-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年9月11日月曜日
超不思議な短詩212[宮柊二]/柳本々々
ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す 宮柊二
穂村弘さんの解説がある。
「ひきよせて」は、戦闘の一場面と読める歌。感情語を排した動詞の連続が緊迫感を伝える。
(穂村弘『近現代詩歌』)
穂村さんの「動詞の連続」という指摘が面白いのだが、「ひきよせ/寄り添ふ/刺し/立てなく/くづおれ/伏す」とたしかにこの歌は動詞に満ち満ちている。こんな歌を思い出してみたい。
前肢が崩折れて顔から倒れねじれて牛肉になってゆく 斉藤斎藤
この歌をはじめてみたとき、どうしてスローに感じられるんだろうと思ったことがある。屠殺される牛が、一瞬で殺されるのではなく、スローでゆっくりと死に、牛という個体から牛肉という食物=商品になっていく様子が感じられる。
宮柊二の歌では、ひとを刺すとはどういうことか、ひとを殺すとはどういうことか、ひとが刺され・殺され・死ぬとはどういうことか、がじっくりと描かれているのだが、この斉藤さんの歌にも「動詞の連続」によって牛が牛肉になっていくまでの死のプロセスが「崩/折れ/倒れ/ねじれ/なって/ゆく」とじっくりとスローで、動詞の連鎖で描かれている。
宮さんや斉藤さんの歌がスローを感じさせることがあるならば、それは、反復しつつも・ズラされながら連鎖してゆく動詞にある。定型の枠=時間を微分するかのように並列=列挙される動詞。読み手はそれら動詞を即座に処理し、連続させ、積分してゆかなくてはならない。
崩→折れ→倒れ→ねじれ→なって→ゆく
こうやってみるとわかるように、おなじような意味の動詞が並びつつもだんだんズレてゆき、「崩」という↓への肉体がダウンするエネルギーは、「ゆく」という→への食品流通への流れへと、漢語からひらがなへの軽やかさとともに変化していく。
スローモーションの魔術。どんなジャンルでもあえて低速にすると、高尚なものより尊重されやすいような気がする。
(千葉雅也『別のしかたで』)
こういう技法は現在は漫画が効果的に使っている。例えば岡野玲子『ファンシィダンス』では主人公が三年の寺での修行生活を抜け、「まっ暗なシャバへ旅立」つときを、一コマのなかに身体の動きをズレつつ反復しながら印象的なスロー・シーンに変えている。
(岡野玲子『ファンシィダンス』5巻、小学館文庫、1999年、p.43)
微分化された身体がスローな感覚をうむこと。たとえばこの考え方をこんなふうに〈逆〉に考えることもできるかもしれない。なぜ、チャップリンやバスター・キートンやマルクス兄弟がコマを早送りしながら自分たちのアクロバティックな身体を撮っていたかというと、それは、速度をはやめることで、身体に動詞を多重に折り重ねるプロセスだったのではないかと。
限定された時間のなかに動詞を多重に折り重ねることでスローな感覚をもたらす短歌と、限定された身体の速度を高めることで身体に動詞を多重に折り重ねるサイレント・コメディ。
動詞、速度、身体。短歌も映画も身体のテクノロジーにかかわっている。
チャップリンのテクノロジー化した身体は、逆に周囲の環境からの刺激(機械のリズム)に自分を同調させることができるような、柔軟な有機的身体である。つまりこの身体は、機械の断続的なリズムを自らの生命のリズムとして生きてしまうのだ。
(長谷正人『映画というテクノロジー経験』)
(『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)
2017年9月7日木曜日
超不思議な短詩203[竹山広]/柳本々々
二万発の核弾頭を積む星のゆふかがやきの中のかなかな 竹山広
穂村弘さんの解説がある。
「核弾頭」と「ゆふかがやきの中のかなかな」が共存する世界に我々は生きている。
(穂村弘『近現代詩歌』)
