2015年1月30日金曜日

貯金箱を割る日 14[夏目漱石] / 仮屋賢一


満堂の閻浮檀金や宵の春   夏目漱石

 これほどまでにストレートな褒誉は読んでいて気持ちがよい。

 英国留学中に高浜虚子に宛てた書簡に記された句で、「当地の芝居は中々立派に候。」とある。
 会場内に満ち溢れる閻浮檀金(えんぶだごん)。仏教の経典中にみられる想像上の金で、金の中で最もすぐれたものとされているらしい。舞台上だけなのではなく「満堂の」なのだから、客席までをも取り巻く雰囲気全てが「立派」なのだろう。舞台上の人々の衣装や、観客の着飾った姿も思い起こさせる。称賛は「宵の春」にも表れている。終演が丁度宵のころだったというだけにとどまらない。芝居の世界、空気感からまだ抜け切れないまま身体だけが現実に引き戻されたような、芝居終わりの独特の気持ちが、春の朧気な空気感と響きあい、また宵という時間帯、このマジックアワーがさらに非現実と現実の織り交ざった不思議な空間を演出している。「宵」ではなく「春」というさらに漠然とした鷹揚な語で句を終えたことで、この空間が一句全体のみならず、この句を鑑賞する者をも包み込むようだ。

「春の宵」「鞦韆」を春の季語として定着させた蘇軾の詩『春夜』。その第一句「春宵一刻直千金」というのを直に漱石は感じているのだろう。

とはいえ、『明治座の所感を虚子君に問れて』や『虚子君へ』で漱石が述べているように、日本帰国後に見た歌舞伎に関してはあまり気に入らなかったようで、それでも虚子が芝居見物に引っ張り出してようやく「能は退屈だけれども面白いものだ」(『漱石氏と私』)と興味を見せたようだ。
たぶん、漱石が能を誉めるような内容の句を作ったとしても、「閻浮檀金」なんて華やかな言葉は使わないに違いない。いや、漱石じゃなくても、「満堂の閻浮檀金」なんて表現を日本の演劇に使うのは相応しくない気がする。

漱石の、能に対する「退屈だけれども面白い」という評、また、歌舞伎に関して、その構造が滅茶苦茶だと言わんばかりの批評をしながらも多少の興味を見出した「形の上の或る発達した美しさ」。ある意味で正鵠を射ているのかもしれない。

西洋の芸能と日本の芸能との本質的な違いが、こういうところに見え隠れする。


《出典:高浜虚子『漱石氏と私』(1918)》

2015年1月28日水曜日

きょうのクロイワ 14 [山上樹実雄]  / 黒岩徳将


落葉焚く火に憑かれゐて髪に灰    山上樹実雄

火との距離が近い映像が浮かんでくる。ふっと髪に引っかかった灰を見て「憑かれ」ていると感じたのだろうが、掲句のように書かれると作中主体の納得が読み手にも伝わってくる。古来より火と人間の関わりは深いことを、火に意思があるかのように表現することで強調できた。

<『春の顔』2012年ふらんす堂>


2015年1月27日火曜日

1スクロールの詩歌  [加倉井秋を ] / 青山茂根


裸のわれ抽斗あける吾(わ)とおなじ    加倉井秋を

自分の身体から、魂が浮遊している句だ。時間軸のずれも、面白い。まず「裸のわれ」があり、そのわれが抽斗をあけたのだが、一瞬意識が飛んだあとのように、行為者が自分の肉体と同一であることを再認識している。作中主体をも一度疑うようで、昭和30年に書かれた句ながら今読んでもナンセンスな新しさを感じる。

 「風」は、小型「天狼」といった感じだが、ここでいちばんおもしろい作家は、加倉井秋をである。 
(中略) 
この作家は、日常意識の欠落個処に、ふいに見慣れない造形をこころみる。だがこの作業には、天性のするどい知覚が要求されているはずで、この不意打が、いつも新鮮な詩的衝撃を与えるのである。 
(『現代文学大系 第69巻 現代句集』月報69 「俳句と私」村野四郎 筑摩書房 s43)

前々回で、青年時代の自由律俳句を取り上げた、詩人村野四郎はこう書いている。「私は、詩人になる前に俳人であった。」「この俳句という狭い土俵の中で勝負をするために、言葉を大事にすることが、どんなに大切かということを痛いほど教え込まれた。」そんな村野が加倉井秋をを評した言葉に、そういえば秋をは東京美術学校(現芸大)の建築科を卒業しているのだ、と思い出す。絵画や写真といったものに例えられる句とは違い、秋をの俳句は言葉を縦横に構築していく印象がある。ときに骨組だけであったり、石積みだったり。色彩を塗りこめたりアングルを計算した句とは違う、おおらかさや素材の意外性が楽しい。
  
 言葉はタダだからといって、むだ使いしているかぎり、いつまでたってもロクな詩がかけないということ、いや本当の詩語というものは、ものすごく高価につくものだという考えは、今もって少しも変わっていない。

(前掲書 「俳句と私」村野四郎 より) 
  折鶴のごとくに葱の凍てたるよ       加倉井秋を 
  曲がることなき毒消売の道 
  ある晴れた日の繭市場思い出す 
  蠅(はい)生れて以後と以前とをわかつ 
  葡萄棚より首出してつまらぬ世 
  母亡き正月土管があればそれを覗き 
  秋は素朴な河口暮しの対話から 
  冬来ると足裏見せあつて話す

(『自註現代俳句シリーズ第二期⑪ 加倉井秋を集』 俳人協会 s56)

