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2017年9月4日月曜日

続フシギな短詩198[野口あや子]/柳本々々


  良い本です よければ貸します じわじわと春の唾液を滲ませて言う  野口あや子

さいきん谷川電話さんの歌集について書かせていただく機会があって、そのとき、唾液というのは短歌においてどんなふうに歌語として培われてきたのだろう、と漠然と考えた。

  二種類の唾液が溶けたエビアンのペットボトルが朝日を通す  谷川電話
  (『恋人不死身説』)

わたしと恋人の「唾液」がエピアンの水とまじりあい、わたしと恋人が一体となった液体をひかりがきらきら通過する。赤坂真理さんの小説『ヴァイブレータ』のこんな一節を思い出す。

  栄養を取り込むように男の汗を吸っている。誰かが言ってた、人はすべてを、水溶液のかたちでしか取り込めない。空気でさえも、体内の水に溶かし込んだものを摂っていると。
  (赤坂真理『ヴァイブレータ』)

電話さんの歌や赤坂さんの小説を読んでわかるように、ひととひとが融合できるのは〈水〉になったときだけだ。わたしはどこにもゆけないが、わたしの水は(行こうとおもえば)どこでにもゆける。あなたの水はわたしのなかに、わたしの水はあなたのなかに。

で、冒頭に話した唾液と短歌をめぐる関係なのだが、飯田有子さんの歌集を読み返していたらこんな〈唾液〉をめぐる歌をみつけた。

  純粋悪夢再生機鳴るたそがれのあたしあなたの唾がきらい  飯田有子
  (『林檎貫通式』ブックパーク、2001年)

実はこの歌の次は飯田さんのここでもかつて取り上げた有名なこの歌がのっている。

  たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔  飯田有子

こうして連作として読んでみるとわかってくる質感は、〈無機質性〉と〈融合への拒絶〉である。「あなたの唾がきらい」や「枝毛姉さん」へのヘルプには、「あなたの唾」が入ってくることの拒絶や「枝毛」という枝分かれ=分岐の称揚がある。

こうして〈唾液〉への距離のスタンスによってその歌の質感も変わってくる。電話さんの歌なら融合感がでてくるし、飯田さんの歌なら非融合感がでてくる。

すごく長い遠回りをしたが、野口さんの歌。この野口さんの歌がおさめられている歌集タイトルは『夏にふれる』で、季節の身体性がよくあらわれているタイトルだが、この歌にも「春の唾液」というように季節の身体性があらわれている。この「唾液」は、電話さんや有子さんの歌にみられたような誰かに所有されている「唾液」ではない。「春の唾液」という大きな主体の、無人称的な唾液である(都市の唾液、国の唾液、雲の唾液のような)。

ただ、この歌が俯瞰的にみえないのは、「良い本です よければ貸します じわじわと春の唾液を滲ませて言う」と、個人の発話によって「春の唾液」がサンドイッチされている点だ。ここには個人の小さな主体と季節という大きな主体がミックスされている、重層的な主体性をみることができる。

野口さんの歌集は性の主題が強くあらわれるが、この歌の「春」も性的なモチーフを含んでいると言ってもいいと思う。「良い本です よければ貸します」と性的な主体がいま近づいている、もしくは今近づかれているのだと。ただそのときの率直な性の欲動の象徴となるような「唾液」が「春の唾液」とされることによってここには大きな主体があらわれている。これは小さな主体と小さな主体の競り合いではない。背景に大きな主体をかかえた小さな主体との競り合いなのである。

だから、この小さな主体をしりぞけても、「春の唾液」はほかの小さな主体に浸透し、またやってくるだろう。性的に競り合うというのは、たぶん、そういうことなのだ。

こんな歌をみてみよう。

  性的な喩ですと言えりくびかざりと首のあいだに錐差し込んで  野口あや子

なぜ「性的な喩です」と言うことによって首に錐を刺されるような瀕死状態に陥っているのか。それは、おそらくここでも、「性的な喩なんですよね? これは?」と言ってくる相手(小さな主体)に対して、大きな主体をっみているからではないだろうか。この小さな主体を否定しても、大きな主体は否定されない。またやってくる。だから、肯定してしまう。「性的な喩です」と。否定なんかしても意味がないのがわかっているので。でも、だからといって、大きな主体のことを感覚もしている。わたしは今大きな主体にさらされていることがわかっている。だから、くびもとに錐が刺さろうとしている。

野口さんの〈唾液〉をめぐる歌は、こうした小さな主体の背後にひかえる大きな主体をみいだしたのではないか。

問題は、こうだとおもう。世界には、小さな主体を肯定しても、意味がないことがある。背後には、大きな主体がいるので。でもだからといって、背後には、大きな主体がいるのだから、否定したって、やはり、意味がないのだ。では、どうすればいいのか。