先日放送されたNHKの「SWITCH インタビュー 達人達(たち) 山本直樹×柄本佑」を観ていたら漫画家の山本直樹さんが連合赤軍事件を描いたマンガ『レッド』で、凄惨な事件のなかでもつい笑ってしまうような楽しいことがある、それも描きたかったと話していた。これもひとつのレベルの違うものの共存である。でも、たしかにヴォネガットの小説を読めばわかるようにどんなに凄惨な状況でもわらってしまうことはあるかもしれない。
たとえばそうした違うレベルの共存をずっと描いたのが、松尾スズキだとも、おもう。松尾スズキさんがかつて「トップランナー」というインタビュー番組で、葬式に向かう途中で週刊誌の袋とじヌードを破ってしまうことがあったとする、すごくかなしいことはかなしいのだけれど、その一方で、そういう状況のなかでもヌードをみたいきもちが共存してしまうときがある。その状況とはなんなのか、みたいなことを話されていた(『ファンキー! 宇宙は見える所までしかない』には障害者と笑いの共存というテーマが模索されている)。そういうものを忘れないでいたい、と。これもレベルの違うものの共存の話である。
レベルの落差の共存を描いたアニメに富野由悠季の『 ∀ガンダム(ターンエーガンダム)』がある。このアニメは、世界名作劇場+ガンダムと言われるような、ほのぼの日常労働社会と戦争リアルロボットアニメが融合していく特異というかとってもヘンなアニメなのだが(その意味で〈それまで〉のガンダムサーガを裏返している)、竹山さんの歌のうおな「核弾頭」と「ゆふかがやきの中のかなかな」が共存・折衝していく状況が描かれている。
物語の主人公ロランは偶然核弾頭を見つけてしまうのだが、そのとき核弾頭は、キャラクターたちの内面を、核の恐ろしさを知る味方、核の恐ろしさをまったく知らない味方、核の恐ろしさを知る敵、核の恐ろしさを知らない敵と微妙な層をわけながら、描き出していく。
核の恐ろしさをもとに協同しようとする敵味方、核のおそろしさを知らずそれが何かとても〈いいもの〉だと思い横取りしようとする味方。
結局、核は暴発してしまうのだが、そのとき、その回のタイトルにもなっているのだが、あまりの明るさで真っ暗闇のなか「夜中の夜明け」がきてしまう。核のおそろしさを人間はこの〈夜中の夜明け〉のひかり(まるで「ゆふかがやき」のような)に恐ろしさを感じるし、知らない人間は、美しいと感じる。
たぶん、核を考えるということは、このような核と一見無縁の〈風景〉=「夜中の夜明け」「ゆふかがやきの中のかなかな」と核を含んだ風景が、等価であるような状況を考えるということになるんじゃないかと思う。
ほのぼのした風景のなかに、核がある。
キューブリックの映画『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』のロデオのようにまたがることのできる核、タイムボカンシリーズの三悪の爆発するしゃれこうべ型の煙の核、核の風景は凄絶さよりもいつも〈コミカル〉や〈ほのぼの〉とも同居していたのではないか。
その凄絶さとほのぼのがコンタクトをとるその地点に、たぶん、ずっと立っている。わたしたちは凄絶な状況で、おかしなことがあれば思わずわらうし、ほのぼのとした日常のなかで凄絶な死をとげたりする。だれかがそれを正しいといったり、まちがっているといったりする。だけどもう、それだけじゃ足りないんだ。
おそろしきことぞ思ほゆ原爆ののちなほわれに戦意ありにき 竹山広
人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこうつけ加えた。「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ!」
(ヴォネガット『スローターハウス5』)
(『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)
2017年8月23日水曜日
続フシギな短詩172[川口晴美]/柳本々々
わたしたち
お墓参りみたいに
動物園に行くみたいに
おにぎりやサンドイッチを持って
