だけはなにがあろうと〈分節〉できない/させないこと。〈俳句〉でさえも。

もちろん、語り手が「会いたい」のはこの句を読んでいる読み手の〈わたし〉のことではないのだから、読み手は〈疎外〉されつづけるだろう。「会いたい」が〈おまえに会いたい〉わけではないと。でも、さっきも述べたように、

恋愛とは、疎外なのである。

いや、わからない。わたしの〈読み〉は間違っているかもしれない。

でも、それが問題があるだろうか。

これは、〈恋愛〉なのだ。

むしろ私がその〈恋愛〉を理解できなくて、拒絶されるほうが、〈正しい〉のではないだろうか。

わたしは〈読み〉においてこの句から〈疎外〉されている。

でもそのことによって、これはやっぱり〈恋愛〉をめぐる句なんだと〈体感的〉にわかる。

そうなのだ。

恋愛とは〈俳句〉に疎外される〈わたし〉のことだ。

          (「ヒビのブブン」『しばかぶれ』第一集・2015年11月 所収)

2016年3月18日金曜日

フシギな短詩8[宮本佳世乃]/柳本々々



  桜餅ひとりにひとつづつ心臓  宮本佳世乃


前回は中山奈々さんと〈心臓〉をめぐる話で終わった。奈々さんにとって〈心臓〉は〈どっかにある〉ものだった。


佳世乃さんにとっては、どうか。

それは、「ひとりにひとつづつ」あるものだ。

どうしてこんな〈当たり前〉なことに語り手は気がついたのか。

それは季語「桜餅」を通しての発見だった。私はそう思う。

桜餅は、餡がピンクのもち米によって包まれ、さらにそれが、塩漬けされた桜の葉によって包まれている食べ物だ。ある意味で、構造化された食べ物であり、きちんと〈定型(作り方)〉が決まっている〈定型的な食べ物〉だ。

〈心臓〉も、そうだ。わたしたちが〈どう〉あがいても、奈々さんが〈どっかにある〉と措定しても、〈心臓〉は〈ひとりにひとつづつ〉しかない。それが〈心臓〉の〈定型〉だ。ひとつにひとつずつ餡が律儀に詰まった「桜餅」みたいに。

そしてその〈当たり前〉の〈心臓〉の〈事態〉を語り手は〈律儀に・きちんと〉定型におさめた。定型的な心臓を定型でもういちど組織化した。それが語り手にとっての〈心臓観〉になるんじゃないかと思う。定型できちんと〈心臓〉をおさめられたこと。そうで《しか》ないあり方で〈心臓〉を詠むこと。生の律儀さを、みくびらないこと。


  ひとつづつ細胞の核春の山  宮本佳世乃


語り手は〈これしかない〉身体に気がついている。ひとりにひとつずつの心臓、ひとりにひとつずつの手、ひとりにひとつずつの足、ひとりにひとつずつの内臓、ひとりにひとつずつの細胞の核、ひとりにひとつずつの身体の《仕組み》。わたしたちの身体は、桜餅のように、驚くほど律儀だ。

  死に行くときも焼きいもをさはつた手  宮本佳世乃

そのひとりにひとつずつ与えられた身体の仕組みを背負って死んでいくことも、語り手は、ちゃんと知っている。ひとりにひとつずつ与えられた「手」をもって、わたしたちは、死んでいくのだ。

それは、公務員のような神様が、律儀にもわたしたちにひとりにひとつずつ与えた、生だ。


          (「星に塗る」『鳥飛ぶ仕組み』現代俳句協会・2012年 所収)

