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2017年3月26日日曜日

フシギな短詩96[石田柊馬]/柳本々々


  妖精は酢豚に似ている絶対似ている  石田柊馬

不思議な句だ。

「絶対」とは言いながらも、その「絶対」を言ってしまったがために、「絶対」が〈絶対〉をくつがえしてしまっている。

いったい私はなにを言っているのか。

つまり、こういうことだ。《絶対にそうだ》と確信していたのならば、「絶対」などとは《わざわざ》言わなくていいのだ。わかりきったことなんだから。そしてその発言に自信があれば、《わざわざ》繰り返す必要なんかないのだ。わかりきったことなんだから。

だから語り手は思っている。ほんとうは妖精は酢豚に似ていないかもしれないということに。絶対なんてこの世界にはないんだってことに。

でもそれでも言ったのだ。

いったいどういうことなんだろう。

こんなふうな説明ができるかもしれない。

ここにあるのは、絶対性ではなく、〈意に任せた〉任意性である、と。

わたしはこの妖精句は川柳という文芸を端的に象徴しているのではないかと思う。

つまりこう思うのだ。川柳とは、《任意性》の文学なのではないか、と。

前回、〈うんこ〉をめぐる記事であげた例をもう一度あげてみよう。

  頷いてここは確かに壇の浦  小池正博

「ここ」が「壇の浦」だと絶対的な認識ができていたら、わざわざ「ここは確かに」なんて言う必要がないはずだ。認識できていなかったから、わざわざ「ここは確かに」と言ったのだ。語り手にとって「壇の浦」は〈任意〉である。意に任せた場所なのだ。

  オルガンとすすきになって殴りあう  石部明

オルガンとすすき。これも任意である。わたしの考えでいえば、このオルガンとすすきが、オルガンとすすきである必然的な意味はない。いや意味はつけられるだろうけれど、つける必要がないほどにオルガンとすすきはカテゴリーとしてかけ離れている。

だからこの句を意味として解釈しようとするとたぶんうまくいかない。そうではなくて大事なのは、〈任意〉が暴力として発動してしまっているこの句が提出した〈状況〉にあるはずだ。本来殴りあえないはずのものが任意の認識によって殴り合ってしまったこと。これは認識と状況の問題である。

何度も言うが、わたしは、川柳とは、〈任意性〉の文学なんだと、おもう(これは季語というある程度の〈絶対語〉を引き入れたある程度の〈絶対性〉の文学としての俳句と対置してもいいかもしれない。「ある程度の」と言ったのは季語だって生まれたり滅びたりすることがあるため)。わたしは、そう、おもうのだ。川柳は、こころを詠む文芸ではなく、意(こころ)に任せる文芸なのだと。

  非常口セロハンテープで止め直す  樋口由紀子

「止め直」せたのは、「非常口」が絶対的なものではなく、任意の口になったからだ。だから、「セロハンテープ」程度のものでいい。非常口はほんとうは非常口なのだから絶対的なものではなくてはならない。でなければ、命が助からない。わたしもいざ逃げる時があるかもしれないので非常口はせめて絶対的なものであってほしいと思う。心からそう思う。

しかし川柳では、〈こう〉なのである。それがただしいのだ。任意の世界なのだから非常口はセロハンテープで止め直すのが正しい。わたしやあなたがいやでもそれは関係ない。

任意の世界。もう少し続けよう。

  ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ  なかはられいこ

これも任意の発話である。読点が〈任意〉で埋め込まれることで、意味内容が〈任意〉に微分されていく。ここにはビルが崩れていくという2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を彷彿とさせるような絶対的出来事が起きているのに、それを分節する絶対的発話がない。だから、ビルがくずれてほんとうに語り手がきれいだと思っているのかどうかわからない。そもそもここにはたった一回でも「きれい」という発話は、ない。

これは、柊馬さんの妖精に対する「絶対」とおなじ位相の認識である。小池さんの不確かな「うん」や樋口さんの「セロハンテープ」の不穏さとおなじ位相の認識である。

言葉にとっての任意。意味にとっての任意。認識にとっての任意。世界にとっての任意。歴史にとっての任意。語り手にとっての任意。読者にとっての任意。

川柳は任意の文芸なのだと、妖精をとおして言ってみたい。妖精とわたしのたたかいをとおしてそう言ってみたい。

探偵シャーロック・ホームズを生んだコナン・ドイルが《妖精はいる絶対いる》として愛した有名な妖精写真がある。今みてもそれがほんとうの妖精かどうかわからない。私はこの妖精写真が好きで一時期机の上に飾っていたことがある。今でもときどき電車やバスに乗っているときに、いるかなあいないかなあと思うが、まだ答えは出ていない。い る か な あ