それが何だったかわからないくらい壊れてしまった欠片を踏んで
生まれたばかりでまだ何になるかわからない欠片に混じって
あそこまでゆきましょう
川口晴美「春とシ」
川口晴美さんに『シン・ゴジラ』をモチーフにした「春とシ」という詩がある。ただ『シン・ゴジラ』をモチーフにしているとは言っても、「シン・ゴジラ」を知らなくても、単独で読んでいろいろなことを考えられる詩になっている。
なぜか。
ひとつは語り手が、「シン・ゴジラ」のたえず《生まれ・死にゆく》部分に着目し、「シン」を「新」とは安易にとらえず、「シンでいったものたち」と〈動詞〉でとらえたからだ。「シン」を動詞ととらえることで、そこにはその「死んだ」と二項対立をつくる「生まれた」も同時に内包することになった。
なぜここにこうしてわたしが生きているのかわかりません
生き残っているのがどうしてこのわたしなのか
わかりません
たくさんのシンでいったものたち
(川口晴美、同上)
「シン・ゴジラ」という生命体はわたしたちの〈外部〉にあるものだが、「シンだ/(ウマれた)」という行為はわたしたち《そのもの》である。
それはわたしのなかにあるものでした
それはわたしのなかにもあるものだとわかりました
(同上)
わたしのなかにある生まれて・死んでゆくもの。そうしたたえずどちらにも・同時にひきさかれてゆくもの。おそろしくて・すばらしいもの。
地下なのか夜なのか明かりというあかりの失われた場所で
おそろしいことがすばらしいことが起こるのをわたしは待ちました
(同上)
ここには『シン・ゴジラ』の怪獣学ではないひとつモチーフが引き出されているように思う。それは『シン・ゴジラ』とは、〈死生学(タナトロジー)〉だったのではないかということだ。それは、生き・死にをかんがえることであり、わたしの生き・死にをかんがえることであり、あなたの生き・死にをかんがえることでもある。
どうしてわたしが死んで・あなたが生きているのか。どうしてわたしが生きて・あなたが死んでしまったのか。どうしてわたしたちは死んでしまったのか。どうしてわたしたちは生き残ってしまったのか。生き残ったあとの生をどう生きてゆけばいいのか。死者をどうわすれ・記憶すればいいのか。
『シン・ゴジラ』はおそろしく・すばらしく、あかりの失われた場所でそれをかんがえさせる、そうこの詩はひきだした。
すぐ隣で誰かが
友だちかもしれない恋人かもしれないわたしの
母親かもしれない誰かが手をあわせて拝んでいました
(……)
シンでいく
わたしに似た誰か
わたしではない誰か
なぜそれがわたしではなかったのか
わからなくてわたしは手をあわせることができません
この手は届かないそういうふうにはできていないわたしのシ
(同上)
「手をあわせ」るだけではやりすごせない「手をあわせること」の不可能性、「手は届かない」という非到達性をもたらす「シ」。この詩で展開されていく死生学的死とはそういうものである。生き・死にについて考えながら、届くことのなかった「シ」についてかんがえる。そして、おもう。わかりません、と。
あれは
カミサマなの? とわたしの生まなかった子どもが指さしても
答えられない名づけることはできない
わかりません
(同上)
だから「祈る」ことで行為を停止しないで、その行為の先まで「ゆ」こうとしてみること。ゴジラが意味も目的もなくあるきつづけるように。
ピクニックのように出かけてゆきましょうね
祈るかわりに
わたし
わたしたち
お墓参りみたいに
動物園に行くみたいに
おにぎりやサンドイッチを持って
それが何だったかわからないくら壊れてしまった欠片を踏んで
生まれたばかりでまだ何になるかわからない欠片に混じって
あそこまでゆきましょう
(同上)
この詩を読んではじめて気づいたのだが、《ほんとうに祈ることができなかったひと》、それは「ゴジラ」だったのではないだろうか。
ゴジラは多くの生と死を生産しながら、手を合わせることのできない身体構造をもっている。「この手は届かないそういうふうに」できているゴジラのからだ。
