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2016年4月19日火曜日

フシギな短詩13 [喪字男]/柳本々々



  たまに揉む乳房も混じり花の宴  喪字男


季語は「花の宴」。お花見のさいちゅうである。宴の文字からもわかるとおり、すこし祝祭的で、やや入り乱れている。桜も、舞っている。

そのなかで語り手が注目しているのは「乳房」でとらえる世界である。お花見のなかで、語り手は「乳房」からいま・ここの感覚をとらえようとしている。そこでは誰それがいるということが問題になるのではなく、どのような乳房があるかが問題に、なる。

そして今回問題になっている乳房は「たまに揉む乳房」だ。頻繁に揉む乳房でも、揉むこともなかった乳房でもない。「たまに揉む」だから、すこし関係があって、すこし関係がない「乳房」である。

「混じり」という言葉づかいにも注意してみよう。「混入物」という言葉もある通り、〈混じる〉は通常そこに構成されなかった異物が加わるときに使われる言葉だ。だから語り手にとっていま・ここにある〈風景〉は新しい風景のはずだ。ふだんは混じることのない構成のなかに「たまに揉む乳房」も混じっているのである。

前回は、長嶋有さんの句の「不倫」と「ポメラニアン」の距離感をみてみたのだが、今回の「たまに揉む乳房」と「花の宴」はほとんど距離感がないことが特徴なのではないかと思う。むしろ「花の宴」というすべてがないまぜになっていく祝祭空間において、「よく揉む乳房」や「揉んだことのない乳房」、「たまに揉む乳房」が混成し、〈乳房の祝祭空間〉=「花の宴」になっていくという〈距離の消失〉こそが語り手にとっての〈春の祝祭感〉になっているのではないかと、思う。

そう、祝祭とは、距離の消失のことなのだ。そしてそれこそが語り手にとっての《宴(うたげ)》なのである。

舞って散る花びらの動きは予想がつかない。意想外のところに〈混入〉するだろう。宴のような人生も、そうだ。さまざまな人間が出たり入ったりする。人生は予想もつかない花びらの舞い散る速度で〈混成〉されていく。

すべては「花の宴」のなかで起きるのだ。

          (「ハイクラブ」『里』2013年5月号 所収)

2016年2月16日火曜日

フシギな短詩2[北大路翼]/柳本々々



  乳輪のぼんやりとして水温む  北大路翼

ひとは、どうやって、〈乳房〉にたどりつくんだろう。

でも、掲句は、「乳輪」である。〈乳房〉ではない。どうして、だろう。

この句の季語は「水温む」だ。春の水は〈あたたかい〉というよりも、〈ぬる〉んでいる。冬の水とも違うし、夏の水とも、ちがう。

  水温むとも動くものなかるべし  加藤楸邨

という句があるように、春のぬるんだ水と〈動・物〉は親和性が高い。ぬるむからこそ、ようやく、動き出せるのだ。

掲句において、このぬるんだ水の中で語り手が発見した〈動・物〉は「乳輪」だった。しかもそれは「乳首」でも「乳房」でもない。〈突起物〉ではなく、語り手は〈乳輪=円環〉という〈図〉をぬるんだ水のなかに見ているのだ。

語り手は、「乳輪」という〈図〉を、みている。〈図〉は視覚によって構成されるものだが、お湯をとおしてみている以上、〈図〉は明確には再構成されえない。

「水温む」という季語を通過した「乳輪」は「ぼんやりと」する。となると、語り手は、「乳輪」を見ながらも、その「乳輪」を見ることを「水温む」によって阻まれているといってもいい。〈季語〉に阻止されたのだ。

だとしたら、こう言ってもいいのではないか。

語り手は、〈季語〉によって〈乳輪=性〉にたどりつくことを阻害されてしまったのだと。

目の前のお湯のなかの〈乳輪〉を通してそこにあらわれたのは、〈俳句〉だった。〈性〉ではなかった。

語り手は「乳輪」をみながら「水温む」をとおして、〈俳句〉のことを考えている。かんがえてしまっている。〈性〉でもなく、〈乳房〉でもなく。

だからこう言うしかない。

俳句は、乳房に、たどりつけない。

          (「春立つや」『天使の涎』邑書林・2015年 所収)