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2015年4月22日水曜日

貯金箱を割る日 27[辻本敬之] / 仮屋賢一



湾岸に倉庫のごつた春霞  辻本敬之

 そんなに言うほど湾岸に倉庫ってごった返していたっけ、倉庫って存外綺麗に並んで建てられているものじゃないかな、なんて思ってたら、春霞。遠くから見遣っているのか。なるほどなあ。
 湾岸の倉庫なんて言われたら、ものすごく無機質な感じがするんだけれども、霞の世界の中ではそういう素っ気なさは薄れる。あの倉庫にあるものは、これから世界に輸出されてゆくのかな、とか、巡り巡って自分の手元にもやってきたりするのかな、とか。倉庫ってのも、世界の一部で、いかにも人工物っぽくて湾岸に追いやられている感じがするけど、すごく広い意味で捉えたら自然の一部なんだな、なんて。ほんとうは大してごった返している感じじゃないんだけれども、「ごつた」って感じもしてくる気がする。

霞って、ぼやけて見えにくくするくせに、物の先入観をかき消して本質に到達することが出来そうな、そんな幻想さえ持たせてくれる。


2015年4月16日木曜日

貯金箱を割る日 26 [下楠絵里] / 仮屋賢一



宛先のはらひ大きく燕かな  下楠絵里

 側(ソク)、勒(ロク)、努(ド)、趯(テキ)、策(サク)、掠(リャク)、啄(タク)、磔(タク)。「永字八法」である。それぞれ、点、横画、縦画、はね、右上がりの横画、左はらい、短い左はらい、右はらいで、この順番で「永」の字に現れる。この作品で詠まれている「はらひ」は、最後の右はらい、「磔」だろう。

 漢字の最後の右はらいが大きい。それだけで、どこかスカッとした気分になる。丁度良い塩梅で、力の入れ加減と抜き加減とがバランスを取り合っている。

 でも、それだけじゃあこの句の作者は飽きたらない。それが他でもなく、宛先の文字。誰かに向けて、送られる。そう考えただけで世界は一段と広くなるけど、それだけでなく、いくら「はらひ」が「大き」いとはいえ、それを相手に届けるのだから、それほどおかしなバランスの字にはなっていないのだろう。だからこそ、余計に気持ちが良い。

 これまでに「気持ちの良さ」を押し出してきたが、その一番の決め手は「燕」だろう。「はらひ」の「大き」な「宛先」、でもそれが暑苦しくも目障りでもないのは、「燕」のどこか颯爽としたイメージのお蔭なのかもしれない。送りたい相手に、それも、離れたところにいる相手に、この手紙は投函される。


2015年4月12日日曜日

貯金箱を割る日 25[古庄薫] / 仮屋賢一



予約した鼓動と走る春一番  古庄薫

 「予約」という言葉が、いちばん不思議。ふつうの生活だったら、「予約」は現実的で堅実な行動。でも、そんな卑近なイメージ、この作品中の「予約」には漂っていないんだよなあ。「予約」って言葉、他に何で見たっけな。

そうだ、「予約語」なんて言葉があった。プログラムを書くとき、変数の名前だったり、関数の名前だったり、何かと自分で定義して使うことが多い。あとで見て分かりやすいように、だいたい自由に名付けることができるけれども、使えない名前もある。あらかじめそのプログラム言語で意味が決まっている言葉だったり、紛らわしいから使えないようにしている言葉だったり。それが、「予約語」。プログラム言語に、その語の使用を予約されているようなイメージ。

なるほど、こんなイメージなのかもしれない。「予約」には、「自由に扱えない」というイメージもある。あらかじめ、プログラムされている、そのとおりにしか使えない。このくらいのイメージが、この作品にはぴったりだ。ただ、それは必ずしもネガティヴなイメージではない。「予約」という一種の制約により、却って広がる可能性の世界。

「予約」なんて言葉にこんな世界へ誘われるなんて、どんな言葉も侮れないな、と思わせられる。『春を探して』二十句中の一句。

《出典:『乙女ひととせ ver.2013』(同志社女子大学表象文化学部日本語日本文学科)》

2015年4月4日土曜日

貯金箱を割る日 24[ひで] / 仮屋賢一



点三つ並べれば顔万愚節  ひで

 異なる3点が決まれば、平面が決定する。異なる3点が決まれば、円が決定する。異なる3点が決まれば、放物線が決定する。異なる3点が決まれば、顔が決定する。
∵シミュラクラ現象

