-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年6月28日水曜日
続フシギな短詩136[広瀬ちえみ]/柳本々々
開けたら閉めるなんにも見ていない 広瀬ちえみ
カワヤナギ君「なんにも見ていない、ってどういうことなのかなあ。でもなんか見ていそうだな」
ナンニモ博士「ああいいところに気づいたね。『開けたら閉める』って書いてあるから語り手はきっとなにかを見たうえで「なんにも見ていない」ってあえて語ったんだろうね。じぶんは見たつもりはないって。つまり、見ているんだけれど・見ていないっていうそういう見ることのサンドイッチのようなところにある句なんだね」
カワ「あ、そうかあ。
ああでもねちらっと見えたモコモコの 広瀬ちえみ
白くって丸くて秋に生まれるそう 〃
ってこの連作は続いてゆくんだけど、でもいったいその「ちらっと見えたモコモコ」がなんなのかはわからないんだなあ。「白くって丸くて秋に生まれる」こともわかるのに」
博士「ああいいところに気づいたね。現代川柳は前も言ったんだけれども、たぶん、ものごとの周辺をていねいに語りながらも、そのどまんなかを名指さないことによって成立してしまっている不思議な文芸なんじゃないかと思って。でもなんでそんなことになってるのかわたしにもよくわからないんだよ。ただ、現代川柳っていうのはとっても名詞の世界と深い関係を結んでいて、しかもその名詞がうまく機能していないところに現代川柳の味がありそうなんだ。名詞の機能不全の世界に」
カワ「あ、そうかあ。
道なりにどこかで眠りながら行く 広瀬ちえみ
これも誰が・なにが眠るかはなんでもいいのかあ」
博士「ああいいところに気づいたね。たぶんだから川柳って述語的世界観が肥大化した世界なんだとも、思う。述語的世界観=動詞の世界観をどんどん太らせていったときに、なにか不思議な世界がうまれてしまうことがわかったんだね」
カワ「なんでそんなことになっちゃったんだろ。どうして。なんでなんだろ。なんでなの」
博士「ああいいところに気づいたね。うーん、なんでなんだろ。わたしはね、サラリーマン川柳の差異化じゃないかと思ったんだ。違いをうみだすためにそうしたんじゃないか。サラリーマン川柳はよく、夫は、とか、課長とか、妻は、とか主語の世界だよね。名詞の世界なんだ。その名詞がどうこうする、その名詞にどうこうする、だからその名詞のトホホ、アハハ、の世界なんだと言える。名詞がはっきりした世界なんだ。でも詩性川柳はそのサラリーマン川柳とは別の方向にいくために、述語のほうの世界をふくらましていったんじゃないかな。名詞や主語に限定されない世界観を」
カワ「ああいいところに気づいたね」
博士「だから詩性川柳って、名詞を手に入れられなくしたところから始まってるんじゃないかな。もちろん、一概には言えないんだけれど。たとえば樋口由紀子さんの川柳は名詞の世界の関節が外れてゆくふんいきなんだ。
明るいうちに隠しておいた鹿の肉 樋口由紀子
でもこの樋口さんの句、もちろん「鹿の肉」っていう名詞がすごく大きいんだけれども、その「鹿の肉」を〈どうしたか〉っていうのがとても詩性川柳的だと思うんだ。「明るいうちに隠しておいた」んだよね。そのことによってこの「鹿の肉」が通常の名詞として機能する部分が微妙に外れてしまう」
カワ「そして大事なことはいったい誰が・なにが「隠した」のかわからないってことなんだな?」
博士「えっ、あっ、ああ、いいところに気づいたね。そうなんだ。まるで「鹿の肉」が述語のように働くんだよ。不穏なかんじがでてくる。だからサラリーマン川柳は名詞の世界だから、あんしんできるんだ。終えることができるんだよ。妻は鬼みたいとか夫はゴミみたいとかね。述語が安定するんだ。でも詩性川柳は名詞の関節がびみょうに外れていて終えることができないんだよ」
カワ「そうおもうんだな」
博士「うん。そう、おもう」
カワ「こりゃあ知ったらまずい世界だぞ、博士。かえれなくなる」
博士「そうさ」
戻れないけれどどうぞと森番は 広瀬ちえみ
(「開けたら閉める」『杜人』254号・2017年6月 所収)
2017年3月30日木曜日
フシギな短詩97[大川博幸]/柳本々々
あやふやなものがあって確かめたらあやふやだった 大川博幸
石寒太さんが『俳句はじめの一歩』という本のなかでこんなことを書かれている。
