-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年9月8日金曜日
超不思議な短詩207[藤幹子]/柳本々々
銀河行くふたつの旅行鞄かな 藤幹子
『庫内灯 BL俳句誌』の「鞄はふたつ」から掲句。
『BL進化論』の溝口彰子さんによれば、女性読者がポルノを読む際の感情移入の対象は複数化していくという。
「受」、「攻」にそれぞれアイデンティファイするというふたつのモードに加えて、もうひとつ、物語宇宙の外側に立つ読者としての視点、いわゆる「神の視点」へのアイデンティフィケーションもある。…
三つのモードのうち、どれが最も強く働くかは、読者それぞれのファンタジーや物語の内容によっても異なる。…
強弱はあれど、読者の頭のなかでは、この三つは同時進行であろう。「攻」、「受」そして「神」、すべてが「私」=読者なのである。
(溝口彰子『BL進化論』)
ここで興味深いのは、BL的視点は決して〈攻め・受け〉の二項対立だけでなく、それらを俯瞰する第三者の視点をも同時にもつということである。
掲句をみてみよう。この句が、〈BL俳句〉である点は、どういう点にあるのか。
まず「ふたつの旅行鞄」で〈関係性〉を示唆している。〈攻めの旅行鞄/受けの旅行鞄〉と〈攻め/受け〉の二項対立が想起される。ここで注意したいのは、旅行鞄の所持者への関係性だけでなく、旅行鞄それ自体への関係性へも視点が潜り込んでいることだ。どういうことか。
たとえばこう考えてほしい。所持者に関係性がなくても、ふたつの旅行鞄が隣り合っておかれるだけで〈BL的想像力〉は働かせることができるのだと。BL的想像力は複数化の視点だから。
恋愛がヘテロのものでない可能性があること、あるいは恋愛とは違っても互いを求め合う(対等な)関係性があること。BL俳句/短歌は、自分にとってそのひとつの象徴です。ときに異性愛に満ちて息苦しく感じられる世界への、ささやかな抵抗でもあります。
(佐々木紺「編集後記」『庫内灯』2015年9月)
しかし/だから、もちろん〈攻め/受け〉の二項対立だけではない。
「銀河行く」という俯瞰の視点。この句ではこの「ふたつの旅行鞄」が「銀河行く」のを〈みている〉俯瞰の〈神〉の視点がある。BL的関係性を発動させている神の視点のような。
こうしてさまざまな複数的関係性を一句に折り畳んでいるのがBL俳句と言えないだろうか。
抱くときは後ろ抱きなり春の月 岡田一実
〈背後から抱く(攻め)/後ろ抱きされる(受け)〉関係をみている「春の月(神の視点)」。
ともだちを抱くこともある夏の果て 佐々木紺
〈抱く(攻め)/抱かれるともだち(受け)〉の関係をみている「夏の果て(神の視点)」。
ここでたぶんもっと大事なのは、いま・これをBL的に読もうとしている柳本々々もこの関係的想像力にかかわっていることである。これは柳本々々をてこにしたBL的想像力の関係性であり、この基点としての視点をだれが・どこから・どのように読むかによってまた関係性の束は変わってくるだろう。たぶんその意味で石原ユキオさんは『庫内灯』序文にこんなふうに書いている。
BL俳句に決まった読み方はありません。
でも、「俳句なんて読むの初めてだし、まず何をどう読んでいいかわかんなよー!」という方もいらっしゃるかもしれないので、BL俳句を楽しむコツを書いておきます。
情景を想像し、ストーリーを妄想せよ!
(石原ユキオ「BL俳句の醸し方」『庫内灯』)
関係性の束のなかにさらに読み手としての〈わたし〉をも関数として、関数的想像力として、その関係性の束のなかに関わらせること。BL的想像のダイナミクスは、読み手としての〈わたし〉に関係性の詩学を教えてくれる。
穂村弘の「こんなめにきみをあわせる人間は、ぼくのほかにはありはしないよ」という明智と怪人20面相との関係を描いた短歌がありますが、私の理想はまさにこれです。
「たったひとりの、代替不可能な互いの理解者であり、敵」という関係性にきゅんとします。
(佐々木紺「往復書簡 金原まさ子×佐々木紺」『庫内灯』)
(「鞄はふたつ」『庫内灯』2015年9月 所収)
2016年2月26日金曜日
フシギな短詩5[石原ユキオ]/柳本々々
春の昼ひよこまみれになりやすい 石原ユキオ
この句が収められた連作のタイトル「ルッカリー」とはそもそもペンギンが集団でこどもを産み・育てる場所のことだ。ルッカリーでひしめきあったペンギンたちをひとめみてわかるのは、それが〈もふもふ〉しているということである。
たぶん、あなたがルッカリーに頭からつっこめば〈もふもふ〉するだろう。わたしも。
「ひよこまみれ」も、そうだ。「春の昼」だからただでさえ「あたたか」なのだが、「ひよこまみれ」になれば、もっと「あたたか」くなる。というよりも、これは、
〈あたたかすぎ〉である。
ここには、〈あたたかさ〉の過剰がある。
前回のてふこさんの句の〈あたたかさ〉は俳句によって相対化された〈あたたかさ〉だった。それはひとによって〈変化〉するものだった。
しかし、ユキオさんの句は、ちがう。ここには、〈絶対的なあたたかさ〉がある。
しかも、「なりやすい」と語られている。〈症候〉としての〈あたたかさ〉でもある。なりたくてなっているわけでも、ないのだ。「なりやすい」のである。
てふこさんの〈あたたかさ〉がみずから選び取った〈意志のあたたかさ〉なら、ユキオさんの〈あたたかさ〉は偶発的に起きてしまう〈災難としてのあたたかさ〉なのである。
そうなのだ。ユキオさんには災難俳句がたくさんある。しかも、のどかな。
「ひよこまみれ」も〈のどかな災難〉ではあるが、この連作「ルッカリー」には他にも〈のどかな災難〉はある。たとえば、
鉄柵に園児はさまる日永かな 石原ユキオ
はさまっちゃったんだ。どう、しよう。
しかし、とはさまった園児をみて〈わたし〉は考える。
のどか、だ。
(「ルッカリー」『石原ユキオ商店』2014年7月 所収)
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