 「決定する」は言い過ぎだが、確かに「∵」は顔に見える。一度顔に見えたら、「∵」の本来の意味すら吹き飛んでしまうくらい、強烈だ。ボウリングの球の指を入れる穴が顔に見える、といった経験がある人も多いだろう。「人間の顔をした埴輪の絵を描け」と言ったら、多くのうろ覚えの人は、適当な輪郭に丸を三つ書くだろう。なんとも滑稽な顔が出来上がる。ほんとうは、顔には目と口以外に、鼻をはじめとして点で表せそうなものはいっぱいあるんだけれども、顔を表すには点三つで十分だ、なんていう人間の認識の不思議な部分がある。こういった、大きな発見を言っているようで、実は大したことのない、というよりナンセンスなようで、という絶妙な塩梅の事実の呈示が、「万愚節」という言葉と調度良く響き合っているのではないかな、と思う。「エイプリルフール」よりも、「四月馬鹿」よりも、「万愚節」って少し知的な滑稽さがある気がする。

 点三つ並べれば顔なんだけれども、そうやって出来た顔は誰の顔でもない。

∵そんな人、どこにもいないんだから。

《出典:『万愚節の結果発表|俳句ポスト365』(2015年4月5日閲覧)》

2015年3月31日火曜日

貯金箱を割る日 23[佐藤和香] / 仮屋賢一



梅雨ごもり自画像の眼を描き直す  佐藤和香

 自分の顔は他人の顔ではない。他人の顔という厖大な数の概念の中に埋もれることが出来ず、唯一無二の存在であることしか許されない、自分の顔。ときおり脳裡を過るその解けない呪縛は、ぞっとするような世界へ人を誘う。

 自分で描いた自分の顔。なんだか違う、どこか気に食わない。だから、描き直す。この自画像は、デッサン。より良く仕上げるためなのだけれども、この句、どこか怖い。全体がモノクロームの色彩に仕立てられた掲句、その淡々とした語りに一層、怖さが引き立つ。

 描き直して見栄えは良くなったかもしれないけど、自分の顔からは離れてゆく。だからといって元の眼にしてみたけど、やっぱりこれも違う。描き直すたび黒く塗る眼。見られることに徹する自分の眼を、見るための器官でじっくりと観察する。終わりのないループに迷い込んだ気持ち。外に出たい。抜け出たい。でも、出られない。

 ゴールはたぶん、呪縛の外にある。自分の顔が唯一の存在でなく、数多の他人の顔の一つでしかなくなったとき、このループからも抜け出せる。でも、このウロボロスは、呑み込むことをやめることはできない。梅雨は、いつか明ける。違いといえば、これくらい。


《出典:『第十五回俳句甲子園公式作品集 創刊号』(NPO法人俳句甲子園実行委員会,2012)》

2015年3月17日火曜日

貯金箱を割る日 22[福井蒼平] / 仮屋賢一



紫陽花や読経の声の響きたり  福井蒼平

 「紫陽花」と「読経」、か。なるほどな。

 四枚の萼で出来た花びらのようなものがたくさん集まって、一朶の紫陽花。大抵の紫陽花は、その葉や茎などの緑の部分を除けば、単色の世界。にもかかわらず、なんだか奥深い世界観を持っているようで、見惚れてしまう。萼がたくさん集まっているけど、煩いと感じたことは全くと言っていいほどない。かといって、紫陽花の四葩一つ一つの細かな違いに変化やコントラストを見出しているわけでもなく、似たようなもの、同じようなものがたくさん集まっているというくらいの認識でしか普通は見ていない。造形美、という言葉を思いついたけれども、なんだかそれも違う気がする。確かにそういう美も紫陽花にはあるのかもしれないけれども、紫陽花を形容する言葉ではない気がする。一朶の紫陽花の美しさって、どう表現したらしっくりくるんだろう。そう思っていた。