私の先生の加藤楸邨も、「俳句はもののいえない文学」と、はっきりいっています。
(石寒太『俳句はじめの一歩』二見レインボー文庫、2015年)
俳句は〈もののいえない文学〉。これはメッセージ性を回避する俳句のことを思うとよくわかる。自己主張したいひとやなにかをどうしてもいいたいひとは俳句に向いていない(かもしれない)。たとえば俳句はよく〈挨拶の文芸〉だと言われるけれど、これも〈ものをいわないこと〉=挨拶、に通じている。
じゃあ、俳句が〈もののいえない文学〉だとしたら、川柳は、どうなのだろう。わたしは、今回の大川さんの句を引きながらこんなふうな提案をしてみたい。川柳は〈もののみえない文学〉じゃないかと。
たとえば「あやふやなもの」をまず語り手は確認したわけだが、すでにその時点で語り手は〈確認〉に敗退している。なぜならはじめから「あやふやなもの」として認識しそれでよしとしているからだ。
その「あやふやなもの」を語り手は「確かめ」にいったが「確かめ」に行って「あやふやだった」と二度目の確認の敗退を行う。しかしそうした認識の敗退を〈そのまま〉描いたら川柳になってしまった。
ここでわたしが考えてみたいのは川柳とはこうした「あやふや」を「あやふや」と《わざわざ》確認する作業なのではないかということだ。「あやふや」の内実は問題ではなく、「あやふや」をつまびらかにすることも問題ではない。問題は、「あやふや」をわざわざ確かめながらも「あやふや」にしておくことなのである。それが川柳の要である。
大川さんのこのあやふや句が入った連作はすべて「あやふや」を「あやふや」に留めようとする力学のもと描かれている。
歩き出してから歩く方法を 大川博幸
目を閉じる何も見えなくなってから 〃
犬の声がする犬がいるのかもしれない 〃
こうした「歩く」と「歩く」、「閉じる」と「閉じる」、「犬」と「犬」という反復のなかで〈現実〉がねじれていく。問題は、語り手が〈素(す)〉でこれを語っていくことにある。語り手はこのねじれていく現実にすこしも驚いていない。
こうした〈雰囲気〉を、魔術的リアリズムと言っていいかもしれない。「あやふや」を驚きなくためらいなく「あやふや」として受け入れるのはマジック・リアリズムの醍醐味である。
マジック・リアリズムはラテンアメリカ文学の批評用語から来ている。
マジック・リアリズムを南米の文学運動に限定すればだが、そこにあるのは、幻想への憧れや現実への不信、繊細な「ためらい」などではなく、ただ野太い、原「現実」である。
(井辻朱美「マルシェとしての『かばん』」『ユリイカ』2016年8月号)
井辻さんのわかりやすい定義をひけば、マジック・リアリズムとは、《野太い、原「現実」》に出会うことだ。そしてそれがどんな剥き出しの現実であろうが、まったくおどろかず、受け入れてしまうことだ(たとえばガルシア=マルケスの『百年の孤独』も川上弘美の『神様』もマジック・リアリズムに基づいた作品だと言える)。
そしてそうした意味では大川さんの連作は、マジック・リアリズムのふんいきをただよわせていると言える。語り手はどんなにねじれた現実に対しても少しもためらってもいないのだから。素、なのだから。
川柳がもし〈もののみえない文学〉だとしたら、川柳はその〈みえない〉ことを逆手にとって言葉の微妙なひだにわけいっていくだろう。たとえば、
ギザギザが来るからぎざぎざは待つわ 広瀬ちえみ
(「ギザギザ(ぎざぎざ)」『川柳杜人』253号、2017年3月)
(「ギザギザ(ぎざぎざ)」『川柳杜人』253号、2017年3月)
ここでは「ギザギザ」と「ぎざぎざ」の微妙な差異に「待つ」ことができるだけの〈時間〉が生まれている。「ギザギザ」も「ぎざぎざ」も目にはみえないものだが、しかし、広瀬さんの句はそこになんらかの〈ひだ〉をみてしまっている。
〈もののみえない文学〉とは、同時に、〈ことのみえる文学〉でもあった。
だから現代川柳には、あやふや愛好者たちにはぴったりの文学だと言えよう。あやふやなコトガラの微妙すぎるひだひだの部分を得意とするのが現代川柳だと言える。
あやふやにもひだひだがあるんだっていうことは、みーんな、現代川柳が教えてくれた。
芽が出たので種を蒔かねばならない 大川博幸
(「あやふや」『川柳の仲間 旬』210号、2017年3月号 所収)
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