2015年1月26日月曜日

今日の小川軽舟 30 / 竹岡一郎


闇寒し光が物にとどくまで      「手帖」

光の速度とは、最も速いのであって、この地上においては一瞬に等しいであろう。光が現れて物を照らす、その間隙は恐らく人間の目では認識できない。だから、掲句を冬の夜明け前の寒さに朝を希求する、人間の本能的な焦燥と読む。物は室内にある、或いは戸外にある物体である。物に光が当たる事によって、朝の喜びが実感できる。その喜びは暖かい日を浴びることが出来るという期待である。これで一応の鑑賞は出来る。しかし、光年という概念を思うと、掲句はまた違った色合いを見せる。

ここで言われる「闇」を、もっと恒久の闇、即ち宇宙空間と考えた時である。光が物に届くまで、(人間にも認識できるほどの)一定の時間を要する場合とは、光が宇宙の闇を進んでいる時であろう。ならば、上五の「寒し」は、単に地球上の寒さではない。空気が凍り、生物の血が沸騰するような、地上におけるあらゆる寒さを凌駕する極寒を、宇宙を知らぬ頃の人間が考えた寒さに例えるなら、それはあの世の寒さ、殊には死後堕ちるかもしれぬ地獄の寒さである。

ならば、光には「魂の救済」という暗喩も含まれる筈だ。ここまで読むと初めて、下五の「とどくまで」、特に「まで」に籠められる距離感、或る遙かさが匂ってくるだろう。更に付け加えるなら、光の速度よりも早いもの、それは人間の思惟の速度であろう。平成十六年作。

2015年1月24日土曜日

黄金をたたく9 [筑紫磐井]  / 北川美美


あつものに柚子の香したたる朝がれひ  筑紫磐井


帝(みかど)の御食事(朝がれひ)に出される汁物に柚子の香りがする。『源氏物語』『土佐日記』『枕草子』に代表される王朝文学を想う。<あつもの>、<朝がれひ>は、文献でしか解りえない世界に想像がふくらむ。

たとえば、<あつもの>は、「羹に懲りて膾を吹く」のそれであるが、平安王朝の食卓が想像できる。「羹」であれば、肉(イノシシ、ウサギなどのジビエ的野生種)か魚(鯛やヒラメや貝類)のスープストックも可能だが平仮名の<あつもの>であれば、マクロビオティック的な菜食主義の昆布だしが柚子との相性がよいだろう…などなど。

更に<朝がれひ>は天皇が儀式的な食事の他に、朝夕2回、簡略化した食事をとることを意味するが<柚子の香>で誰ぞや思い出す女性(ひと)でもいらしたのだろうか…柚子のアロマの効能は、落ち込んだ気持ちを前向きにしてくれる効果があるので、やはり昨夜ことなどミカドは思い出していらっしゃるのだろうか…。 

そのようなことを考えてしまうのもこれが俳句という俗なのだから自然な流れである。俗の原野を雅が流れているのである。

俳諧とは、片足を雅に、片足を俗にかけた表現」(@小西甚一『俳句の世界』 講談社学術文庫)とあるが、筑紫氏の作品は、第一句集『野干』より一貫してその両刀にあることを想う。

舞台設定を「今」という時点から歴史を眺望し、中世の一部階級人しか知りえない、あるいは歴史的用語として伝えられてきた言葉を、蓮歌、俳諧、漢文でもなく、俳諧の発句として継承されつづけている俳句に組み込んだ。その歴史の中においてその方法(=メソッド)は前衛である。この筑紫メソッドを取り入れたと思えるのが仇討クラシック『曽我兄弟』を題材とした高山れおな「俳諧曽我」(『俳諧曽我』収録)というように見えてくる。 

歴史的ロジックを交差させつつ、俳句の芸術とは何か、を考える。


梅とびとび職(しき)の次第の江家(がうげ)かな   『野干』
狐火を自在に操りて陰陽師



<『野干』1989年東京四季出版所収>

2015年1月23日金曜日

きょうのクロイワ 13 [佐保光俊]  / 黒岩徳将


なりはひの物音に満ち四日かな 佐保光俊

三が日を過ぎ、社会人は各々の職場に戻る。「なりはひの物音」と書くことで、オフィスでも工場でも農作業でもその場にしかない音があるということを思わされる。仕事をすることで「自分の場所なのだ」という再確認ができ、仕事を肯定的に捉えさせてくれる一句だ。

<句集『銀漢』2012年文学の森所収>

2015年1月22日木曜日

1スクロールの詩歌  [辻美奈子 ] / 青山茂根


卵みな零のかたちに冬ざるる   辻美奈子

鳥小屋から卵を拾ったことがあるだろうか。店売りの卵のひんやりとした感触とは違い、わずかにざらつきのあるほのかな温みのそれを掌に受けると、全天の光を一点に集めて、小屋の外の冬景色が掌の卵へ押し寄せてくるようだ。

テレビドラマ版寅次郎シリーズだったか、熱を出したマドンナを看病する寅さんが家主の鳥小屋から卵を失敬するシーンがあった。モノクロのフィルムの、鳥小屋の暗さと卵の白さ、寅次郎のいかつい顔と羽を散らして逃げ回る雌鶏の白い柔らかな質感。当時のカメラの再現度の低さがかえって、色彩のない世界を情緒豊かな表現に見せていた。

