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2016年12月20日火曜日

フシギな短詩68[俵万智]/柳本々々





  砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている  俵万智



ちょっと岡野大嗣さんのハムレタスサンドの歌を思い出してもいいかもしれない。

  ハムレタスサンドは床に落ちパンとレタスとハムとパンに分かれた  岡野大嗣
  
 (『サイレンと犀』書肆侃侃房、2014年)

ここで岡野さんの短歌はサンドイッチの冷酷な本質をえぐりだしているように思う。それはなにかというと、サンドイッチというのはつかの間統合されたものであり、それは分離させようと思えばいつでも分離させられるものであるという事実である。サンドイッチとは統合されたつかの間のイメージ=幻想物であり、それは「パンとレタスとハムとパン」という現実界に還っていく可能性もつねに持っている。

その意味ではサンドイッチとは危機に瀕した食べ物であり、精神分析的な主体にも近い。わたしたちはふだんなんらかのイメージで主体をサンドイッチのようにまとめあげているが、危機的な瞬間にそれらがばらばらに分解し、まったく無意味なただモノとモノが支配する現実の世界に投げ出される可能性もある。 そのときわたしたちが感じてしまうのはそれまでイメージからは接近することができなかったモノとしてのリアルな死だろう。

ともかく、サンドイッチは危機的な食べ物かもしれない。

俵さんの歌をみてみよう。この歌はなんだか危機的である。時実新子さんは川柳においては中七さえしっかりしていればどんなに頭やおしりがでこぼこしていてもぐらつくことはないと何度も書いていたが、この俵さんの歌の第二句は、7音ではなく、「ランチついに」と6音になっていることに注意しよう。

この第2句が6音になることで非常にぐらぐらしているのだ。もちろんそれは構造的にぐらぐらしているだけでなく、最初の「砂浜」のイメージもすでに意味的にぐらぐらしている。「砂浜」から始まった歌。それはしっかりしない土壌で始発されたものだ。

そして「卵サンド」。「卵サンド」は幻想の完成物である。岡野さん風に微分していうなら、パンと卵とマヨネーズとパンが複合してできあがったのが「卵サンド」だ。ところがそれは「手つかずの」ままになっている。「気になっている」のだからたぶんその「卵サンド」は〈わたし〉が作ったものだろう。しかしその完成された幻想の複合物を相手は受け取ろうとしない。〈わたし〉と〈あなた〉はサンドイッチのように〈いっしょ〉になることはできない。

もしかしたら俵さんの歌においては、〈食べ物〉はわたしとあなたの対幻想をとりもつなにかなのかもしれない。いっしょになる/ならないがイメージを通して試される場所が食べ物である。

言ってみればあの有名な「サラダ記念日」というのは「サラダ」という食べ物と「記念日」という共同幻想が複合化され、わたしとあなた〈だけ〉の対幻想として立ち上がったものではないか。

この味がいいね」とあなたは言った。〈あなた〉は「卵サンド」を受け取らなかったが、〈わたし〉はあなたのその言葉を受け取るだろう。意味を費やして、「記念日」として、わたしとあなたの対幻想として。

でもその対幻想をあなたが受け取るかどうかはこの「卵サンド」のようにわからないことだ。「この味がいいね」と食べ物に終始しているあなたに対して、「記念日」というメモリアルに置換したのはあくまでわたしの意味構築でしかないのだから。

あなたがなにを考えているのかなんてわたしにはわからない。でも、「気になっている」。

「サラダ記念日」の「七月六日」は「七月七日」という七夕=対幻想から一日ズレた日だ。そのズレをぼくたちは〈どう〉考えればいいんだろう。どう、考えますか。

  「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日  俵万智


          (嶋岡晨「Ⅱ 実例篇-イメージ表現のさまざま」『短歌の技法 イメージ・比喩』飯塚書店・1997年 所収)










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2016年12月6日火曜日

フシギな短詩64[フラワーしげる]/柳本々々





  何だっけ映画に出てくる動物の名前 何だっけ動物の種類 何だっけ動物って  フラワーしげる

フラワーしげるさんの短歌を繰り返し読んでいて気がつくのは語り手の奇妙な〈忘却〉の仕方である。それは掲出歌のように「何だっけ/何だっけ/何だっけ」という意味のレベルで〈忘却〉が行われている、というよりも、むしろ〈定型〉=語り方のレベルで行われているように思うのだ。ちょっと何首か引用してみよう。

  何だっけ映画に出てくる動物の名前 何だっけ動物の種類 何だっけ動物って  フラワーしげる

  棄てられた椅子の横を通りすぎる 誰かがすわっているようで振りむけない  〃

  金持ちよどんなに金をつかっても治らない難病で苦しみながら死んでいってほしい子供のほうには罪はない  〃
  
 (「二十一世紀の冷蔵庫の名前」『現代歌人シリーズ5 ビットとデシベル』書肆侃侃房、2015年)