そのとき、歌う、ということがでてくるのではないのか。それを、その構造を、定型で、うたうということ。

  そういうこともありますよねって言ったときひとりで見ていた黒い川がある  野口あや子


          (「短き木の葉」『夏にふれる』ふらんす堂・2012年 所収)

2016年12月6日火曜日

フシギな短詩64[フラワーしげる]/柳本々々





  何だっけ映画に出てくる動物の名前 何だっけ動物の種類 何だっけ動物って  フラワーしげる

フラワーしげるさんの短歌を繰り返し読んでいて気がつくのは語り手の奇妙な〈忘却〉の仕方である。それは掲出歌のように「何だっけ/何だっけ/何だっけ」という意味のレベルで〈忘却〉が行われている、というよりも、むしろ〈定型〉=語り方のレベルで行われているように思うのだ。ちょっと何首か引用してみよう。

  何だっけ映画に出てくる動物の名前 何だっけ動物の種類 何だっけ動物って  フラワーしげる

  棄てられた椅子の横を通りすぎる 誰かがすわっているようで振りむけない  〃

  金持ちよどんなに金をつかっても治らない難病で苦しみながら死んでいってほしい子供のほうには罪はない  〃
  
 (「二十一世紀の冷蔵庫の名前」『現代歌人シリーズ5 ビットとデシベル』書肆侃侃房、2015年)

  オレンジのなかに夜と朝があって精密に世界は動いていた。私はそこで生まれた  〃


   (「二十一世紀の冷蔵庫の名前」『短歌研究』2014年9月)

短歌というよりはどちらかというと音律を意識した詩のようにもみえるが、注意したいのは最初はいつも語り手が〈定型意識〉から短歌に入ってゆくことだ。五七五定型から語り手は語りに没入していくのである。

  なんだっけ/えいがにでてくる/どうぶつの
  すてられた/いすのよこをと/おりすぎる
  かねもちよ/どんなにかねを/つかっても
  おれんじの/なかによるとあ/さがあって

ところが語り手は語っているうちにだんだんと定型を忘却していくかのように〈饒舌〉になっていく。わたしが奇妙な〈忘却〉が行われていると言ったのはその意味においてである。

フラワーさんの語り手は、語っているうちに、〈短歌の語り方〉そのものを忘れていくという奇妙な忘却をみせる。それを別の言い方でこんなふうに言ってもいい。語り手は語っているうちに、内容=意味の方に加速度的にひっぱられてゆき、短歌の語り方を忘却し、意味内容の充実に引き寄せられていくのだと。

これを〈連想の強度〉と呼んでみてもいいのかもしれない。わたしたちは短歌を詠むとき、連想をしながら意味を呼び寄せ、しかし、連想しながらも定型を忘れずに、定型とともに短歌を詠んでいく。つねに意味の連想と定型意識は葛藤している。意味の連想がどれだけ豊かにひろがっていっても、定型を逸脱したらそれは詩や散文になってしまうからだ。

ところがフラワーさんの語り手は連想の強度によって語り手がぐんぐん暴走しはじめる。「金持ちよ」の歌はその最たるものかもしれない。この歌に語り手の〈怒り〉があるとしたら、それは「死んでいってほしい」という過激な物言いとしての意味内容にではなく、語り手がそれを語っているうちに定型意識を忘却していくその語り方そのものにある。

この短歌における〈連想)は、実は短歌の遺産そのものとしてある。「序詞(じょことば)」だ。序詞の歌として有名なのは『百人一首』にもおさめられている柿本人麻呂がつくったとされる次の歌だ。

  あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を一人かもねむ  柿本人麻呂

この人麻呂の歌では、「あしひきの山鳥→山鳥の尾→しだり尾→ながながし」という「夜」にかかっていく長い長い序詞的連想によって《長さ》が充実させられている。しかしその連想の〈暴走〉を静かに・穏やかにしているのは遵守された定型意識である。だからこそ、「一人」で「ね」ることの〈静かなさびしさ〉が浮き彫りにされる。

この人麻呂作と言われる歌に対して批評家の福嶋亮大さんがこんな説明をしている。

  夜の無内容さが際立っていたこと…。この歌は、意味だけをとるならば「長い夜を一人寂しく眠るのだろうか」というだけのことであり、事実上何も言っていないに等しい。しかし、折口信夫によれば、この無内容さには古代人の幸福感の一つの型を認めることができる。歌の平凡な内容が吹き飛んでしまった後「残るものは、過去のわれわれの生活の、実にのんびりとした、のどかな生活であったことを思わせる生活気分が内容となった、空虚そのものがあるだけのことです」。
  思念が深められる夜の時間帯について、この作者は特別な調べを用いずに、のどかな「空虚」のままに留め置いた。
 