冬ざれの、灰褐色と白とブルーグレーの世界に置かれた卵。寒卵をも言外に含みながら、「零」の形とは、まだ生命が生まれる前のその形態にふさわしく、何か生まれそうな予感をもはらんでとかく心も沈みがちな冬を楽しくする句だ。葉を全て落した木々は、しかし春の若芽をその樹皮の下に育んでいて。冬とは、全てをリセットしてまた新たに始める春のための、休眠期間でもある。リセットされたカウンターに並んだ零たちさながら、遠い春を内包した冬の、始まりへ向けての究極のスイッチでもある、卵。
  
  浅蜊口あく歌ふ人形のごとく    辻美奈子
  時計草なら間違へることはない
  夏休み退屈は夢みるごとし
  やや寒のしづかな色の服を着る
  紅あはく残して眠る七五三

(「GANYMEDE」62号 「歌の始まるところ」50句詠より)

2015年1月21日水曜日

貯金箱を割る日 13 [夏目漱石] / 仮屋賢一


永き日や欠伸うつして別れ行く   夏目漱石

 「じゃ、またあとで」とでもいうような気楽さで曲がり角を別々の方向へ行く二人。別れ際に欠伸するくらいだから、相当気の置けない仲なのだろう。その様子を見ていると、別れとはいえ大したことなさそうだし、こんな折々に悲しさなんて感じていてはきりがない。

 でも、この句をなんども読み返していると、一抹の寂寥を覚える。それこそが、「永き日」の魔力なのかもしれない。小さな別れにしては大きすぎるスケール感。春風駘蕩の伸びやかさと同居する寂寞が顔をのぞかせる。

 この作品は漱石が虚子への送別として贈ったものである。漱石が第五高等学校へ赴くため来熊し、虚子は東京へと行くのだから、かなり大きな別れだろう。その別れをこんな風に詠めるなんて、漱石と虚子の間柄を想像するのも容易い。

《出典:坪内稔典『俳人漱石』(2003,岩波新書)》

2015年1月20日火曜日

今日の小川軽舟 29 / 竹岡一郎


地は霜に世は欲望にかがやける      「呼鈴」

「地」と「世」の違いを考える。「地」とは人間の恣意の外の世界、鳥獣が住み人間も生物の一種に過ぎぬ自然の世界であろう。一方、「世」とは人間の恣意の世界、人間の文明の社会であろう。霜に輝く地は儚く美しく、一方で、人間の欲望に輝く世界はどろどろと惨たらしい。

「かがやく」なる措辞が「欲望」にも掛かるのは、作者が必ずしも人間の欲望を糾弾しているわけではないことを示している。同時に、輝くものとして霜と欲望を並列しているのは、人間の欲望の儚さ、それが成就したとしても本質的に儚いものであることを、霜の儚さに喩えているのである。

霜は儚いから輝くのかもしれぬ。だが、欲望は輝いても儚い。この世の一切の栄光は滅びる、と容赦なく目覚めざるを得ないのが、作者の聡明さであろう。下五の「かがやける」は、(自然現象に過ぎぬ)霜にも、(所詮は自己保存の手段に過ぎぬ)欲望にも掛かるのだが、実は霜と欲望を、良いとも悪いとも断じずに只見つめている、その醒めた眼差しに掛かるのではないかと思わせる。平成二十年作。


2015年1月19日月曜日

黄金をたたく8 [北原白秋]  / 北川美美


ちらちらと燈が楽しんで雪の斜面だ  北原白秋


作者が白秋であることを認識した上で、スキャンダラスな逢瀬の場面に見えてしまう。

雪の斜面を恋人と抱き合って転げ落ち、それを街燈が照らしている…。なので<ちらちらと>であり、「楽しんで」いるのである。純心な人なのですぐ人を好きになり、スキャンダラスな人物として世のさらし者になってしまったのだろう。その素直さが「この道…この道はいつか来た道…)」「あめふりあめあめふれふれ…)」などの数えきれない童謡を作り出し後世に名を残す作詞家となるのだから、純心とは綺麗で恐ろしいことでもあるのだ。

この句、五七七で切れ字がない(厳密には切れはあるともいえる)。破調であり散文的なのだが、結果、魅力的な句として読者を楽しませることができる。なんというのか、詩人の本領が<ちらちらと>伝わってくるからかもしれない。

しかし「だ」が無くても<雪の斜面>に感動の主眼を置けると思うのだが、そこは「白秋」のプライドの高さというのか、自己主張のための「だ」ではないかと思える。というか、「だ」を取って「雪の斜面」で留めたとしたら阿部完一句と見間違うほどだ。「で(de)」がきて「だ(da)」で締めくくる濁音の二度使いが俳句という「型」への挑戦、名声を手にした者の作為的な面も感じられる。

白秋の俳句制作期間は大正10年から昭和2年までの限られた期間だったようだが、白秋の俳句は主に自由律として残されている。臼田亜波とも交友があ。この句の<ちらちらと>の同じ言葉の繰り返しを使用するところは、やはり臼田亜波とも通じるところがあるのだろう。


冬の蝶さてもちひさくなりつるよ 
降れ触れ時雨小さき木魚をわれたたかん 

<『竹林清興』昭和22年靖文社>

2015年1月17日土曜日

きょうのクロイワ 12 [夏井いつき]  / 黒岩徳将


龍の耳ぴくりと動く四温かな   夏井いつき

龍は体が長い。「龍の耳」と書かれると、一枚の絵には顔を映すのが精一杯であろう。四温に動いたということは、それまでは全く動かなかったのだろう。老いた龍を想像した。

句集シングル「龍尾」より引いた。句集シングルとは、俳句マガジン「100年俳句計画」が出版するポケットに入るサイズ句集のことである。「龍尾」はその名の通り、龍の句だけを集めたもので全30句。想像上の生き物を俳句形式に落とし込むことは困難であっただろうが、挑戦でもある。掲句は読者に親しみを与える存在として龍が描かれている点が良い。