ゴジラは、からだの構造上、手をあわせ祈ることはできないのだ。どれだけ殺戮しても。だから、「あそこまでゆきましょう」しかゴジラには許されていない。ゴジラにとって祈りは不可能性と非到達性である。
ゴジラの祈る行為の不可能性を、「シにゆく」という動詞=行為をとおして、詩は描いた。
詩は、たえず、死をかんがえている。死をかんがえる詩は、どうじにたえず、祈りのことをかんがえている。祈りのことをかんがえている詩は、祈りの不可能性もかんがえている。祈りの不可能性をかんがえている詩は、祈れなかったものたちのことについても、かんがえている。
(「春とシ」『ユリイカ臨時増刊 『シン・ゴジラ』とはなにか』2016年12月 所収)
2017年8月5日土曜日
続フシギな短詩147[種田山頭火]/柳本々々
分け入つても分け入つても青い山 種田山頭火
高倉健最後の主演作品となった降旗康男監督の映画『あなたへ』は、高倉健演じる主人公が死んだ妻の真意を知るために長崎県まで旅をする物語なのだが、その旅の途上でおなじく旅をしている国語教師と名乗るある男に出会う。その男は北野武が演じているのだけれども、北野武は高倉健に種田山頭火について話してくれる。こんな内容だ。
旅と放浪の違いはわかりますか。芭蕉は旅をしたひとです。山頭火は放浪をしたひとでした。要するに旅と放浪の違いは、《目的があるかないか》なんですよ。
そして北野武は山頭火の「分けいっても分けいっても青い山」の句をつぶやく。つまり、放浪しても放浪しても目的がないのでどこまでも「青い山」が続くということだ。どこにもたどりつかない。それは「青い」という絵画的修飾が示すようにまるで遠景からとらえられた「山」なのだ(ほんとうに今わけいっている人間が「青い山」だなんて認識するだろうか?)。
そう、この句には「分けい」るという近距離なのにもかかわらず、近距離と遠距離がないまぜになっていく瞬間そのものが描かれている。近距離と遠距離がごたまぜになって見境がつかなくなる倒錯的〈放浪〉のしゅんかんが。
もちろん繰り返すがそれはどこにもたどりつかない。
でも、それは、いい。
今回気になったのは自由律についてである。映画のなかの北野武は、この句の内容に沿って「目的」がないことを「放浪」といったが、しかしそれはむしろ形式面においていえることなのではないか。
定型は17音と音数が決まっている。その意味で、定型は、しっかりとした目的のある目的論的形式である。17音にむかってわたしたちはことばを紡ぐのだ。
でも、自由律はちがう。自由律は、「自由」の名のとおり、非目的論的形式である。そこには「目的」がない。つまり「自由律」とは「自由」が目的というよりは、目的論的形式のレールから逸脱しつづけることが唯一の非目的的目的と言える。もちろんそれは込み入った考え方だ。しかし「分け入つても分け入つても」そのものは込み入っている。大事なことなので二回も「分け入つて」込み入っていく。しかしそれでもぜんぜん対象物は近接せずに、「青い山」として遠景化されていく。こうした目的志向(分け入つて)が非目的物(青い山)としてたえず逸脱してしまう非形式的形式こそが自由律なのではないか。
北野武は実は「国語教師」ではない。車上荒らしの犯罪者である。警察に取り押さえられた彼は「旅をしているうちに目的を見失ってしまいました」と高倉健にむかって悲しそうに笑う。でもそれこそが、まさに「分け入つても分け入つても山」の体現そのものなのである。目的志向を反復するうちに、非目的志向の内側にとらえられてしまう。むしろ目的としていたはずのそれそのものから自分自身が被目的化されてしまう。「青い山」が遠景になったのは、目的を見失ったからではない。みずからが被対象化されてしまったのだ。《こちら側》が遠景になってしまったのである。だから、たどりつかない。
自由律とは、どこかで、遠近の倒錯なのだ。だから、
墓のうらに廻る 尾崎放哉
映画のなかの北野武は旅のもうひとつの特徴を語っていた。「旅とは、帰るところがあるということです」と。