妖精はいるかもしれないしいないかもしれない。妖精は〈任意〉のクリーチャーなのだから。それは、いるひとにはいるし、いないひとにはいないのだ。しかし、そういうドイルから、ホームズは生まれた。

任意。

任意とは、意に任せることだ。意に任せて、なにか発言することだ。意に任せて、あなたに問いかけることだ。こんなふうに。

  ドラえもんの青を探しにゆきませんか  石田柊馬

 
   (『セレクション柳人2 石田柊馬』邑書林・2005年 所収)

2016年7月19日火曜日

フシギな短詩26[兵頭全郎]/柳本々々



  受付にポテトチップス預り証  兵頭全郎


全郎さんには〈ポテチ川柳〉なるポテトチップスをめぐる一連の句がある。紹介しよう。

  ポテチからポップコーンの上申書  兵頭全郎

  小銭ともポテチの厚みとも言えず  〃

  タンカーに横付けされるポテチ工場  〃

  拳からポテチがのぞいている 許せ  〃

  ポテチ踏む戦争映画はエンドロール  〃

ここにみられるのは徹底的なしつこいまでの〈ポテチ〉への執着である。

注意したいのは〈ポテトチップス〉ではなく、〈ポテチ〉という呼称が一貫して使用され続けていることだ。〈ポテトチップス〉は〈ポテトチップス〉ではなく、語り手にとっては〈ポテチ〉と略される何よりも〈言語存在〉なのである。だから「ポテトチップス」という正式名称が使われたときにはそれは「受付」に「預」かられてしまい、語り手の手に入らないカタチになるのだ。

これらの〈ポテチ川柳〉を通して、これだけ語り手がポテチに執着しているにも関わらず、わたしたちはなにかがおかしいとすぐに気づくはずだ。ここには重要ななにかが決定的に欠けている、と。それは、なにか。

《なぜ、語り手はポテチを食べようとはしないのか》。

語り手は決してポテチを口に入れようとはしない。これだけポテチに執心しながらも、ポテチの周縁をえんえんとめぐっているだけなのである。手を出そうとしないのだ。

これはどこまでいっても〈ポテチ〉を円心に据え置いた〈ポテチをめぐる周縁〉なのである。たとえば「ポテトチップス預り証」や「横付けされるポテチ工場」、「拳」からちら見しているポテチ、「ポテチ踏む戦争映画」など、なにかそれはつねに〈間接的〉なのだ。言語的に略された〈ポテチ〉が、〈ポテトチップス〉の物質性を奪われてしまうように、全郎さんの句にあらわれる〈ポテチ〉とは言語によって構造化された食べることが不可能なポテチなのである。

だから、ポテチはここでは〈核心/確信への迂回〉として機能していることになる。しかしそれが〈迂回〉だからこそ、語り手はかたくなにポテチに執着しつづけることになる。いつまでも食べられないし、意味が終わらないからだ。

そう、実はこのポテチとは〈意味〉に置換してもいいものなのである。受付に「意味」の預り証があるように、横付けされる「意味」工場のように、拳からちら見している「意味」のように、「意味」を踏む戦争映画のように、ポテチは〈意味〉を担保してもいる。ポテチが、食べられてしまうポテトチップスにならないことによって、だ。

そしてその意味の担保=保留=迂回にあえて執心してみせること。意味のエンドロールをえんえんと遅延させること。それが兵頭全郎の川柳なのではないかと私は思うのだ。

私はこれまで、川柳は執心をくりかえすことによって意味の大気圏を突破しようとすることがあると思ってきた。でも全郎さんのポテチをめぐる川柳を通して、今はこう言い換えてみたいと思っている。

川柳は執心をくりかえすことによって意味が公転し続ける〈意味の太陽系〉を織りなしていくことがあるのだと。それは大気圏の突破ではない。ぐるぐるシステムを循環しつづける〈太陽系〉の生成なのだ。

だからこそ、全郎さんの句集にはこんな太陽系的なぐるぐるした句もある。

  風車風見鶏風くるくるくると墜ちていくのが最後尾行から直帰刑事は夜の顔という顔がくるくる遊園地にも足跡のない轍とも堀ともとれる幅に立つとすぐ椅子を持ち去る第二秘書くるくるさっきまでの罠らしく唇として開けてある  兵頭全郎

句集タイトルは、『n≠0』。0は一枚のポテチにも見えるだろう。しかし、もちろん、0≠0であるように、それは〈ポテチ〉ではないのだ。

n≠0。意味の任意性としてのnを、どこまで行っても無意味ではないという「≠0」というかたちで生き続けること。意味に負けないよう、燃え尽きないよう、くるくると循環し続けること。無限のポテチ(∞)と共に。

          (「開封後は早めにお召し上がり下さい」『n≠0』私家本工房・2016年 所収)