<『龍尾』2013年マルコ・ポム所収>


2015年1月16日金曜日

1スクロールの詩歌  [村野四郎 ] / 青山茂根


眼鏡屋めがね磨きゐて夕日の薄れやう    村野四郎

『自由律俳句誌『層雲』百年に関する史的研究』(小山貴子著 h25)には、現在あまり目にすることのない自由律俳人のポートレートや、「層雲」創刊号の表紙写真、多く掲載されていた挿絵、「層雲」の衛星誌など、56ページにわたる貴重な図版が載せられている。そこからも当時の俳誌の面影が伺えて興味深いのだが、

 俳句は中学時代には投句が始まっているが、明治三十五年数え年十九歳の頃には、愛桜の名で俳句雑誌『俳声』、『ホトトギス』、『半面』や新聞「日本」等々に盛んに投句していた。やがて日本派一辺倒になって真剣に句作するようになり、明治三十六年に浅茅、紫人と共に一高俳句会を再興し、碧梧桐庵での句会に参加するようになる。俳句に熱中するあまり第一高等学校の二年生に原級留置になっている。 
(『自由律俳句誌『層雲』百年に関する史的研究』)

という荻原井泉水が創刊した「層雲」誌の歴史を、当時の時代背景を交えて綴っている。明
治の文壇との関わり、また、様々な経歴の人々が黎明期の「層雲」誌に投句していたことは、
現在の自由律をめぐる状況を考える鍵になるかもしれない。

今日の句の、村野四郎は詩人として知られているが、学生時代は「層雲」誌にも投句して
いた。これは、大正十年四月号から大正十二年三月号に掲載された7句中の一句。他の多く
の作家による自由律俳句が多少なりとも境涯性を帯びているのに比べて、無心の職業従事
者の動作に詩的な夕景を見出した句だ。おそらくメガネをかけているであろう眼鏡屋のあ
るじの顔のメガネに差す光と、手元に磨かれたメガネの反射するレンズの光、作業する店の
夕あかり。柔らかな言葉の流れに、一日の就業の終わりの安堵感も滲む。

  あなあたたかく燃ゆる火が身に近くあり       芹田鳳車 
  アメリカへ来て足なへとなりベッドの蠅打つ     下山逸倉 
  月へ一本手紙出して置く              木村緑平 
  こしかけて鳥の行く空               酒井仙酔楼 
  日に日に薬の紙を手にして三羽の鶴         海藤抱壺 
  あれこれたべさせてたべて我子であり兵であり    池田詩外楼 
  最後にいふ言葉も言つてしまうと征ってしもう    堀英之助

(『自由律俳句誌『層雲』百年に関する史的研究』 h25)

2015年1月15日木曜日

貯金箱を割る日 12 [尾池和夫] / 仮屋賢一


トランプの王の顔して草を刈る   尾池和夫

 トランプの王ほどぞんざいな扱いを受ける王はいない。二枚揃うと捨てられたり、マジシャンに寸々に破られたり。とにかく他のカードと同じように、敬われることなく扱われる。ダビデ王、カール大帝、カエサル、アレクサンドロス大王とそのモデルにはビッグネームが並ぶのだが、ダイヤのキングで「ブルータス、お前もか」ごっこをして遊ぶ人なんて見たことがないくらい、そんなことは知られていない。

 剣あるいは斧を脇に、トランプの王は威厳があるといえばあるのだが、滑稽といえば滑稽だし、そう考えるとなかなか不思議である。草刈の農家の顔、これといった特別な表情はないかもしれないけれども、そういうところが手にしている鎌との妙なミスマッチ感を醸し出しているのかもしれない。
長く経験を積み、確かな腕を持った農家だからこその表情なのだろう。「トランプの王」に決して負の要素はなく、親しみと尊敬を持った上での農家への挨拶なのだろう。

《出典:尾池和夫『大地』(2004,角川書店)》

2015年1月14日水曜日

今日の小川軽舟 28 / 竹岡一郎


石割つて血の匂ひせる冬日かな      「呼鈴」

鉄鉱石を含む石ならば、そういう事はあろう。血の匂いとは結局、鉄の匂いだからだ。鉄の発見によって、文明は飛躍的に進歩し、それは同時に戦争の進歩でもある。銅剣に取って代わった鉄剣の利点を思うまでもなく、鉄の発見とは効率良い殺人の発見でもあり、効率良い征服の発見でもあった。

石には良く霊が宿るというが、それは鉱物全般に、その場の雰囲気、或いは磁場、または情報とでもいうべきものを記憶する特質があるからだ。鉱物が動物や植物に比べ、記憶する特質が際立っているのは、恐らく鉱物の自我というものが動植物に比べると極端に希薄であるからだろう。

掲句、血の匂いは、鉄が人類に与えた影響を象徴し、また石に宿っているかもしれぬ霊の記憶を想起させる、或いは石が間近で沁み込ませてきた遙かな流血の記憶かもしれぬ。「冬日」が悲しい。穏やかで、だが地を温めるには到底足らぬ光量である。「かな」で流したのは、人間の業に対する、茫漠たる諦めを表現したのだと思う。