   (福嶋亮大「復興期の「天才」」『復興文化論』青土社、2013年)

福嶋さんの指摘するこの歌の〈無内容=空虚〉を受けてわたしが思うのは、〈空虚〉を成立させるためにはある構造的布置がいるのではないかということだ。たとえば定型を遵守しながら、定型=形式をきっちり充実させながら、しかし意味内容を充実させずに、序詞を用い、〈無内容〉かつ〈空虚〉のまま「一人かもねむ」にたどりつくこと。それが短歌にとっての〈空虚〉である。そしてそこには折口信夫の言葉で言えば「古代人の幸福感の一つ」である「実にのんびりとした、のどかな生活」がある。

フラワーさんの短歌はその逆をゆく。連想が加速し肥大し、定型を忘却し、それは〈苛烈さ〉となり、「死んでいってほしい」を生み出す。ここにはもしかしたら〈現代人の不幸の一つ〉であり〈実に苛烈な生活〉のあり方が示されているのかもしれない。

こんなことを言うのは奇天烈なことだということをわかっていて言うが、もし短歌に〈感情〉があるのだとしたら、それは語り手が定型に対してどのように振る舞ったか、振る舞わざるをえなかったか、なにを記憶し、なにを忘れようとしたか、というところにこそあるのではないか。

そこからもう一度かつてこの「フシギな短詩」で取り扱った岡野大嗣さんの長歌を振り返ることもできるかもしれないし、飯田有子さんの破調歌を見直すこともできるかもしれない。

ところで、この記事の最初に書こうとしていた一文をこの記事の最後の一文として書いて終わりにしようと思う。それは、

定型に対するひとそれぞれのふるまいをときどき無性に不思議に思うことが、ある。

  背は何のために大きくなった 手はなにを摑むためにある 星の下で靴を磨く  フラワーしげる

          

(「二十一世紀の冷蔵庫の名前」『現代歌人シリーズ5 ビットとデシベル』書肆侃侃房、2015年 所収)

2016年8月2日火曜日

フシギな短詩28[飯田有子]/柳本々々



  たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔  飯田有子


この歌の〈格差〉に注意してみたい。私はこの歌の〈読解のしがたさ〉としかしそれでもさし迫って現れてくる〈切迫〉はこの歌に内在している〈格差〉にあるような気がするからだ。

まずこの歌の構造の取り出し方をこんなふうにとってみようと思う。

  たすけて(枝毛姉さん)たすけて(西川毛布のタグ)たすけて(夜中になで回す顔)

ここで大事なのが「たすけて」を三回《まったくおなじかたち》でリフレインできた語り手は主体としては《ブレていない》ということだ。「たすけて/タスケテ/助けて」などの揺れはなく、主体のメッセージはひとつだ、「たすけて」と。語り手はシンプルなほどに〈たすけ〉を求めている。たすけを求める主体はブレていない。

でも問題は〈誰に〉たすけを求めているか、だ。たとえばこんなふうに考えてみる。もしこの歌が次のようなかたちだったらどうか。

  たすけて枝毛姉さんたすけて西川父さんたすけて夜中母さん

ここでは助けを求められた対象が「姉さん/父さん/母さん」と同系列になることでブレてはいない。助けてを求めたい対象が《はっきりする》からだ。ところがこの歌には助けを求める対象に対しての〈格差〉がある。「枝毛姉さん」と「西川毛布のタグ」と「夜中になで回す顔」。「姉さん」(人)と「西川毛布のタグ」(物)と「夜中になで回す顔」(行為)というヘルプの対象のバラバラな〈格差〉によってどうしても〈構造〉が崩れてしまうのだ。

つまりわたしが言いたいのはこういうことだ。

語り手が「たすけ」を求めているのははっきりとわかる。それは「たすけてAたすけてBたすけてC」と「たすけ」を求める主体がブレていないから。

でもその「たすけ」を求める過程のなかで語り手が「たすけ」を求めながら「たすけ」てもらいたい対象への〈格差〉を持ち込み、語り手自身の認知の怪しさを持ち出すことによって構文自体が崩れていく。つまり〈はっきりと〉わからなくなる。この語り手は〈どう〉たすけてもらいたいか、が。

この二段階のレベルによってこの歌は成り立っている。主体の同一性による〈この歌はどうにかして読めそうな切迫観〉と対象の複数性による〈この歌はどうあがいても読めないという逼迫観〉。