  オレンジのなかに夜と朝があって精密に世界は動いていた。私はそこで生まれた  〃


   (「二十一世紀の冷蔵庫の名前」『短歌研究』2014年9月)

短歌というよりはどちらかというと音律を意識した詩のようにもみえるが、注意したいのは最初はいつも語り手が〈定型意識〉から短歌に入ってゆくことだ。五七五定型から語り手は語りに没入していくのである。

  なんだっけ/えいがにでてくる/どうぶつの
  すてられた/いすのよこをと/おりすぎる
  かねもちよ/どんなにかねを/つかっても
  おれんじの/なかによるとあ/さがあって

ところが語り手は語っているうちにだんだんと定型を忘却していくかのように〈饒舌〉になっていく。わたしが奇妙な〈忘却〉が行われていると言ったのはその意味においてである。

フラワーさんの語り手は、語っているうちに、〈短歌の語り方〉そのものを忘れていくという奇妙な忘却をみせる。それを別の言い方でこんなふうに言ってもいい。語り手は語っているうちに、内容=意味の方に加速度的にひっぱられてゆき、短歌の語り方を忘却し、意味内容の充実に引き寄せられていくのだと。

これを〈連想の強度〉と呼んでみてもいいのかもしれない。わたしたちは短歌を詠むとき、連想をしながら意味を呼び寄せ、しかし、連想しながらも定型を忘れずに、定型とともに短歌を詠んでいく。つねに意味の連想と定型意識は葛藤している。意味の連想がどれだけ豊かにひろがっていっても、定型を逸脱したらそれは詩や散文になってしまうからだ。

ところがフラワーさんの語り手は連想の強度によって語り手がぐんぐん暴走しはじめる。「金持ちよ」の歌はその最たるものかもしれない。この歌に語り手の〈怒り〉があるとしたら、それは「死んでいってほしい」という過激な物言いとしての意味内容にではなく、語り手がそれを語っているうちに定型意識を忘却していくその語り方そのものにある。

この短歌における〈連想)は、実は短歌の遺産そのものとしてある。「序詞(じょことば)」だ。序詞の歌として有名なのは『百人一首』にもおさめられている柿本人麻呂がつくったとされる次の歌だ。

  あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を一人かもねむ  柿本人麻呂

この人麻呂の歌では、「あしひきの山鳥→山鳥の尾→しだり尾→ながながし」という「夜」にかかっていく長い長い序詞的連想によって《長さ》が充実させられている。しかしその連想の〈暴走〉を静かに・穏やかにしているのは遵守された定型意識である。だからこそ、「一人」で「ね」ることの〈静かなさびしさ〉が浮き彫りにされる。

この人麻呂作と言われる歌に対して批評家の福嶋亮大さんがこんな説明をしている。

  夜の無内容さが際立っていたこと…。この歌は、意味だけをとるならば「長い夜を一人寂しく眠るのだろうか」というだけのことであり、事実上何も言っていないに等しい。しかし、折口信夫によれば、この無内容さには古代人の幸福感の一つの型を認めることができる。歌の平凡な内容が吹き飛んでしまった後「残るものは、過去のわれわれの生活の、実にのんびりとした、のどかな生活であったことを思わせる生活気分が内容となった、空虚そのものがあるだけのことです」。
  思念が深められる夜の時間帯について、この作者は特別な調べを用いずに、のどかな「空虚」のままに留め置いた。
 

   (福嶋亮大「復興期の「天才」」『復興文化論』青土社、2013年)

福嶋さんの指摘するこの歌の〈無内容=空虚〉を受けてわたしが思うのは、〈空虚〉を成立させるためにはある構造的布置がいるのではないかということだ。たとえば定型を遵守しながら、定型=形式をきっちり充実させながら、しかし意味内容を充実させずに、序詞を用い、〈無内容〉かつ〈空虚〉のまま「一人かもねむ」にたどりつくこと。それが短歌にとっての〈空虚〉である。そしてそこには折口信夫の言葉で言えば「古代人の幸福感の一つ」である「実にのんびりとした、のどかな生活」がある。

フラワーさんの短歌はその逆をゆく。連想が加速し肥大し、定型を忘却し、それは〈苛烈さ〉となり、「死んでいってほしい」を生み出す。ここにはもしかしたら〈現代人の不幸の一つ〉であり〈実に苛烈な生活〉のあり方が示されているのかもしれない。

こんなことを言うのは奇天烈なことだということをわかっていて言うが、もし短歌に〈感情〉があるのだとしたら、それは語り手が定型に対してどのように振る舞ったか、振る舞わざるをえなかったか、なにを記憶し、なにを忘れようとしたか、というところにこそあるのではないか。

そこからもう一度かつてこの「フシギな短詩」で取り扱った岡野大嗣さんの長歌を振り返ることもできるかもしれないし、飯田有子さんの破調歌を見直すこともできるかもしれない。