平成十八年作。

2015年1月13日火曜日

黄金をたたく 7 [幸田露伴]  / 北川美美


雪空の羊にひくし出羽の國  幸田露伴

干支に因み羊を詠み込んだ句を作られた読者も多くいらっしゃると想像する。新年にふさわしいかはさて置き、明治・大正・昭和に三代にわたる文豪がつくると羊の句がこうなる。


具体的な地名、「出羽の國」で留めているところにそこはかとなき俳句の迫力があると思う。青森の寺山修司の俳句雑誌が『牧羊神』と名付けられているのだから東北での牧羊の文化は長い歴史があるのだろうなと想像はしていたが、この句により、出羽国(東山道の山形県、北東部除く秋田県の領域)もしかり、東北に羊が根付いていることが確信できた。


荒涼とした風景に雲が低く垂れこめ、羊たちが草を食べている風景。羊と人間の繋がりは8000年もの歴史がある。


作句年代は明らかではない(『鑑賞現代俳句全集』第12巻 村山古郷の解説から明治23年頃と推測可能)が、収録は「十二神獣」の中の句である。いわゆる題詠であるので作り込んだ句だろう。

正岡子規は露伴に小説「月の都」の批評をみてもらう(明治25年2月)が、露伴はこれに賛辞を呈することもなく、子規が失望してこれを契機に俳句に専念するようになったとある。子規はその頃、何々十二か月連作風の作に没頭していて、ちょうどその頃から露伴も「僧十二か月」「職人盡」「独史余詠」「十二神獣」などの連作体の句を作るようになったようだ。

文豪はやはり机の上で俳句を作るのである。

「十二神獣」の他の題詠を下記に二句ひく。

蛇穴を出れば飛行機日和也 
春の海龍のおとし子拾いけり

<連作『十二神獣』所収。明治23年頃>

2015年1月10日土曜日

1スクロールの詩歌  [高木佳子 ] / 青山茂根


   震災時の対応にまつわる訴訟が多い。
おつかあはもう帰んねハ 甘栗の殻の嵩みに爪は黒ずむ    高木佳子

この短歌を目にしたとき、表記中の「ハ」に文字通りはっとした。作者は福島県いわき市から、個人誌「壜」を発行している歌人。その地の言葉を読み込んだ歌がその地の現状をより忠実に伝えているようで、俳句にはない空気感の表現にいつも驚かされる。しかし、この歌にある「ハ」の表記は、なんとなく江戸時代の庶民の文章などに見られる係助詞の「は」の表記と相通じるような印象を受けたのだった。(表記の仕方が似ているという話で、表記される言葉は係助詞と終助詞?らしきものとの違いはある。たとえば、安政6年にジョン万次郎が出版した『英米対話捷径』には、「I am very well」の訳を「わたくし ハ はなはた こころよい」と記している。)

ネット界隈の検索や知人に聞いてみたところ、この福島で語られる言葉の語尾につく「~は」の表記は、宮城県仙南地方では「~わ」であるらしい。現在、LINEなどでも中・高校生が語尾で使っていて、そう表記されているそうだ。おそらく、福島では歴史的かなづかいの「は」が表記に残っていて、宮城では同じ言葉ながら現代的かなづかいおよび発音に合わせて「わ」と表記するようになっているのか。宮城の方によると、完了形のような使用方法で標準語の完了形より短くて便利、だそうだが、これも古来、奈良京都あたりから全国へ言葉が伝播していったものが、ところどころで時代の変遷による変化を受けずに残ったものではないか。古語辞典には、終助詞としての「は」(感動・詠嘆の意を表す。)が掲載されているが、各地に伝播し時を経て使用されていく中で、用法に変化が生じ、完了形としての意味を持つようになったか、感動・詠嘆には完了的要素があるためそこだけを増幅して使われるようになったものか。

また沖縄の方言、文末に接尾辞的につけて語調を整える「ハァ」と同様という説もあった。とすれば、やはり各地の方言と見られている言葉が、むしろ平安時代などに都で使われていた古式ゆかしい日本語由来であるという近年の考え方と同じく、都付近からほぼ同心円状に伝播していった結果、時代に淘汰されずに各地に残った言葉なのだろう。

試みに京都から福島および宮城までの距離をみると、およそ700から800キロ。京都から九州までが800から900キロ、沖縄はもう少し遠い。が、これは現代の陸上交通を主とする換算なので、明治以前の海上、水運による交通としての距離はほぼ同じくらいになるのではないか。

そのほかにも、福島付近で使われる語尾の「だばい」は、関東・東北地方で多く使われる「だべ」「だっぺ」「だんべ」「だべす」と同様、助動詞「べし」の転訛であり、「であるべき」→「でぁんべい」→「だんべえ」→「だべ」「だばい」と変化していったとも考えられるそうだ。

短歌の話から全くそれてしまったのだが、もうひとつ興味深いものを見つけたので。福島の言葉で「恥ずかしい」ことを、「しょーし」というそうだが、これって、歌舞伎や文楽によくセリフで出てくる「笑止千万!」の「笑止」ですよね。そうしたものがとても好きな筆者としては、なんだかとても嬉しい。
 (以上すべて憶測と推測に基づくもので、学術的根拠はないことを記しておきます。)

  波はけふも白く尖りて 責めらるるべきは生者、だつたのだらうか   高木佳子
  憤りが人を生かすといふこゑを読点なしに読める危うさ
  必ずしも海へ注がずよどみまたためらひ、――ほら砂礫のあたり
  いづくにも雨は駆け足(ギャロップ) 音なして近づく馬のけはひをもちて
  majorityとふ繁りの暗さ近づけば鶸の奴らが繁りより逃ぐ