 「読経」……ああ、そうか。その世界観だ。掲句を見てピンときた。日本の音楽の原点は、真言声明・天台声明と言われる。お経に節をつけて唱えるのである。音楽としては単旋律音楽に他ならない。これを大人数で唱えたところで、単なるモノフォニーになるかといえば、そうでもない。スピード、タイミング、高低の幅、音程、一人ひとりにズレがある。大人数でお経を唱えたときのあの独特な響きを思い出してもらえばいいかもしれない。ここに発生しているのは、間違いなく、ヘテロフォニーの響き。

普段耳にする音楽といえば、旋律と伴奏の組み合わせだけで成り立つホモフォニーに、時たま輪唱などのように多くの独立した旋律線によって成り立つポリフォニーの響きが加わったようなもの。西洋音楽の多くがこれである。対して、モノフォニーは極めて原始的であるし、ヘテロフォニーも原始的なもので、エキゾチックな印象を受けるし、西洋音楽だとしても宗教色が色濃く感じられる。現代の日本人にとっては、ヘテロフォニーの音楽はどことなく異質な感じがあるのかもしれない。

「紫陽花」と「読経」がどう僕の中でしっくり来たのか。それは、こういうことだ。「紫陽花の魅力って、もしかしたらヘテロフォニーの魅力にほかならないんじゃないか」と。それも、日本の音楽の根底とも言える、「読経」によるヘテロフォニー。

掲句自体、形の上で気になる部分(「~や~たり」のような部分)があったり、この読経が一人なのかそうでないのか判別しがたかったり(何人もが声を合わせるのは「諷経」という言葉があるらしいが、使いづらいのは確か)、そういう部分も確かにある。だから、この捉え方が作者の意図どおりなのか、あるいは一般的なのか、いつにも増して自信は無いのだけれども、ただ、この句を読んで僕の中でこういう発見があったという喜びを今回の記事では伝え、筆を置こうと思う。

《出典:『第十四回俳句甲子園公式作品集 創刊ゼロ号』(NPO法人俳句甲子園実行委員会,2011)》

2015年3月11日水曜日

貯金箱を割る日 21 [阿部開晴] / 仮屋賢一



春の坂余震の中を止まらずに  阿部開晴

 年に一回のイベントは、その歴史を追うだけで当時の社会の様子が浮かび上がってくる、なんてことがあるから面白い。それは決してその当時の全部ではないけれども、真実の一端であることに疑う余地はない。

 毎年夏に行われる、高校生のための俳句の一大イベント、俳句甲子園。2011年、その全国大会には、被災地と呼ばれる地域の高校の生徒も参加していた。彼ら、彼女らの作品には、地震や震災のことを詠んだ句もあった。改めてその時に提出された句を眺めてみると、それらの句は決して多いとは言えない量ではあったけれども、当時の俳句甲子園を特徴づけるには十分な数であった。

 掲句の作者は当時、岩手県立黒沢尻北高等学校からのチームとして出場していた。震災・地震というテーマの中で、「余震」を詠むことを選択した。一つの地震に、本震は一つ。対して余震は長く続く。

 春の坂は、輝かしい光のなか、空へ向かって伸びている。再度起こる余震の中、その坂道を登る主人公。「止まらない」のは馴れたからなんかじゃない、諦めなんてネガティヴなものでもない。そこにあるのは強い意志。


 ここからは幾分勝手なことを述べるが、「一紙半銭も私せず」という精神とともに、剣術家・柳生但馬守宗矩の生涯を、家康・秀忠・家光の徳川三代の時代を背景に描いた作品がある。NHK大河ドラマ、『春の坂道』である。残念ながら本篇はほぼ見られないが、大御所・三善晃氏によるテーマ曲は好きで何度も聴いている(三善氏の2年前の訃報に際しては、どれだけ驚きどれだけ悼んだことか)。この作品中でも一切ブレない三善氏の作曲姿勢も去ることながら、スタート地点から着実に坂道を登り続けていくようなエネルギーが貫徹して存在する。名曲である。