これはこの「たすけて」という構文が壊れた歌なのではないかと思うのだ。「たすけて」をはっきり言う主体はある。でもその「たすけて」を回収できる対象も構文もどこにも存在しない。

この歌集『林檎貫通式』が出版されたのは2001年。

小泉純一郎政権による構造改革路線で労働市場が流動化し、格差社会が目立ち始めたのが2001年だった。アメリカ同時多発テロの暗い翳りのなかで、労働強化に連動して鬱病や自殺者が増加した。「たすけて」はあった。でもその「たすけて」を生成する構文も「たすけて」をどこに向けたらいいかという対象も錯綜していた。「たすけて」の言い方も、誰に「たすけ」を求めたらいいかのかもわからない。そういう時代のなかにあった歌だ。

「たすけて」ほしい主体が「たすけて」と叫んでゆくそのプロセスのなかで壊れていく。

誰に助けを求めたらいいのか。誰も助けてはくれない。〈自己責任〉のなかで生きていくしかない。

でも決して〈孤独〉ではなかった。〈みんな〉がみてくれていた。というよりも、〈見えないみんな〉が監視してくれるようになった。対テロ戦争に伴う情勢の不安定化によって、「夜中になで回す顔」のようにたえず〈監視社会〉化していったのもこの年だったから。「枝毛」のように都市のなかに細分化された〈視線〉によって、どこに逃げても「タグ」付けされた〈ひとびと〉が、「顔」を「なで回」されるように朝も「夜」も〈監視〉される〈監視社会〉の到来。たすけて。



  では、がんばりましょうねえとおばあちゃんが手をあげて降りていった夕焼け  飯田有子



          (「オゾンコミュニティ」『林檎貫通式』ブックパーク・2001年 所収)




クレイジーケンバンド楽曲「たすけて」

2016年2月19日金曜日

フシギな短詩3[イイダアリコ]/柳本々々



  淡雪やゴジラのつま先冷えにけり  イイダアリコ

わたしたちは映画というメディア=視座を通していつもゴジラを俯瞰でみている。

でも、考えてみてほしい。わたしたちが現実で出会うゴジラはいつも「つま先」でしかないはずなのだ。だからもしあなたがゴジラに遭遇したとしても、それがゴジラかどうかはわからないのかもしれない。「つま先」しかみえないだろうから。

「淡雪」によって「ゴジラのつま先」が「冷え」ている。降っては消える「淡雪」のような明滅は、これまでゴジラが踏み潰し蕩尽してきたひとの生命の明滅にもつながっている。ずっとその「つま先」によってわたしたちのいのちが燃やされてきたのだ。わたしたちが相対していたのは〈ゴジラ〉という抽象物ではない。「ゴジラのつま先」という具対物だったのである。

しかも語り手はその「つま先」が「冷えにけり」と思いを寄せている。それはゴジラのつま先のことでもあり、もっといえばそのつま先に〈無意味に〉〈天災のように〉費やされたいのちでもある。

わたしたちは、わたしたちの〈これまでの/これからの祖先〉は、なんどもなんども命が蕩尽され、そこに淡雪がおちてゆく、「冷えにけり」な〈光景〉を眼にしたことがあるはずなのだ。

しかしなぜ語り手は「ゴジラのつま先」に気がついたのか。「ゴジラのつま先」に視線を向けることができたのか。

それは「淡雪」という季語を通してだ。

淡雪は、積もることなく、ふわふわ落ちては消えていく。つまり、淡雪の特徴とは〈消える〉ことであり、その〈消える場所そのもの〉に語り手の視線を必然的に向かせることにある。淡雪が降って落ちる〈上から下へ〉、そして淡雪が消えていく〈地表という場所そのもの〉に。

語り手はまず「ゴジラ」よりも「淡雪」が気になった。だからまず「淡雪や(淡雪だなあ)」と感動している。そしてその淡雪の下方ベクトルの明滅をとおして、「ゴジラのつま先」に気づく。

前回の北大路翼さんの句もそうだったのだが、季語は、視線を〈誘導〉する。そしてふだんとは違った見方の「ゴジラ」や「乳輪」を語り手に運んでくる。

わたしたちは俳句を通して〈初めてのゴジラ〉や〈初めての乳輪〉に出会う。

だとしたらそれを裏返してこういうふうに言うこともできるはずだ。

あなたが〈初めてのゴジラ〉や〈初めての乳輪〉を感じたしゅんかん、それは〈俳句のしゅんかん〉なのだと。

          (「for Beautiful Nonhuman Life」『文芸すきま誌 別腹VOL.8』2015年5月 所収)