(「壜」#08 2014,12)

2015年1月9日金曜日

貯金箱を割る日 11 [尾池和夫] / 仮屋賢一


三門を抜けて秋風南禅寺   尾池和夫

 今からちょうど百三十年前、琵琶湖疎水が着工された。当時の京都府知事、北垣国道が計画し、主任技術者の任についたのは工部大学校を卒業したばかりの田辺朔郎。京都の一台プロジェクト、過酷な工事に命を落とす人も。しかし明治期から今にいたるまでの京都の発展は、この疎水無しには語れない。

 前回に引き続いて、堂々と固有名詞を掲げた一句。南禅寺でなくとも、三門を抜けた途端に空気が引き締まったような、そんな気持ちになることはあるだろう。京都の古刹には紅葉で有名なところも多く、南禅寺も例外でない。

 室町時代には京都五山、および鎌倉五山の上位に配された南禅寺。別格である。実際訪れてみると、突如別世界に訪れたような感覚に襲われる。三門を抜けた瞬間に、訪れた者をその世界にいざなう秋風。恣意的であるともとれる上五中七の措辞だが、南禅寺という舞台が読むものを大いに納得させる。

 もう一つ。南禅寺には堂々と異国の雰囲気を漂わせる煉瓦造りのアーチがある。日の有名な、水路閣である。アーチの上を流れるのは、琵琶湖より続く水の路。このアーチの存在に違和感を全く覚えないのも、南禅寺の風格だろう。

 我々を別世界にいざなう秋風は、南禅寺固有の空気感に、琵琶湖より続く地理的・歴史的なスケールも加わり、一大叙事詩のような壮大さをもって吹き渡る。

《出典:尾池和夫『大地』(2004,角川書店)》

2015年1月8日木曜日

今日の小川軽舟 27 / 竹岡一郎


一塊の海鼠の如く正気なり      「呼鈴」
海鼠、と聞いて、何を思い浮かべるだろう。動かないもの、海底に沈んでいるもの、渾沌を有しているもの、あるいは手っ取り早く男根の象徴。掲句では、「一塊の」という措辞を用いることにより、海鼠がまるで生きているようには見えぬ、泥のような生物として表現されている。そのように作者は正気であるというのだ。これは作者にとっての正気とは何か、を定義しているのである。

泥の如く、何かの集合体の如く、暗く、ぐにゃぐにゃと柔らかく、深く静かに沈み、しかし正気であるから意識ははっきりと見開いている。このような在り方こそが、この狂気に満ちた世界で正気を保つ姿勢だと確信している。(その確信の態度は末尾の「なり」という強い言い切りに表われている。)仮に下五を「泥酔す」や「眠りをり」などに置き換えれば、安易極まりない比喩の句となる。

人間が想起する海鼠の在り方と、海鼠自身の意識は、実は全く逆かもしれぬ、そう思わせる処に、この句の手柄がある。

平成十八年作。


2015年1月7日水曜日

黄金をたたく 6 [高野万里]  / 北川美美


大の字に虎を鞣しぬ初座敷   高野万里


豪勢な正月の目出たさがある。今になって読むと、その先にはシニカルな作者の視線があるようにみえてくる。

鞣(なめ)された虎が大の字に横たわっている座敷など、ワシントン条約(1975年発効)以降は、存在することもないと思うが、高野万里は実際に見たこと触れたことがあるのだろう。乱獲が多発したので今や虎も絶滅危惧品種となり、現在に於いてそう歓迎される句ではないと思える。

<鞣しぬ>を無視し<虎柄>の絨毯という解釈もできそうかと眺めたが。書いてある以上、無視はできない。大の字に鞣されているのだから、本物の虎の敷物だろう。地位や権力を象徴した虎の乱獲の時代の産物といえる句である。大の字に横たわる鞣された虎はあまりに残酷である。高度成長時代の『華麗なる一族』(1970山崎豊子作)の調度品として出てきそうな風景だが、不法品となった現在は、そのような金持ちを斜めに見るシニカルな視線と解釈できる。

ちなみに、虎・豹柄を好む人の心理は主に恋愛に表現されることが多いが、徐々に相手に近付いて、射程距離に入ったら一気に仕留める。待ちの姿勢ではなく、警戒心を怠らずに自分の方からも近寄ってチャンスが来たら一気に落とす…とある。男性にはどうも不評なようだがヒョウ柄好きな女性は現在も多いようだ。高野万里も生きていればヒョウ柄を身につけるヒョウ柄族になったかもしれない。

秀吉の時代のような豪華絢爛な調度品のある初座敷。この句が収録されている『正午』は表紙、裏表紙、函において全て輝く黄金色の装丁である。虎と黄金色は高野万里を象徴するのかもしれない。その煌びやかさ華やかさの光と影が高野万里に複雑に存在し、大胆で洒脱な句が多く残されている。


高野万里(たかの・まり)は昭和4年生まれ。昭和22年に敗戦により一家で引揚者として満州より帰国されご苦労が多かったと伺っている。俳句を始めたのは昭和47年とあるので、すでに40を超えた年齢であったことは多くの作句者の励みになる。長谷川秋子に感銘し「水明」に入会。山本紫黄、三橋敏雄、大高弘達に啓発された。筆者は紫黄から依頼を受け病に伏せる高野万里さんを励まして欲しいと俳句に纏わること、事務的な内容も含めたびたび手紙をお送りした。2007年の紫黄の訃報を知ったかのように、万里さんも同年しずかに生涯を閉じられた。