 話が大分逸れてしまったが、この句にもそのようなエネルギーを感じずにはいられない。考えてみれば、地震を引き起こす源は大地に秘められたエネルギー。自然に抗わず、自分を卑下することもなく、等身大の自分のままでいる。だからこそ、大地のエネルギーに勝るとも劣らない人間のエネルギーを、当時の高校生は見出すことができた。そして、俳句という詩を信じ、その想いをそこに託したのである。

《出典:『第十四回俳句甲子園公式作品集 創刊ゼロ号』(NPO法人俳句甲子園実行委員会,2011)》

2015年3月6日金曜日

貯金箱を割る日 20[一万尺] / 仮屋賢一



討入を果して残る紙の雪  一万尺

 小説の最後の一文を読み終えたとき、あちら側の世界に突如取り残されたかのような気分になって、不安というか、虚無感というか、そういった取り留めのない気持ちに襲われることがある。自分が良いと思える作品に出会えた時は大抵そうで、映画であっても、演劇であっても、テレビドラマであっても、音楽であってもそう。そんな気分になるとき、多分、虚と実の間の壁がなくなっている。

 この作品に僕が感じるのも、そういう気持ち。この句、確かに季語は無いと考えていいとは思うけれども、そこに季節はある。というのも、「討入」と「紙の雪」という二語だけで、この句が何かの芝居の舞台上であることは容易に想像がつく。分かる人であれば、これが歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』であるというところまで分かるだろう。師走狂言である。そうして作者の名前を見て、合点がいく。

 季語の力でなく、自分の世界の力で勝負を仕掛けたこの作品。虚と実の曖昧になった、あるような、ないような、そんな境界を、ありのままに詠み上げた作品。静かな感動が押し寄せる。

《出典:角川『俳句』2014年12月号》

2015年2月28日土曜日

貯金箱を割る日 19[一万尺] / 仮屋賢一



水仙や小さき白と生きること  一万尺

 十代目坂東三津五郎、俳号は一万尺。昨年のテレビドラマ『ルーズヴェルト・ゲーム』でお見かけしたのも最近のことに思えるし、2015年2月27日放送の『美の壺』(BSプレミアム)で放映されたインタビュー映像(2月7日収録)の様子を見ても信じられないくらいの早世である。ご冥福をお祈りする。

 この句は、優しい言葉で仕立てられていて、声に出せば心地よい調べに安らぎを感じる。ただ、その心地よさは母親のような包容力というよりも、どこか男性的な頼もしさゆえの安心のようなものを感じる。それは、選ばれた一つ一つの言葉が凛としていているだけでなく、作者が型の持つ力というものを誰よりも信じているその姿勢が伝わってくるように感じているからなのかもしれない。
 白い花を咲かせる水仙。それを写実的に表現したのがこの句だとして、「小さき白」という表現は非常に魅力的である。水仙の花だけを見ているわけでなく、群生する水仙を俯瞰的に見るわけでもなく、一本の水仙をそれ以上でもそれ以下でもない存在として尊厳を持って見ている。この句における「生きる」という措辞には聊か擬人的な響きがありながらも、俳句としての世界観が損なわれないのは、この尊厳を持った眼差しによるものだろう。

 この作品の横に作者の名前が並んだとき、そこにはさらなる世界の広がりがある。踊りの名手として、「楷書の芸」で人々を魅了した坂東三津五郎氏。曲線的な美しさと洗練され筋の通っているような姿を持ち合わせた水仙が、氏の姿とどことなく重なりあうよう。また、氏は雑誌の対談にてこう語っている。


女性の一年がいい役者を育てるという部分もあって…(中略)…女性の執念、一念は一人の役者を育てるような気がいたしますね。
(角川『俳句』2014年12月号)
決して歌舞伎の表舞台には立たない女性の存在。小さいながらも確かな存在感を持つ「小さき白」。どこか重なりあうような、そうでないような。絶対的な確証はないのだが、少なくとも、「小さき白」は、この作品の中で逆説的に大きな存在となっていることは確か。水仙に見えるのは、歌舞伎の精神世界そのものなのだ。


