-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年9月1日金曜日
続フシギな短詩191[金子兜太]/柳本々々
きょお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中 金子兜太
さいきん小澤實さんと中沢新一さんの対談集『俳句の海に潜る』を読んでいるのだが、対談は最終的に〈俳句におけるアニミズム〉の話に流れ着いていく。
そこで興味深かったのが、肉体/魂という二項対立を意識してしまったらもうそれはアニミズムではない、という中沢さんの言葉だった(アニミズムとは一般的に、万物に意識があるという思想。中沢新一さんは「生物も非生物も、もともとは一体」という一元論的アニミズムを考えている。スピリットが世界全体を流動しつづけており、それがたまたまとどおこったときに、なにかが〈存在〉する)。
凍蝶の己が魂追うて飛ぶ 高浜虚子
この句は、一見アニミズムっぽいのだが、「魂」が出てきている時点で近代的なアニミズムになってしまっているという。凍蝶の身体/凍蝶の魂という二項対立。
生きている凍蝶の肉体が、別れ出てしまった魂を追っているということは、肉体と魂とを別に考えているということである。この考え方は中沢さんが次のように説く十九世紀の間違ったアニミズム論につながるものだった。そのアニミズム論とは「生命のないものにアニマが宿って、あたかも生命を持つように振る舞うようになる」という、中沢さんが誤りと断じているものである
(小澤實『俳句の海に潜る』角川書店、2016年)
魂も感じさせないような、万物が融合し流動しているような状態、それがそもそものアニミズムだというのだ。たとえば、
閑さや岩にしみいる蝉の声 松尾芭蕉
この句においては、「岩」と「蝉」が「しみいる」で融合した状態になっている。
中沢さんはこの句をアニミズム俳句の極致と呼び、「蝉を流れるスピリットと岩を流れるスピリットが、相互貫入を起こして染み込み合っています」と評されている。
(小澤實『俳句の海に潜る』)
魂はなく、ただ「岩」と「蝉」が相互浸透した融合状態がある。これが、アニミズムだという。
そんなとき私は金子兜太さんの掲句を思い出した。
「きょお!」という汽車の発話には言語レベルに還元できない不穏ななにかがある。誰かの人名を叫んでいるような(「清ぉ!」)、もしくは「狂/恐/凶/驚/胸/競!」と不吉な言葉を叫んでいるような(「KYOU」は不穏な漢字ばかりだ)。
汽車は夏目漱石『草枕』で描かれたように近代的な装置だった。国家のすみずみまで均質に知や物資や情報を届け、均一な国民を育てる。
汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。
(夏目漱石『草枕』)
ところがその「汽車」が「きょお!」と不可解な非言語を「喚いて」しまう。この「汽車」はいったいどういうふうに位置付けられるのだろう。
ここで注意してみたいのが、「この汽車はゆく」である。語り手は「《この》汽車」と指示できる確かな位置をもっている。語り手の意識は、没入はしていない。事物を名指しできる場所にちゃんといるのだ。だから、「ゆく新緑の夜中」とベクトルも時間=場所叙述できる。
しかし、そうした「この」と指図ができて、時間ベクトルも場所ベクトルも叙述できる意識鮮明な語り手に対し、「きょお!」と汽車は喚き傍若無人な意識/無意識のふるまいをみせる。これはそうした語り手が、没入しそうになる一歩手前の、しかしその一歩を過ぎてしまえばもう汽車の意識のなかに怒濤のようになだれこんでいってしまうという、意識没入 対 近代的個の対立の句といえないだろうか。アクセスポイントは、もうすぐその手前に、きている。でもそのアクセスポイントがこれからどうなるかはわからない。
そういえばアクセスポイントが意識された兜太さんの句にこんな句があった。この古代のWi-Fiのように明滅するアクセスポイントは、どういうふうにかんがえればいいのだろう。
おおかみに蛍が一つ付いていた 金子兜太
(「俳句 短歌の魅力」『語る 俳句 短歌』藤原書店・2010年 所収)
2017年8月30日水曜日
続フシギな短詩188[神野紗希]/柳本々々
コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希
川柳と「好き」「逢う」「密会」の話が出たので、この句をとりあげてみたい。私は神野さんのこの句をはじめてみたときから、なんだかこの句に俳句のあたらしい秘密があるような気がして、ことあるごとに思い出しては、考えてきた。というか、俳句なのに「好き」という言葉があったのが、とても衝撃的だったんだとおもう。もちろん俳句に「好き」という言葉はでてくる。かつてとりあげた池田澄子さんの句、
屠蘇散や夫は他人なので好き 池田澄子