でも、遠近が倒錯してしまった人間には帰る場所なんてない。だから自由律の人間は、いつも、さみしい。あるいてもあるいてもまっすぐな道なのにぜんぜんどこにもたどりつかない。たどりつけない。歩いても歩いても。
まつすぐな道でさみしい 種田山頭火
(降旗康男『あなたへ』東宝・2012年 所収)
2017年1月31日火曜日
フシギな短詩80[R15指定]/柳本々々
水晶の 玉をよろこびもてあそぶ
わがこの心
何の心ぞ 石川啄木
*今回は本文もR15指定です。
城定秀夫監督の『悲しき玩具 信子先生の気まぐれ』という映画がある。婚約者がいながらも夜な夜なテレフォンセックスをし、学校では生徒のひとりをおもちゃとして関係をもつ高校の国語教師・伸子を古川いおりさんが演じるのだが、あらすじの通りR15指定の映画で際どい絡みのシーンがたくさん出てくる。
ここで短詩側からこの映画に着目したい理由は映画の合間合間、とくに濡れ場のシーンで必ず石川啄木の短歌がテロップで引用される点だ。声に出されるわけでもなく、静かに表示される。
たとえばふだんおもちゃにされている生徒が焦らされる性的関係にがまんができなくなり、伸子のなかに挿入しようとするやいなや、掲出歌が引用される。
この映画で大事なのは、伸子が生徒と性的関係をもちながらもかならず挿入以前でとまっており、決してセックスに持ち込まないという点だ。生徒が一線を越えようとすると伸子はいう。「入れたら終わりよ。そういう遊びなんだから」(もしかしたらこの言葉は石川啄木「ローマ字日記」のフィストファックとしての暴力的な挿入の言説に対置されているのかもしれない。“Yo wa Onna no Mata ni Te wo irete, tearaku sono Inbu wo kakimawasita. Simai ni wa go-hon no Yubi wo irete dekiru dake tuyoku osita. ...Tui ni Te wa Tekubi made haitta.”)
掲出歌はそんな伸子の〈内面〉を表していると言える。この歌の表示はなぜか「玉」の前に不思議な半角アキがあったが、この「玉」は伸子が愛撫し性器を挿入せずにすり合わせる即物的な生徒の睾丸そのものになっている。性的コードで啄木歌は〈解釈〉されているのだ。
しかしここで注意したいのは、そうした性的コードで積極的な〈誤読〉をほどこすことによって、伸子と生徒だけの親密な〈誤読の共同体〉が形作られるということだ。誤読は、親密な共同体をつくる(これは横溝正史の『獄門島』にもみられた構造だ)。
もちろん、この誤読の共同体にさけめはある。伸子は即物的に生徒の「玉」をもてあそびながらも、「水晶の 玉」としての生徒の〈内面〉も「遊び」としてもてあそんでいる。当然、ここには伸子と生徒の非対称的な〈内面〉の懸隔がある。伸子と生徒は身体的に結ばれないが、結ばれないのはむしろ〈内面〉なのだ。
手もつながず、デートもせず、キスもせず、セックスもしない、〈未満〉の、〈おもちゃ〉のような性的関係。
ここにはもしかしたらラカンが言った「男女の間に性関係は存在しない」というテーゼが露骨にあらわれているかもしれない。お互いの幻想のなかでしか、男女は性的に関係しあえない。症候のなかでしか、男女は出会えない。
手もつながず、デートもせず、キスもせず、セックスもしない、〈未満〉の、〈おもちゃ〉のような性的関係。
ここにはもしかしたらラカンが言った「男女の間に性関係は存在しない」というテーゼが露骨にあらわれているかもしれない。お互いの幻想のなかでしか、男女は性的に関係しあえない。症候のなかでしか、男女は出会えない。
あはれかの
眼鏡の縁をさびしげに
光らせてゐし
女教師よ 石川啄木
また、伸子は国語教師の設定なので啄木の歌を生徒との関係の最中に思い浮かべているのは伸子かもしれず、したがってそのつど引用される歌は伸子の〈内面〉そのものかもしれないということもできる。