ところで、この記事の最初に書こうとしていた一文をこの記事の最後の一文として書いて終わりにしようと思う。それは、

定型に対するひとそれぞれのふるまいをときどき無性に不思議に思うことが、ある。

  背は何のために大きくなった 手はなにを摑むためにある 星の下で靴を磨く  フラワーしげる

          

(「二十一世紀の冷蔵庫の名前」『現代歌人シリーズ5 ビットとデシベル』書肆侃侃房、2015年 所収)

2016年7月5日火曜日

フシギな短詩24[岡野大嗣]/柳本々々



  空席の目立つ車内の隅っこでひとり何かを呟いている青年が背負っているものは手作りのナップサックでそれはわたしの母が作った  岡野大嗣

『かばん』(2016年5月号)に掲載された岡野大嗣さんの連作「とぎれとぎれ」にこんな一首がある。



  写メでしか見てないけれどきみの犬はきみを残して死なないでほしい  岡野大嗣
 
 (「とぎれとぎれ」『かばん』386号・2016年5月)

この歌にある〈祈り〉の強度は、歌そのものの〈長さ〉にあらわれているのではないかと私は思う。

  写メでしか(5)/見てないけれど(7)/きみの犬は(6)/きみを残して(7)/死なないでほしい(8)

こんなふうに6音と8音の「きみの犬は/死なないでほしい」と祈りを〈とりわけ〉込めた箇所を語り手がていねいに・長く・饒舌に語っているのに注意したい。そのせいでこの歌を読むときにわたしたちは祈りの箇所だけ語り手とともに〈いつもより長く〉言葉のなかに留まるのだ。〈いつもより長い〉時間の共有。

もちろん〈いつもより長い〉とは言ってもそれは一音ぶんの長さでしかない。しかし短歌のなかの時間は、たった一音といえども、〈長い〉。その〈留まった〉ぶんだけ、わたしたちは語り手と〈祈り〉を共有している。時間の〈長さ〉がそのまま〈強度〉になっていくような、祈り。

この歌の「写メ」という瞬間的な時間は、ひきのばされた短歌定型のなかの長い時間のなかで、〈祈り〉の時間へと変わる。そしてそのことによってこの歌の「写メ」という言葉は日常的に消費される〈瞬間的な時間〉を越えて、「死」と等価の時間としての〈長い時間〉をまとうのだ。

「写メでしか見てないけれど」語り手は〈祈り〉の時間をここに歌った。ひきのばされた時間の強度として。

それでは冒頭に掲げた今回の歌をみてほしい。どうしてこんなに長いのだろう。これは〈短歌〉なのだろうか。それとも〈長歌〉なのだろうか。東直子さんは歌集解説でこの歌の形式をこんなふうに書いている。

  五七五七七五九五七七七というリズムを刻み、二首分以上の音数が費やされている。
 
 (東直子「本音の祈り」『サイレンと犀』書肆侃侃房・2014年)

この歌には「二首分以上の長さ」をもった〈時間〉がある。「青年の/ナップサックは/手作りで/それはわたしの/母が作った」と一首に縮約できるはずのものが、ここでは「青年」をめぐる〈空間描写〉から入ったために非常に長い時間を読み手は経験=共有することになる。しかし問題はやはりその〈時間経験〉の濃度だ。

「母が作った」ものに対しては「二首分以上の長さ」としての〈時間経験〉を要すること。それがこの歌がもつ〈時間の強度〉なのではないかと思うのだ。

「母」に至るには長い時間を費やさなければならなかったこと。それは〈短歌〉の想像力を越える長さでなければならなかったこと。

  母と目が初めて合ったそのときの心でみんな死ねますように  岡野大嗣

長い長い歌と時間の〈終わり〉に「母」に出会ったように、語り手はこの歌では〈始まり〉に「母」との出会いを置いたのちにそこから「死」までの〈長い長い時間〉を歌う。

「母と目が初めて合ったそのとき」から「死」までの時間を「母」がつかさどること。

だとしたら、「母」とは〈時間の強度〉そのものではないか。そしてその「母」で始まった〈時間の強度〉は「死ねますように」という〈祈り〉に通じていくのだ。「写メでしか見てな」くても〈生死〉の祈りを賭けられるひと。それは〈母〉のまなざしを持つことができた者だけができる行為なのだ。

〈母〉そのものがひとつの〈祈りの形式〉であること。「母と目が初めて合ったそのとき」から、わたしたちが生まれたときから、わたしたちの〈祈り〉はもう始まっていたこと。

そう、わたしたちは聞いていたはずだ。〈母〉の祈りを。それは〈きれいな鼻歌〉の、終わりのない、〈とぎれとぎれ〉の、たったひとつの〈長い歌〉としての祈りを。

  前をゆく女のひとは鼻歌がきれいで赤ちゃんを抱いている  岡野大嗣
  (「とぎれとぎれ」『かばん』386号・2016年5月)


      (「選択と削除」『サイレンと犀』書肆侃侃房・2014年 所収)