窓に蝶けふ東京の巴里祭  『正午』
三寒四温逢ひたいダイヤル記憶せり
戦前戦後・正午・服部時計店
ボタン押す人間の指冬の雲
凩や石は石でも五百羅漢
枯れ色の暮れてしまひし枯野かな
生ごみと同じ出口の夜業明け


(『正午』人間の科学社1991所収)

2015年1月6日火曜日

きょうのクロイワ 11 [山崎十生]  / 黒岩徳将


雪原を裸で駆けてきた谺 山崎十生

自分の居る場所に届いた谺を「駆けてきた」と書くことで谺のエネルギーが手の中にあるかのように鮮度を保っている。「雪原」とあるので遠近も感じられて奥行きのある句だ。

「山崎十生セレクト100 自句自戒」から引いた。初出は『上映中』より。『自句自戒』は100句すべてに神野紗希の鑑賞があり、この句では「谺という音を『裸』という視覚的情報で修飾することで、その切実な響きを言いとめた。」とある。言葉を交差させる場合、二つの語の次元をずらすことの面白さを十生の句は感じさせてくれる。

2015年1月5日月曜日

1スクロールの詩歌 [吉村毬子] / 青山茂根

  
毬つけば男しづかに倒れけり   吉村毬子

 毬をついて遊んだのは、私ぐらいが最後の世代だろうか。立ったりしゃがんだり、唄に合わせてリズムをとったり、途中で投げ上げたり足の間を通したり。本来なら袂にくるむ決まり動作は、私たちの頃にはすでにスカートでくるむ、とアレンジされていて、間違いなくパンツが見えてしまう、というその毬つきの所作は、大人びてくると次第に恥じらうものであり、自然に毬で遊ばなくなる、その契機ともなっているようだった。

 「毬」という言葉からは少女が連想されるが、それがそもそも正月の少女の遊びであったことばかりでなく、その翻る袂や袖口から覗く白い腕、そして昭和期の見え隠れするパンツのイメージによる。その遊びは、少女に性を意識させ、大人への目覚めをひそかに促すものであるのかもしれない。

 今日の句の、「毬」と「男」は、何の因果関係もなく置かれながら、不条理劇の一コマのような強い印象を残す。唐突に、植田正治の砂丘をテーマにした写真を思い出す。そこには少女たちを写したものもあった、スカートの、濃い色のプリーツ。

 ○○すれば▽▽、という確定あるいは恒常条件の上五からの接続は、俳句では上五の条件付け、意味を限定し句の狙いが見えてしまうとしてあまり歓迎されない形だが、「風が吹けば桶屋」的な一見まったく意味をなさない条件付けはときに不可思議な面白味を引き出す。この句の場合は、計り知れない怖さをも生み出しているようで。少女が毬をついたことで、無関係に立っていた男が突然倒れる。か弱く幼げな少女は何も手を汚さずに、男を倒したのだ。もしかするとかすかな笑みをうかべて。もちろん、少女に読みを限定するわけではない。毬をつく行為者が、男性でも成人女性でもいい。どんな行為者であっても、この句は成り立つしそれによって句の価値が変わるわけではない、が、少女という強烈な連想は捨てがたい。

少女という言葉だけで、たいていの男女は何らかの反応を多かれ少なかれ示す。それは本能的な、条件反射に近いものなんだろう。少女が、それに気づいていないわけはない、無意識の好奇心に対する嫌悪、純潔さゆえの残酷さ。自らの処女性を優位なものと認識したうえでの傲慢さ。ステレオタイプな少女像の凡百の俳句とは一線を画す。谷崎の「奈緒美」が、凌辱される側から次第に支配する側に回っていったように、どんな少女も秘めている、「ナオミ」への変貌が予感される句だ。

ふらここの半円の幸せに酔ふ    吉村毬子 
水底のものらに抱かれ流し雛 
飲食のあと戦争を見る海を見る 
物乞ひの風の折り方数へ方 
万華鏡島国はまた石を積む 
朝櫻傀儡は深くたたまれし 
野分以後吼えるものなき以北かな 

(『手毬唄』 2014年文学の森 所収)

2015年1月3日土曜日

貯金箱を割る日10 [尾池和夫] / 仮屋賢一


花折断層に沿つて音たて春の川   尾池和夫

 今年で二十年を迎える。兵庫県南部地震と、それによる阪神・淡路大震災である。京都の地で地震を研究する京都大学元総長・尾池和夫氏にとって、この地震はいかなるものであったのだろう。

 掲句はその年、平成七年の作。花折断層とは、滋賀県高島市今津町から京都市左京区に至る直線性の高い右横ずれ断層である。京都大学のすぐ隣にある吉田山を作ったのもこの断層。地図を見れば、花折断層に沿うように、高野川(出町柳で賀茂川と合流し鴨川となる)が流れている。春の川は、この川をイメージしているのだろうか。地図を見なくたって、京都人なら多分、高野川や鴨川をイメージするだろう。

どこをどんなふうに川が流れていようと、たとえそれが断層に沿っていようとそうでなかろうと、川は音をたてる。でもこの句では、何か自然の、地球の息吹が川から聴こえてくるよう。「花折断層」という固有名詞が、この句に鮮やかな春の彩りを与えているかのようだ。「花」という文字の存在、そして実際、高野川沿いの桜は美しい。