生徒と性的関係をもつたびに、伸子の内面に啄木歌が引用されるのだとしたら、実は伸子が挿入を拒絶する以前に、〈啄木〉の短歌そのものが生徒との直接的な関係を妨げているとも言える。彼女は啄木の歌なしでは他者と性的コミュニケーションが結べない人間なのだ。しかしその〈結べなさ〉を掩蔽するように補償するのもまた啄木歌である。彼女は、国語教師なのだから。
生徒と性的関係をもつたびに、伸子の内面に啄木歌が引用されるのだとしたら、実は伸子が挿入を拒絶する以前に、〈啄木〉の短歌そのものが生徒との直接的な関係を妨げているとも言える。彼女は啄木の歌なしでは他者と性的コミュニケーションが結べない人間なのだ。しかしその〈結べなさ〉を掩蔽するように補償するのもまた啄木歌である。彼女は、国語教師なのだから。
短歌はその短さによって解釈の複数性を許すために、ときにみずからの内面を補償してくれるものになる。
映画は最終的に「餞別」としての生徒との最後の一線をこえたセックスに向かっていくが、なぜ生徒と最後にセックスをしたときに啄木歌が引用されなかったかがこの映画のポイントになるように思う。それは伸子がもう引用する必要がなくなったからだ。〈いいわけ〉が必要じゃなくなったのだ。挿入したしゅんかん、伸子先生は言う。「先生、かなしい。かなしいよ」
関係にいいわけがなくなったときに、伸子は生徒とお別れしなければならない。それ以上いくと、関係がおもちゃ以上に昇格してしまうからだ。伸子は啄木のうたをとおしてではなく、はじめて「かなしい」という素の内面を吐露している。それは、きもちいい、ではなく、かなしい、だった。
もしかしたら「玉」を愛撫していたときに引用された「わがこの心/何の心ぞ」はそれを胸中で引用する伸子じしんにずっと問い返されていたのかもしれない。
だとしたら、短歌にはわたしじしんを補償する以外にもうひとつの大切な役割がある。
それは、短歌は、このわたしに、〈問い返してくる〉ということだ。
短歌を思うおまえは、なにを思っているのか。
と言ってみたいところだが、もしかしたらそんなのは男性的なロマンチシズムかもしれない。
映画のいちばん最後に伸子先生が〈ひとり〉で、たったひとりきりで、引用した歌。
百年(ももとせ)の 長き眠りの覚めしごと
あくびしてまし
思ふことなしに 石川啄木
映画タイトルに「伸子先生の気まぐれ」と書かれていたように、「思ふこと」なんてないのだ。
だから、「わがこの心/何の心ぞ」に対する伸子先生の答えはこうだ。「あくび」のように「思ふことなし」。
伸子先生は伸子先生としてそれまでの関係を「あくび」のように一蹴し、また変わらない日常を生きていくだろう。そしてそれが、たぶん、伸子先生の強さだ。
*伸子先生は最終的に〈一人〉になってしまったわけですが、次回はそこからいろんなものを捨てた後の〈一人〉の話をしてみようと思います。
2016年11月4日金曜日
フシギな短詩55[石部明]/柳本々々
黄昏の体かがんで蝶を吐く 石部明
庵野秀明/樋口真嗣の映画『シン・ゴジラ』を観ていてとても印象的だったのが、ゴジラが身をかがめて嘔吐するように熱線を吐くシーンだ。今までのゴジラ映画は熱線をカタルシスのようにどぱーっと噴射していたのに対し、今回のシン・ゴジラは身をかがめ大地に向かって吐瀉物のように熱線を吐いていた。そこにカタルシスはなかった。
では、なにがあったのか。それは、〈痛々しさ〉である。
嘔吐というのは、〈痛み〉につながっている。なにかを排出していくにもかかわらずその吐いている身体そのものが感覚される実存的な痛み。それが〈嘔吐〉ではないか。
わたしは嘔吐するように熱線を口から吐瀉しつづけるゴジラをみながら、ああこれは石部さんの句そのものではないかと思った。「黄昏の体かがんで蝶を吐く」。
〈嘔吐〉は身体の痛みを導入することによって、わたしの痛みだけでなく、あなたへの痛みも問いかける。その意味で、嘔吐は、わたしの「痙攣」からあなたへの「闘争」にもつながっていく。
〈吐き気〉を哲学的に考察したメニングハウスは次のように述べている。