《出典:2015年2月24日朝日新聞朝刊『天声人語』》

2015年2月23日月曜日

貯金箱を割る日 18[和田誠] / 仮屋賢一



春光や家なき人も物を干す  和田誠

 物を干すという言葉には、極めて家庭的な響きがある。洗濯物を干すにしても、魚や野菜や果物を干すにしても、何にしても。

 「家なき人」という言葉が堂々と中七にありながらも、読後感は非常に気持ち良い。そこにあるもの全てにいきいきとした輝きを与える春光ではあるが、「春愁」という言葉もある季節、ポジティブさとネガティブさは表裏一体。「春光」と「家なき人」との組み合わせは、ともすれば感傷的になり叙情に流されかねない。でも、この作品においては「物を干す」という措辞によって「何ら特別でない日常生活」という主題が浮かび上がる。特別でない、というのは、当人たちにとって、というのもそうだけれども、この作品の作者自身がそう感じているのだろう。優劣の一切ない、すべて横並びの「生活」として捉えている。「同情するならカネをくれ」(『家なき子』)なんてことは決して言われそうにない。というよりここには「上から目線の同情」(『リーガル・ハイ』)なんてものは存在しない。だから、安心して気持よくこの作品を鑑賞することができるのだろう。

《出典:和田誠『白い嘘』(梧葉出版,2002)》

2015年2月17日火曜日

貯金箱を割る日 17[和田誠] / 仮屋賢一



司会者の慇懃無礼去年今年  和田誠

 喋ることが仕事とはいえ、司会業を営む人たち皆が完璧な日本語を使いこなせているわけでもなく、そのキャラクターは人それぞれ。中には、なんにも間違っていないのだけれども、使う言葉にどうにも違和感を覚えるような人だっている。特に敬語なんかで、聞く度に鳥肌が立つような、そんな感じ。日本語の問題、というより、その人のキャラクターの問題だろう。なんだか、「らしくない」とでもいうべき、あの感触。

 年末から新年にかけて、忘年会や新年会をはじめとして、何かとイベントが多い。テレビショーでも特別番組が多く編成され、司会の人々が多く目につく。そういう人々の慇懃無礼さも、一種の風物詩というような感じで、気にはなりつつも、こちらはこちらでワイワイやっている、だとか、お茶の間で家族団欒、和気藹々と楽しんでいるだとか、そんな風景が見えてくる。「無礼講」という言葉も思い浮かんでくるよう。昨年もなんだかんだありましたけど、総じていい年でしたね。今年もよい年になりますように。そんな具合だろうか。

《出典:和田誠『白い嘘』(梧葉出版,2002)》

2015年2月11日水曜日

貯金箱を割る日 16[和田誠] / 仮屋賢一



人形も腹話術師も春の風邪  和田誠


腹話術を見たあと、自分でもできるんじゃないかと思ってしまう。で、真似してみたら全然できない。こういう経験、あるだろう。どれほどの超絶技巧であっても、凄いと思わせないのがプロの技なのだろうか。腹話術という芸は見ている人々ととっても近い位置にある。

人形だって、人間と見紛うほどの精巧なもの、というものでは決してなくて、どこかがデフォルメされているような、いかにも人形らしい滑稽なもの。声を出しているのは腹話術師だって分かっていても、あたかも人形が生命を持っているように見えるから不思議だ。

そういう近しさや滑稽さからなのだろうか、腹話術の人形ほど風邪を引きそうな人形は他にない。大したことはないけれども、長引くという嫌らしさを持った春の風邪。もしかしたら風邪のことも盛り込んで軽妙な会話を舞台上で繰り広げているのかもしれない。

腹話術師が風邪を引いているから、当然のように人形も風邪、と言ってしまえばそれまでだけれども、この作品はそんな短絡的な世界観ではない。腹話術師と人形が、常に一緒に行動する相棒であるからこそ、風邪もうつってしまったかのようなこの感じ。絆というか、なんというか。和田さんのイラストとも相通づるものを感じるような、とってもあたたかな空気感がここにある。

《出典:和田誠『白い嘘』(梧葉出版,2002)》

2015年2月5日木曜日

貯金箱を割る日 15[夏目漱石] / 仮屋賢一



初夢や金も拾はず死にもせず   夏目漱石

初夢だからといって、特別おめでたい夢を見るかといえばそうでもない。いつものように、訳の分からない夢だったり、現実と混同してしまうようなリアルな夢だったり、そもそも夢を見たかどうかすらあやふやだったり、そんなもの。でもそういう、日常と何ら変わらないことにめでたさや嬉しさを感じるのが人間。

