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2019年5月17日金曜日

DAZZLEHAIKU34[市川薹子]  渡邉美保



  戸袋の鳥の巣壊したる夕べ  市川薹子
  
 近所に、いつも二階の雨戸が閉まっている家がある。その庭には大きな柿の木があり、小鳥たちの格好のたまり場になっている。
 二階のベランダから、その木に来る小鳥を見るのが、楽しみでもある。春の終わり頃、雨戸の辺りがことに騒がしくなる。その開かずの雨戸の戸袋に椋鳥が巣を作っているのだ。仲間の椋鳥も大勢やってきて騒ぐ。
 親鳥と思われる二羽が、ひっきりなしに餌を運んでいる。親鳥が戸袋の隙間に身を入れるやいなや、雛鳥たちの一斉に囃し立てるような鳴き声がきこえる。親鳥が出ていくとたちまちシーンとなる。しばらくすると、別の一羽が戸袋に入り、再びピチュピチュざわざわ。その繰り返しが続く。親はたいへんである。
 親鳥二羽のうち、一羽は慎重派で、餌を運んできてもすぐに巣に入らないで、一旦、近くの屋根や庇に着地、周りを見回して安全確認後、巣に入る。しかし別の一羽は、何の用心もせず、さっと来てすっと巣に入る。慎重派と大胆派、どちらが母鳥なのか、興味深い。
 掲句、戸袋の鳥の巣を壊したという、ただそれだけが述べられている。しかし、その言葉には、作者の忸怩たる思いが滲んでいるように思う。これから命を育もうとする鳥の営為を阻むことは決して作者の本意ではない。できればそういうことはしたくないのだ。しかし、日常的に使用する戸袋であれば、鳥の巣を看過することはできない。悲しい「夕べ」が暮れていく。


〈句集『たう』(2017年/ふらんす堂)所収〉

2018年6月19日火曜日

DAZZLEHAIKU24[市川薹子]渡邉美保



  麦秋の水のせてゐる忘貝    市川薹子

浜辺を歩いているとき、二枚貝の片方が離れて一片ずつになった貝殻をよく見かける。それを「忘貝」というそうだ。離ればなれになった二枚貝の片方が、他の一片を忘れるという意の名称だという。また、ワスレガイという名の二枚貝もあるそうだ。「忘貝」の音の響きにはどこか郷愁を感じさせるものがある。
掲句、小さな貝にのった、ほんのひとしずくの水にちがいない。初夏の澄んだ空気の中で、忘貝にのった水は、丸くふくらみ、光り輝いていただろう。周囲の緑も映していただろうか。ささやかな発見。
麦秋の水をのせ、小さな器となった貝を一句に仕立てる作者の繊細な手腕と心延えを思う。
「麦秋」「水」「忘貝」が心地よく響き合う。
「忘貝」は、忘れていた懐かしい世界を思い出させてくれるのかもしれない。

〈句集『たう』(2017年/ふらんす堂)所収〉 

2018年3月8日木曜日

DAZZLEHAIKU20[市川薹子]渡邉美保

 人を呼ぶ手の中にあり蕗の薹  市川薹子

まだ風の冷たい早春の野山で、思いがけなく蕗の薹を発見。その嬉しさには格別のものがある。土中からもたげる萌黄色の花茎は、ふっくらと膨らみ、手に乗せると、自然界から贈られたお雛様の風情がある。待ちかねていた春の訪れを実感させてくれる。
掲句、「人を呼ぶ」から、蕗の薹を見つけた喜びがストレートに伝わってくる。誰かに伝えることで、その喜びはさらに広がっていくようだ。
同行の友を呼ぶ作者の弾む声。一つ見つかると次々に現れる蕗の薹。一緒にしゃがんで摘んでいる明るい光景が目に浮かぶ。「蕗みそに・・」「天麩羅に・・」などの料理談義も聞こえて来そうだ。そして、蕗の薹のほろ苦い味覚の記憶が蘇る。そのほろ苦さがまた春を呼ぶ。人を呼ぶ。
「蕗の薹」という季語のゆるぎない力をしみじみ思う。

〈句集『たう』(ふらんす堂/2017年)所収〉