2016年3月11日金曜日

フシギな短詩7[中山奈々]/柳本々々



  絆創膏外す大きな春の夢  中山奈々


前回は関悦史さんの〈傷〉の句で終わったが、〈傷〉といえば中山奈々さんの一連の俳句には〈傷〉があるとわたしは思う。

たとえば、掲句。「絆創膏」を貼っていたのはもちろんそこに〈傷〉があったからだ。「絆創膏」を「外す」のだから〈傷〉も癒えようとしている。


しかし。


同時にその〈傷〉を季語が担保しようとしているようにも私にはみえる。この句の季語は「春の夢」だが、その「大きな春の夢」によって、ほんとうに〈傷〉が癒えたのかどうかはわからなくなっている。〈治癒〉はただ〈春の夢のごとく〉いっしゅんの大きな夢だったのかもしれないから。

「大きな春の夢」。ふしぎな言辞だ。「大きな」とはなんだろう。ここには明らかに語り手の偏差(バイアス)がある。この「大きな」はなんに対する「大きな」だろう。もちろん、「夢」の大小を語り手は語っているのだが、しかし、「夢」に大小などあるのだろうか。「夢」は「夢」でしかないではないか。

この「大きな」は「夢」ではなくむしろ「絆創膏外す」に掛かっていくものかもしれないとも、思うのだ。語り手はここで〈傷〉の大小のレベルを語っているんじゃないかと。

  吐くたびに死なうと思ふ寒の内  中山奈々

  切腹のやうな腹痛十二月  〃

  生理痛きつい日パセリまぶしい日  〃

だとしたら、絆創膏は《外せない》、のかもしれない。「大きな春の夢」は「絆創膏」を「外す」ことの〈可能性〉と〈不可能性〉として機能しているようにも私は思う。それは〈どっか〉にある希望であり、絶望である。

  心臓はどつかにあつて春の雨  中山奈々

心臓が「どこ」にあるかはわからない。でも同時に「どつか」にあることも語り手は知っている。

〈傷〉も、そうだ。どこかにあることは知っているが、そのどこかはわからない。それは「春の夢」を通して《だけ》わかる〈傷〉なのだ。

でも〈傷〉のありかは問題ではない。問題は、〈傷〉とともに生きる〈すべ〉なのだ。奈々さんのこんな句を見てみよう。

  茂吉忌や床の一部として過ごす  中山奈々

語り手は〈傷〉とともに生きていく〈やり方〉を知っているようだ。「床の一部として過ごす」ことを。〈傷〉のやり〈過ごし〉かただ。

語り手はたとえ自らの〈傷〉がピンポイントで〈どこ〉にあるかはわからなくても、その傷を世界の〈一部〉に所属させ、生きていくだろう。

傷は、〈切断〉の記号ではない。〈付着〉の記号なのである。

わたしもときどき「床の一部」になる。つっぷしたまま、動かないでいる。

でも、奈々さんを通して、私は〈傷〉について既に学習している。そうか、ってわたしはつっぷしながら、おもう。

〈傷〉って消すもんじゃないんだよ。生きられるものなんだ。

私は、もっと、床の一部になる。

          (「綿虫呼ぶ」『しばかぶれ』第一集・2015年11月 所収)

2016年3月4日金曜日

フシギな短詩6[関悦史]/柳本々々



  テラベクレルの霾る我が家の瓦礫を食へ  関悦史


「霾(つちふ)る/土降る」は春の季語だ。春風によってもうもうと土やほこりが舞っている。それを〈つちふる〉という。

ところがその季語が、放射性物質の飛散によってリスキーな季語になっている。春を感じることが、どうじに、リスクを感じることにもつながっているのだ。

語り手はいまや季語をあんのんと使える世界には暮らしていない。季語を使い、季節のなかに身を置こうとすると、〈テラベクレル〉をも抱えこまざるをえない世界。それが語り手が身をおく春である。語り手にとっては〈季節〉を考えるということはリスクを抱えることであり、〈震災〉によってもたされた逆説的な「うるはしき日々」を詠むことにつながっている。