固有名詞の生み出す春の彩り、大地の呼吸。十七音にこれほどまでの自然を詠み込むことができるなんて。十七音の世界は、無限大だ。


※花折断層[はなおりだんそう]
http://www.eco100.jp/ecoworld/eco_teaching.html(名前の由来など)

《出典:尾池和夫『大地』(2004,角川書店)》

2015年1月2日金曜日

今日の小川軽舟 26 / 竹岡一郎


原子炉の無明(むみやう)の時間雪が降る    「呼鈴」


掲句の中心となる語は「無明」である。これを闇、または精神の闇である処の無智、道理を理解する智慧の無いこと、と解釈すれば取り敢えず鑑賞は出来る。原子炉は人類の愚かさの表れであり、それによって世界は闇に突入する危険性がある、と。

しかし、無明と名付けられた概念が本来何を意味するか、という思惟を成すとき、掲句は単なる警告ではなくなってくる。

無明とは、仏教における十二因縁の最初に位置づけられる。即ち、十二因縁を逆に辿れば、老死(老や死に向かう有様)、生(生まれる事)、有(存在、しかし常住ではない)、取(執着)、愛(抗い難い衝動的な欲求)、受(感受作用)、触(感覚器官と対象との接触)、六処(眼・耳・鼻・舌・身・意、又はそれらに相当する感受する器官)、名色(体と心)、識(識別する作用)、行(心を形成し行動を形成する潜在的形成力)、無明である。

無明あるがゆえに残り十一の要因全てが生ずるとすれば、無明とは業(カルマン)の根本要因である。無明の闇を破るとは、実は生物であることを越える、もっと言うならば(生物として生まれ落ちる要因となる)根本的欲求を超える事であり、それは生物の意志を成り立たせている「盲目的な霊」である事に甘んじないという事だ。

人類の歴史とは破壊の歴史であり、文明の歴史とは即ち戦争の発展の歴史でもある。原子力とは現時点において、人類の得た最大の力であり、最深の闇であり、人類という種が到達した業(カルマン)の結晶であろう。つまり、業の力が顕現したとき、それまでの報いが一気に現れるという理に照らせば、人類はまず避けがたく原子力によって滅びるのである。

では、滅びを回避する手段はあるのか。無明を破れば、滅びは回避できるであろうが、無明は政治や経済によっては破れない。如何なる政策も国家理念も国際的な連合も、個人個人の無明を破ることは出来ないであろう。産業革命も五族協和の理念も共産主義革命も世界市民の理想もグローバリズムもインターネットの普及による連帯と、情報の暴露も、無明を破る事に関しては全くの無力であった。

なぜならば、自らの底に澱む地獄を照らし観る事無くして、外界の地獄は破り得ぬからである。個々の人間が、個々に精励刻苦して、人間であることを超える事によってしか回避できないと言えば、絵空事であると笑われるであろうか。少なくとも今の人間の心であることに甘んじていては回避できないであろう。

原子力が「人類という種」の業の到達点であるならば、原子力という力に内蔵される、惑星さえも破壊する圧倒的な滅びは、そもそもあらゆる人間の心に(生まれたての赤子の心にさえも)因として組み込まれているのである。その因が「核融合という技術を有する時代」と縁を生じ、原子力という結果を産んだのだ。その因を滅せずして仮に原子炉と核ミサイルの全てを破棄したとしても、やがて原子力に匹敵する新たな力を人類は手中にし、その力によって滅びるであろう。

ここで上五中七を見てみよう。「原子炉の無明の時間」、原子炉に、ではない。原子炉の、である。つまり、時間は原子炉に内蔵されているというよりは分ち難く原子炉に属している、もっと言えば原子炉を成り立たせている核の部分が無明の時間であるとも読めよう。ならば、その時間とは、人類の歴史である。文明の歴史であり、国家の歴史であり、個人の魂が生き変わり死に変わりしてきた輪廻の歴史である。個人の魂から文明の興亡に至るまでの人類の全ての歴史の業が圧縮され発現しようとする、無明の時間なのだ。だから、この「時間」という語には「後戻りできない性質」という意味が含まれていよう。

掲句では、雪が降っている。その雪は作者の希望である。人間が、その種族としての無明、人類の集合的無意識の底にある無明を断滅することが出来るかどうか、それは分からない。だが、少なくとも今は雪よ在れ、その降り積もる静けさによって、無明の闇を白く覆え、と希求するのである。下五の「雪が降る」の「が」は、一見乱暴に放り出した感じを以て、雪と、その降る様を強調して浮かび上がらせる。冬日の弱い光にさえも忽ち溶ける儚い雪の白である。太陽の光熱に等しい核融合の力の前には全く無力な白である。その雪の白は、作者を初めとする個々の人間の象徴でもある。
だが、人間は思惟し、瞑想することが出来る。原子力が人類にとって無明の終極の顕現であり、それが原子炉という明確な形となって、人間の魂に否応なき変革を迫っている事は理解できる。そこから智慧が生まれるかもしれぬ。少なくとも、智慧を希求するであろう。無明を破るための第一歩を踏み出すことは出来よう。恐らくは、自らの魂を、明らかに隅々まで観照するという事が、因を滅する一歩となろう。

福島の原発事故以来、原発を詠った数多の句が出たが、原子力とは何か、その発生の原因は何か、それは人間の心と如何なる関係性にあるのか、という考察において、掲句ほどに突き詰めた句を寡聞にして知らぬ。

平成二十三年作。