とはいえ、「金も拾はず」がめでたいと感じるのも、考えてみれば不思議だ。さすがに100万円拾う夢を見たら不安も拭い切れないが、100円拾う夢だったら何の懸念もなく「めでたい夢だ」と思うだろう。多分、日常的で一般的なめでたさの基準は、ここだ。逆に1円でも落とせば、どこか不吉な感じが漂う。「金も拾はず」が、めでたさラインのすれすれを言い当てている。だからこそ、「死にもせず」が非常に幸せなものとして映る。


ところで、「幸せ」は、世相をリアルタイムで映し出すものだとつくづく思う。「死にもせず」生きていることがどれだけ幸せであるのか。一ヶ月前にこの句を鑑賞するのと、今日鑑賞するのと、心持ちが大きく異なる、という日本人は、特に多いに違いない。そう思いつつ、2015年の立春の日も終わりを迎えようとしている。

《出典:『漱石全集』》

2015年1月30日金曜日

貯金箱を割る日 14[夏目漱石] / 仮屋賢一


満堂の閻浮檀金や宵の春   夏目漱石

 これほどまでにストレートな褒誉は読んでいて気持ちがよい。

 英国留学中に高浜虚子に宛てた書簡に記された句で、「当地の芝居は中々立派に候。」とある。
 会場内に満ち溢れる閻浮檀金(えんぶだごん)。仏教の経典中にみられる想像上の金で、金の中で最もすぐれたものとされているらしい。舞台上だけなのではなく「満堂の」なのだから、客席までをも取り巻く雰囲気全てが「立派」なのだろう。舞台上の人々の衣装や、観客の着飾った姿も思い起こさせる。称賛は「宵の春」にも表れている。終演が丁度宵のころだったというだけにとどまらない。芝居の世界、空気感からまだ抜け切れないまま身体だけが現実に引き戻されたような、芝居終わりの独特の気持ちが、春の朧気な空気感と響きあい、また宵という時間帯、このマジックアワーがさらに非現実と現実の織り交ざった不思議な空間を演出している。「宵」ではなく「春」というさらに漠然とした鷹揚な語で句を終えたことで、この空間が一句全体のみならず、この句を鑑賞する者をも包み込むようだ。

「春の宵」「鞦韆」を春の季語として定着させた蘇軾の詩『春夜』。その第一句「春宵一刻直千金」というのを直に漱石は感じているのだろう。

とはいえ、『明治座の所感を虚子君に問れて』や『虚子君へ』で漱石が述べているように、日本帰国後に見た歌舞伎に関してはあまり気に入らなかったようで、それでも虚子が芝居見物に引っ張り出してようやく「能は退屈だけれども面白いものだ」(『漱石氏と私』)と興味を見せたようだ。
たぶん、漱石が能を誉めるような内容の句を作ったとしても、「閻浮檀金」なんて華やかな言葉は使わないに違いない。いや、漱石じゃなくても、「満堂の閻浮檀金」なんて表現を日本の演劇に使うのは相応しくない気がする。

漱石の、能に対する「退屈だけれども面白い」という評、また、歌舞伎に関して、その構造が滅茶苦茶だと言わんばかりの批評をしながらも多少の興味を見出した「形の上の或る発達した美しさ」。ある意味で正鵠を射ているのかもしれない。

西洋の芸能と日本の芸能との本質的な違いが、こういうところに見え隠れする。


《出典:高浜虚子『漱石氏と私』(1918)》

2015年1月21日水曜日

貯金箱を割る日 13 [夏目漱石] / 仮屋賢一


永き日や欠伸うつして別れ行く   夏目漱石

 「じゃ、またあとで」とでもいうような気楽さで曲がり角を別々の方向へ行く二人。別れ際に欠伸するくらいだから、相当気の置けない仲なのだろう。その様子を見ていると、別れとはいえ大したことなさそうだし、こんな折々に悲しさなんて感じていてはきりがない。

 でも、この句をなんども読み返していると、一抹の寂寥を覚える。それこそが、「永き日」の魔力なのかもしれない。小さな別れにしては大きすぎるスケール感。春風駘蕩の伸びやかさと同居する寂寞が顔をのぞかせる。