  現実なるレベル・セブンの春の昼  関悦史

それは、ある意味で今までなかった〈超‐時間〉だ。しかし、それでも《春》は、やってくる。

掲句のすぐ隣に並べられた句が、

  テラベクレルの霾る我が家の瓦礫を食ふ  関悦史

である。


  テラベクレルの霾る我が家の瓦礫を食へ

  テラベクレルの霾る我が家の瓦礫を食ふ


ここには明らかな対比がある。「食へ」と「食ふ」の。

語り手は、「食へ」と怒りをあらわにしたのちに、「食ふ」とただちにみずからそれを「食」おうとしている。「食へ」で対象化された訴求相手はすぐさま「食ふ」と自己に回収されてしまう。

これは震災から発する言葉の位相の難しさを端的にあらわしている。

わたしたちはいったい震災をめぐる言葉を《誰に》むかって発信しているのか。その言葉を受け取るのは《だれ》なのか。自分を《さておいて》震災のことを語れるのかどうか。しかし、自分《も》込みで震災のことを語れるのかどうか。

震災をめぐる発話はつねに発話(と受信)の主導権の闘争がある。

いったい、誰が震災のことばを食べているのか。

この発話をめぐる闘争が、関さんのふたつの並置された句にはあるようにおもう。というよりも、それはどこにも回収されず、葛藤しあったままずっと緊張関係をつづけている。「食へ」と「食ふ」の拮抗のなかで。

「食へ」と言った刹那、その言葉を「食ふ」こと。震災をめぐる言葉を発するとき、わたしの身体も汚染された瓦礫を食らう可傷性をもたなければならない。ことばはいつも〈誰か〉向かって発信されている。でもそこには必ず言葉を発した代償としての〈私の傷〉が潜在的に予期されていなければならないはずだ。


  春の日や泥からフィギュア出て無傷  関悦史


〈無傷〉を見つめる言葉はいつも〈傷〉を背負っている。



          (「うるはしき日々」『六十億本の回転する曲がつた棒』邑書林・2011年 所収)

2016年3月3日木曜日

人外句境 35  [芥川竜之介] / 佐藤りえ


行く春や踊り疲れし蜘蛛男  芥川竜之介

蜘蛛男を字面だけ見ていると昭和の現代っ子はすぐに戦隊物や仮面ナントカなどのテレビ番組の怪人を思い浮かべてしまうかもしれない。そうではなく、ここでいうのは蜘蛛に親しみをこめた尊称での「蜘蛛男」であろう。別な蜘蛛と争った果ての「疲れ」なのか、巣を拵えた後の「疲れ」なのか、動きに動いたすえの姿を「踊り疲れ」ととらえたのではないだろうか。とはいえ、怪人・蜘蛛男がハツラツと踊っていたら、それはそれでおかしくも絵になる眺めである。

「余技は発句の外には何もない」は知られた一文である。実際に芥川竜之介の残した俳句は執拗だったり自由だったり、読み進めていくとこんなこともやってるのか、と驚かされるところがある。

蝙蝠の国に毛黴は桜なる
稲妻にあやかし船の帆や見えし
夕立や我は真鶴君は鷺
茨刈る手になつかみそ蝸牛
万葉の蛤ほ句の蜆かな
クーリーの背中の赤十字に雨ふる
かげろふや猫に飲まるる水たまり
象の腹くぐりぬけても日永かな
迎え火の宙歩みゆく竜之介

「夕立や我は真鶴君は鷺」には「妓の扇に」の詞書が、「茨刈る手になつかみそ蝸牛」には「即興」の詞書がある。自由律の句作もあり、洋行の折に詠んだであろう「クーリーの背中の赤十字に雨ふる」のような新しい言葉を積極的に取り入れた句もある。挨拶も盛んに、菊池寛や井月を詠み込んだ句もある。「万葉の蛤ほ句の蜆かな」は書簡に書き留められた句ということだが、江戸っ子・芥川の俳句観が端的に表れた一句なのではないかと思う。


※作者名表記は底本に依る
〈加藤郁乎編『芥川竜之介俳句集』(岩波書店/2010)〉