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2017年9月6日水曜日

超不思議な短詩201[与謝野晶子]/柳本々々


  大いなるツアラツストラの蔑すみし女の中にわれもあるかな  与謝野晶子

この歌に関してこんな解説がある。

  夫との愛の相剋の悩みを歌い続けていた三十四歳のころ、ニイチェの書をよみ愕然とします。女の盲目的従属性を突く「ツアラツストラ」の言葉を肯定しつつも自恃を砕かれた反発ともよみとれます。
  (川口美根子「与謝野晶子」『岡井隆の短歌塾 鑑賞編』)

短歌を読んでいてときどき気になるのが、書物=テクストが歌のなかに出てくる場合だ。テクストは歌のなかで、どんなふうに機能するのか。たとえばこんな歌がある。

  愛情のまさる者先づ死にゆきしとふ方丈記の飢饉描写するどし  五島美代子

愛を優先する人間、なによりも愛のために自分よりもひとのために行動してしまう人間の方がまず死んでしまうという『方丈記』の飢饉描写がするどい、と言っている。

こんな歌もある。

  十三歳(じふさん)で読みし『舞姫』不愉快なり四十歳(しじふ)で読めどかなしからず不愉快  米川千嘉子
  (歌集『一葉の井戸』)

森鴎外『舞姫』はいつ読んでも不愉快だと言っている。この米川さんの歌は、与謝野晶子の掲出歌の系譜を引き継いだ歌といってもいい。『舞姫』は主人公の太田豊太郎の視点をあわせると〈近代自我形成の物語(わたしはどう生きていくべきか、人生とはなんなのか)〉になるのだが、エリスという女性に視点をあわせると、エリスが妊娠させられ、捨てられてしまう〈だけ〉の物語となる。また、エリスが豊太郎に決断をせまる大事なシーンで、豊太郎は気絶してしまい、その決断を友人にまかせてしまう。

  実は『舞姫』の豊太郎は、作中で何一つ自分では決断できていない。一番決断しなければならなかったとき、彼は人事不省に陥っており、やっかいな事後処理をしてくれたのはすべて友人の相沢謙吉なのだった。ヒーローとヒロインの間にはついに何の対話もないまま、一切は友の手によってひそかに片づけられてしまっていたのである。
  (安藤宏『「私」をつくる』)

だから米川さんのおそらく女性主体の語り手はこの『舞姫』を〈女性主体〉=エリスの立場から読んで「不愉快」だと言っている。

与謝野晶子のニーチェ、五島美代子の方丈記、米川千嘉子さんの舞姫。

これら歌にでてきたテクストは、読者の〈期待の地平〉を裏切っていくものであり、歌のなかで逆なでされている。ニーチェのたくましい強さの哲学は女性主体の立場から〈切り捨てられたもの〉が渦を巻き、『方丈記』は「ゆく河の流れはたえずして、しかももとの水にあらず」という〈無常〉よりも〈飢饉〉という現実(リアル)な問題が渦を巻く。米川さんの『舞姫』ではエリスの声が女性主体の身体に宿り渦を巻いている。

テクストは逆なでされながら、歌に顔をあらわしはじめる。それが、歌のなかの、テクスト=書物ではないだろうか。

それは、感動ではない。感動ではなくて、逆なでされた、感・動なのだ。感じて・動いてしまった〈なにか〉。

米川千嘉子さんの歌集タイトルは『一葉の井戸』だが、タイトルに樋口一葉の名前があらわれているように、米川さんはテクストをとりこんだ歌が多い。

  賢治はやさしくせつなく少し変な人花巻花時計に来てまた思ふ  米川千嘉子

  「銃後といふ不思議な町」を産んできたをんなのやうで帽子を被る  〃

宮沢賢治が「やさしくせつなく少し変な人」とやわらかく、しかしとらえがたいアマルガムなイメージで〈現代〉に召喚される。「銃後といふ不思議な町」はかつて取り上げた渡辺白泉さんの句テクストだけれど、「銃後という不思議な町」を「産んできた/帽子を被る」と女性身体から読み直している。

  銃後といふ不思議な町を丘で見た  渡辺白泉

白泉は「見た」と見る主体なのだが、米川さんの歌ではそれを「産んできた」と女性身体から〈翻訳〉し直している。そのことによって、「見た」という「不思議な町」との距離が抹消し、その町を銃後を支えていたのは誰だったのかに想像力が向けられる。しかし語り手は「帽子を被る」。なぜだろう。それはこの語り手が男性/女性という分節だけでなく、当事者/非当事者も意識しているからではないか。