 この作品は漱石が虚子への送別として贈ったものである。漱石が第五高等学校へ赴くため来熊し、虚子は東京へと行くのだから、かなり大きな別れだろう。その別れをこんな風に詠めるなんて、漱石と虚子の間柄を想像するのも容易い。

《出典:坪内稔典『俳人漱石』(2003,岩波新書)》

2015年1月15日木曜日

貯金箱を割る日 12 [尾池和夫] / 仮屋賢一


トランプの王の顔して草を刈る   尾池和夫

 トランプの王ほどぞんざいな扱いを受ける王はいない。二枚揃うと捨てられたり、マジシャンに寸々に破られたり。とにかく他のカードと同じように、敬われることなく扱われる。ダビデ王、カール大帝、カエサル、アレクサンドロス大王とそのモデルにはビッグネームが並ぶのだが、ダイヤのキングで「ブルータス、お前もか」ごっこをして遊ぶ人なんて見たことがないくらい、そんなことは知られていない。

 剣あるいは斧を脇に、トランプの王は威厳があるといえばあるのだが、滑稽といえば滑稽だし、そう考えるとなかなか不思議である。草刈の農家の顔、これといった特別な表情はないかもしれないけれども、そういうところが手にしている鎌との妙なミスマッチ感を醸し出しているのかもしれない。
長く経験を積み、確かな腕を持った農家だからこその表情なのだろう。「トランプの王」に決して負の要素はなく、親しみと尊敬を持った上での農家への挨拶なのだろう。

《出典:尾池和夫『大地』(2004,角川書店)》

2015年1月9日金曜日

貯金箱を割る日 11 [尾池和夫] / 仮屋賢一


三門を抜けて秋風南禅寺   尾池和夫

 今からちょうど百三十年前、琵琶湖疎水が着工された。当時の京都府知事、北垣国道が計画し、主任技術者の任についたのは工部大学校を卒業したばかりの田辺朔郎。京都の一台プロジェクト、過酷な工事に命を落とす人も。しかし明治期から今にいたるまでの京都の発展は、この疎水無しには語れない。

 前回に引き続いて、堂々と固有名詞を掲げた一句。南禅寺でなくとも、三門を抜けた途端に空気が引き締まったような、そんな気持ちになることはあるだろう。京都の古刹には紅葉で有名なところも多く、南禅寺も例外でない。

 室町時代には京都五山、および鎌倉五山の上位に配された南禅寺。別格である。実際訪れてみると、突如別世界に訪れたような感覚に襲われる。三門を抜けた瞬間に、訪れた者をその世界にいざなう秋風。恣意的であるともとれる上五中七の措辞だが、南禅寺という舞台が読むものを大いに納得させる。

 もう一つ。南禅寺には堂々と異国の雰囲気を漂わせる煉瓦造りのアーチがある。日の有名な、水路閣である。アーチの上を流れるのは、琵琶湖より続く水の路。このアーチの存在に違和感を全く覚えないのも、南禅寺の風格だろう。

 我々を別世界にいざなう秋風は、南禅寺固有の空気感に、琵琶湖より続く地理的・歴史的なスケールも加わり、一大叙事詩のような壮大さをもって吹き渡る。

《出典:尾池和夫『大地』(2004,角川書店)》

2015年1月3日土曜日

貯金箱を割る日10 [尾池和夫] / 仮屋賢一


花折断層に沿つて音たて春の川   尾池和夫

 今年で二十年を迎える。兵庫県南部地震と、それによる阪神・淡路大震災である。京都の地で地震を研究する京都大学元総長・尾池和夫氏にとって、この地震はいかなるものであったのだろう。

 掲句はその年、平成七年の作。花折断層とは、滋賀県高島市今津町から京都市左京区に至る直線性の高い右横ずれ断層である。京都大学のすぐ隣にある吉田山を作ったのもこの断層。地図を見れば、花折断層に沿うように、高野川(出町柳で賀茂川と合流し鴨川となる)が流れている。春の川は、この川をイメージしているのだろうか。地図を見なくたって、京都人なら多分、高野川や鴨川をイメージするだろう。