吐き気を初めて理論化した一人であるカントは、吐き気を「強烈な生命感覚」と呼んだ。……吐き気とは、非常事態にして例外状態であり、同化しえない異他的なものにたいする自己防衛の切迫した危機であり、文字どおりの意味で生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争である。
(メニングハウス、竹峰義和・知野ゆり・由比俊行訳『吐き気 ある強烈な感覚の理論と歴史』法政大学出版局、2010年)
〈吐き気〉とは、「非常事態にして例外状態」であり、〈外部〉に違和を感じたこのわたしの「生きるか死ぬか」の「痙攣にして闘争」である。
東京の中心地、皇居の近くにおいて、視覚的にも美しいスペクタクルのような光の熱線とは裏腹にゴジラはまるで〈嘔吐〉するかのように熱線を吐瀉しつづけた。そこにはゴジラ自身の〈外部〉に対する違和としての「生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争」があったのではないか。そして石部さんの句もそうだ。語り手は「かがんで蝶を吐」いている。美しいスペクタクルのような蝶を吐きながら、語り手は「生きるか死ぬかに関わる痙攣にして闘争」をしている。
石部さんの句集には、〈嘔吐〉をめぐる句が多い。少しまとめてみよう。
雑踏のひとり振り向き滝を吐く 石部明
わが喉を激しく人の出入りせり 〃
身体から砂吐く月のあかるさに 〃
ここで石部さんの句で大事なことは、語り手が〈嘔吐〉するたびに、自らを取り巻いている〈場面(シーン)〉を強く意識していることだ。「雑踏のひとり」という交通的場面、「わが喉」が「人の出入り」する空間となる場面、「月のあかる」く光に満ちた場面。
嘔吐や吐き気はわたしからわたしに回収されていくものではなく、たとえそれが排出物であったとしても、わたしから〈外〉へとアクセスされ、場面を想起させるなにかなのだ。
サルトルが経験したように、名前が事物から剥離し始めたとき、言葉は自分の身体からも自立し始めていたので、そのとき体験された名づけようもない嘔吐を催す存在は、わたしを事物や他者から隔てる無であるばかりでなく、わたしの言葉、つまりわたしの自己意識をわたしの身体からも隔てる、ヴァレリイのいう非存在の体験であったともいえる。
(近藤耕人「身体と言葉のコギト」『ユリイカ』1982年11月)
「名づけようもない嘔吐」は「わたし」を「わたしの自己意識」からも遠ざける。だから「嘔吐」はわたしからわたしに過不足なく回収されない。それは吐瀉物がそのまま身体に戻らないように、「嘔吐」によってわたしたちは〈わたし〉からも疎外された「非存在」になる。しかしそのとき逆説的にわたしたちは〈わたし〉の枠組みを抜けだし、〈外〉とそれまでとは違ったやりかたでアクセスするきっかけを見いだすのではないか。
嘔吐(もしわれ影でない何かなら) 小津夜景
(「天蓋に埋もれる家」『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂、2016年)
『シン・ゴジラ』で映画の物語が転回しはじめるのは、ゴジラの〈嘔吐〉によってである。熱線を吐くシーンでは、《わたしがこの世界で死んでも誰もわたしのことを知らないだろう》という趣旨の歌「Who will know」が流れる。この「わたし」とは「ゴジラ」のことではないか。だれもゴジラを理解しない。理解できない。ゴジラは嘔吐する。ゴジラ自身もゴジラのことを理解しない。
だれが《あなた》のことを知るのか。
〈嘔吐〉によってゴジラはゴジラから疎外され、わたしたちもわたしたちから疎外される。でもそこからはじめてふたたびわたしたちの「痙攣にして闘争」がはじまるのではないか。
嘔吐して、疎外されて、はじめて疎外(嘔吐)するわたしは疎外(嘔吐)されたわたしと「殴りあ」えるように、おもうのだ。「オルガン」と「すすき」という異者同士になって。
オルガンとすすきになって殴りあう 石部明
(「遊魔系」『セレクション柳人3 石部明集』邑書林・2006年 所収)
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