テクストは、多くの人間を取り込むとともに、多くの人間(マイノリティ)を疎外し、忘れたものとしてそれを含みこんで語る。〈忘れたもの〉としてそれは語られる(まるでヒッチコックの映画の地下鉄のシーンに〈黒人〉がいないように)。

けれども、だからといって、テクストの当事者に〈なろう〉というのも、ちがうのだ。それはただの転倒としての反復にしかならない。そうではなくて、テクストを裏返しながら、語らずに、「帽子を被る」こと。それが、テクストを、小説を、本を、〈読み直す〉ということではないだろうか。

テクストを、みつめる、のではなくて、テクストから、みつめかえされること。ここからはじめたい。

  絵はがきにフォービスムの緑のをんなゐてわれを見ながらポストに落ちる  米川千嘉子


          (「与謝野晶子」『岡井隆の短歌塾 鑑賞編1月明の巻』六法出版社・1986年 所収)

2016年12月23日金曜日

フシギな短詩69[本多真弓/本多響乃]/柳本々々




    誰からも習つたことはないはずのへんな形になる ひとを恋ふ  本多真弓/本多響乃


クリスマス前なので「ひとを好きになる」ということについて少し考えてみよう。

この本多さんの歌集に収められた短歌は社会から押しつけられる〈形〉に非常に敏感だ。ちょっとみてみよう。

  佐藤さんは
  結婚しても
  佐藤さん

  手続き楽よ
  と
  笑ふ佐藤さん   本多真弓/本多響乃



  レシートに

  一人


  と記載されてゐて
  わたしはひとりなのだと気づく   〃


  赤い字で記入してくださいねつて
  赤いボールペン渡される   〃


社会から押しつけられる形、それは「結婚」したあとの〈名字〉であったり、貨幣を支払ったあとの「一人」であったり、「赤いボールペン」だったりする。これら歌が特徴的なのは、〈だれか〉や〈なにか〉と《関わる》ことによってその押しつけられる形が生まれるということだ。

わたしたちが社会に関わるということは時になにかを生み出すことではなく、場合によっては、形式を押しつけられることになるかもしれないことを端的にあらわしている(それは「ひとを好きになる」ときもそうだ。「ひとを好きになる」とは実は誰かに・社会に関わるということなのだ)。

「佐藤さん」は「手続き楽よ」と「笑」っているが〈わたし〉は「楽」じゃないかもしれない。そのとき「手続き楽よ」というなにげない言葉はわたしにかすかな暴力として機能するかもしれない。だれも・なにも意図していないのに。

そうここにあらわれた〈押しつけ〉は誰も〈押しつけ〉ようとはしていないものだ。「赤い字で記入してくださいね」は〈押しつけ〉ようとする意図ははない。「赤い字で記入し」なければならないから「赤いボールペン渡」したのだ。しかしそこになぜかかすかな暴力の匂いが生まれてしまう。

これを無人称の暴力と名付けてみたい。誰が意図したわけではない、誰もそうしようと思ったわけではない、しかし誰かと誰かが交流し関わったときに生まれてしまう誰のものでもなく私にかかわってくる暴力を。

掲出歌をみてみよう。だからこその「へんな形」の有効性なのだ。「へんな形」とは〈押しつけられた形〉への反逆になるだろう。もちろんそれも意図しない反逆になる。

ひとを好きになるということは、社会から形をおしつけられることでもある。しかし、同時に、社会から押し付けられた形をくつがえす思いがけない「へんな形」に出会うのもまたひとを好きになるということなのだ。

その意味で、ひとを好きになるということは、素晴らしくない状況にじぶんをつっこみながらも、予想もしない素晴らしさに出会う行為でもある。へん、とは、予想不可能性のことだ。〈わたしの好き〉がたとえ予想可能であっても、〈なんでこのひとがこんなに好きなんだろう〉はいつも「へん」という予想不可能性としての素晴らしさがある。

「恋」をするということは予想もしなかった思いがけない〈形〉をうむことになる。だれも知りえなかったへんなかたちを。

それは押しつけられた形をたえず手に握らされる〈わたし〉の《形の反逆》になるかもしれない。

その意味で、誰かを好きになったり、誰かに恋をしたりすることには、希望がある。

ひとを好きになることは多くの失望をうむ。でも、それでもひとを好きになる「へん」てこなあなたは、もっと希望になる。

  このあひだきみにもらつた夕焼けが
  からだのなかにひろがるよ昼間にも   本多真弓/本多響乃

          (『猫は踏まずに』2013年 所収)