ここにも「好き」があるのだが、「夫は他人」と言う認識によって、また「屠蘇散」という薬の季語によって、「好き」の位相はズラされている。ここには、ベタッとしたままの「好き」はない。夫は他者であり、季語も他者である。
神野さんの句の面白いところは、句のなかの「好き」が〈ほんとう〉に「好き」なんじゃないかと思うところだ。この語り手は「コンビニのおでん」がほんとうに「好き」なんじゃないかと。しかもここにはなんの他者もいないんじゃないかと。そう思われるのが、「コンビニのおでんが好きで」の後に続く「星きれい」だ。この語り手は、「コンビニのおでん」がためらいなく好きなひとで、かつ、「星」がためらいなく「きれい」だとおもうひとだ。
この助詞の「で」をどうとるかは実は難しいのだが、ひとつ言えることは、「コンビニのおでんが好き」という感情=内面と「星きれい」という風景が助詞「で」によってためらいなく等価につながってしまうということである。つまりここにはその「で」という連絡=接続を阻止する他者はいないのだ。
ただもっと面白いのが、そうした他者を埋め込まない句によって、句そのものが〈他者〉を呼び込んでくるところである。たとえば、「コンビニ」と表記するか「コンビニエンスストア」と表記するか(俳句の書記意識をめぐる問題)、ほんとうに「コンビニのおでん」をおいしいと思うかどうかもっとちゃんとしたところで食べたい(俳句をめぐる階層的問題)など、この句そのものが「コンビニのおでんが好きじゃなくて星もきれいじゃない」と思うような〈他者〉を呼び込んでくる(俳句の《そもそも》をみんなが考えはじめてしまう)。
とすると、私がこの句にみた俳句のあたらしい秘密は、この句が、たまたまそういう俳句の臨界のようなところに、ふっと身をおいてしまったことにあるのではないかとおもうのだ。でもそういった臨界の俳句は、他ジャンルの他者に呼びかけてもいく。えっこんな俳句があるの、と。なんでだろう、と。そもそも俳句ってなんだったのか、と。自分が知らないうちにずいぶん古池蛙から遠くなってる、と。
この国で、わたしが眠るのと地続きの地面で、これからも生きて、働く、それがむくわれてあなたは幸せになる。絶対に。ねえ、これまでのようにこれからも、ときどきでいい、たいせつな、日本語で、わたしに話しかけて。わたしはそれ以上、なんにも望まない。
(岡田利規『現在地」)
ただ私は同時に現代の〈かえるの飛び込む水の音〉はこんなところにあるような気もしている。なにも考えずに、あえて意図的に意識をもたずに、無意識のなかで、じぶんの生活意識を〈録音〉した場合、ふっとこのような意識を録音できてしまうのではないだろうか。ああなんかほんとこれおいしいのかよと思って買ったけどコンビニのおでん意外にめっちゃおいしいしなんかふっと帰り道空みあげたらなんかなんていうかめっちゃつきぬけたように星きれいだったしなんかいいこともわるいこともなんにもないけど明日もまたコンビニのおでん帰り道買おうかなソーセージなんかもあれ入ってたよなおでんなのにソーセージってなんなんあれになんかいろんなものを吸わせてるのそのなんかおでんの養分みたいなうまくいえんけどなんかきづくとあれめっちゃ星、と。それが現代の意識の水の音のような気もしている。直感だけど。
でも、意識に、実は、他者はいらない。他者は意識を阻害するので。他者は、その句の、外にいて、外からやってきて、たえずその句にふれればいいのだ。だから、気になって、なんどもこの句に帰ってくる。わたしもよく思い出す。毎日、コンビニにいくので。あのひと毎日コンビニにくるよなあとおもわれてるしそれはそれでぜんぜんいいって中腰でお餅の入ったグラタンとか手にしながらおもうし、それにコンビニはぜんぜん滅びるようすはないし、おでんも毎年絶対にわすれないアニバーサリーのようにやってくる。なんかわたしが気にかけなくてもおでんはむこうからわたしの意識のなかにやってくるし意識いじくるし、なんか、あの、わたしたちの意識は、コンビニやおでんや帰りになにげなくみあげた星にあるような気もしているし、なんかいまや、古池の意識作用は、コンビニにあるのではないだろうかと思うし、なんかめっちゃ思うし、なんか。
ともかくむかしむかし、天から降り立ったコンビニな、それが変えたんだよ人類を。人類を、深夜小腹減ったって問題から救った、それから、夜道暗くてこれ心細いぞって問題からも救った、くわえて、どこでバイトしたらいいんだ問題、僕のわたしのバイトできるとこありません問題からも救った、ようするに、人類のすべての問題を、コンビニは解決したってことだ!
(岡田利規「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」『悲劇喜劇』2015年1月)
(『光まみれの蜂』角川書店・2012年 所収)
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