どこをどんなふうに川が流れていようと、たとえそれが断層に沿っていようとそうでなかろうと、川は音をたてる。でもこの句では、何か自然の、地球の息吹が川から聴こえてくるよう。「花折断層」という固有名詞が、この句に鮮やかな春の彩りを与えているかのようだ。「花」という文字の存在、そして実際、高野川沿いの桜は美しい。

固有名詞の生み出す春の彩り、大地の呼吸。十七音にこれほどまでの自然を詠み込むことができるなんて。十七音の世界は、無限大だ。


※花折断層[はなおりだんそう]
http://www.eco100.jp/ecoworld/eco_teaching.html(名前の由来など)

《出典:尾池和夫『大地』(2004,角川書店)》

2014年12月29日月曜日

貯金箱を割る日 9 [豊玉] / 仮屋賢一


たたかれて音のひびきし薺かな   豊玉

 新選組副長土方歳三の最期を飾る発句。春の七草でもある薺、別名は「ペンペン草」。ペンペン草で遊ぶ時、実のついた支茎をひとつひとつ慎重に下に剥き、でんでん太鼓の要領で主茎をくるくる回して音を鳴らす。だから、薺が音を鳴らすのはこれといって新鮮なことじゃない。けれどもこれは「たたかれて」音がひびく。決して大きな音じゃない、耳をすませばようやく聴こえるか、といったくらい。それも、勢い良く叩かなきゃ聴こえない。「ひびく」という動詞、また、「ひびきし」という言葉の響きそのものが、広々とした静寂の空間を作り上げる。

 武州の薬屋であった土方歳三。天然理心流の道場、試衛館のメンバーと共に壬生浪士組に参加し、新選組「鬼の副長」として京でその名を馳せる。最期、箱館戦争でも愛刀、和泉守兼定を以って戦い、最期までこの多摩郡石田村出身の「バラガキ」(乱暴者)は信念を貫き通した。


歳三は、死んだ。 

それから六日後に五稜郭は降伏、開城した。総裁、副総裁、陸海軍奉行など八人の閣僚のなかで戦死したのは、歳三ただひとりであった。

《司馬遼太郎『燃えよ剣 下巻』(1972,新潮文庫)》


歳三は官軍の二発の兇弾に斃れるわけだが、この田舎者の一貫した強い信念が、日本という一国の歴史に堂々と名を残すくらいなのだ。薺の響きがどれだけ小さいものであったとしても、侮れない強大なエネルギーが根底にある。


広長院釈義操、歳進院殿誠山義豊大居士、有統院殿鉄心現居士。これらはすべて彼の戒名である。一字一字たどってゆくだけで、彼の生涯が想起される。

(註:この作品は豊玉の作でないという主張もある)

《出典:村山古郷『明治俳壇史』(1978,角川書店)》

2014年12月17日水曜日

貯金箱を割る日 8 [豊玉] / 仮屋賢一


春雨や客を返して客に行   豊玉

 新選組副長、のち蝦夷共和国陸軍奉行並、土方歳三。豊玉は彼の俳号。この句は、文久3(1863)年以前の句であり、多摩から京の浪士組へ赴く際にまとめられたもののうちの一句である。時代を考慮すれば、これは俳句ではなく発句なのだが、そういう細かいことは気にしない。
 細やかで、優しく明るい春雨。そんな雨の日に、客人が訪れている。憂鬱な雨じゃないけど、「足元の悪い中わざわざ……」といったくらいのことは言いたくなるし、この句の景色から聞こえてきそう。この客人は、招かれざる客などではなく、仲の良いご近所さんというような間柄なのだろう。もうそろそろ時間も時間だし、自分もこのあと用事があるし、ということで客人を返すのだが、妙にしのびない感じが残る。そんな、なんとなくもやもやした感じを引きずりつつも、今度は自分が客として、どこかの家へ春雨の中向かってゆく。

 そういう長閑でぼんやりした空気感の一コマを十七音で切り出した瞬間、「客を返して客に行」という俳諧味を持った発見がここに生まれた。幕末史、そして軍史に名を残す奇才の、ほっとする一句である。

《出典:土方歳三『豊玉発句集』》