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2024年10月23日水曜日

DAZZLEHAIKU79[桑原三郎] 渡邉美保

 草虱妹の手の邪険なる   桑原三郎    


 「草虱」は、夏に白い小さな花をつけ、秋になると棘上の堅い毛が密生した実を結ぶ。この実が道行く人の衣服や動物につき、くっつくと取りにくいので藪虱あるいは草虱と呼ばれるという。

 草虱を衣服にいっぱいつけて帰ってきた兄と、出迎えた妹とのやり取りが目にみえるようで、なんだか可笑しい。

 「まあ、こんなにいっぱい草虱つけて…いったいどこを歩いて来たの?」などと言いながら、上着やズボンについた草虱をせっせと抓んでゆく妹。その手さばきは少々荒っぽい。その荒っぽさに困惑気味の兄は「妹の手の邪険なる」と嘯く。けれど内心は有難く思っているに違いない。邪悪なのは妹の手なのだ。

 草虱をとってくれる人が恋人や妻だったら、「邪険」とは言わないだろう。兄と妹のサバサバした関係が目に浮かぶ。ほのぼのとした味わいの一句だと思う。


 猫は人を猫と思ひぬ十三夜

 指組んで指先余る秋の風

 柿喰うて般若心経棒読みす

 秋風や木馬の芯に強き発条

 草の実やどこにも人が居て食べて

 ゆく秋のもの喰つて口残りたる

 晩年に先がありさう猿酒

 弟よ寒夕焼がまだ消えぬ

〈句集『だんだん』(2023年/ふらんす堂)所収〉


2016年4月24日日曜日

黄金をたたく30  [桑原三郎]  / 北川美美



生涯の顔をいぢつている春よ  桑原三郎 


「春よ」としたことで、春の歓喜を詠っていると解せる。冬の間の強張った顔がやわらぐ季節に顔をいじる。おそらく他者の顔ではなく自分の顔。鏡を見ずに眉や鼻や頬、髪や髭をいじるのであれば、何か考え事をしているとき、というのが大筋だけれど、「生涯の顔」であれば、「いじつている」行為をしばらく見ている、それが「生涯の顔」であると自分が認識する必要があり、その状況から、鏡の前のことなのではないかと想像する。 ふと、鏡の前の自分の顔が気になって「いじる」。また春が巡ってきた歓びと、いつかは死んでいく己の生きてきた顔かたちを自らの手で確めている。どうだ、お前元気か、と自分が自分に問いかける。なにはともあれ自分がつくってきた顔、今まで連れ添ってきた自分の顔なのである。

三郎の「顔」の句は春に詠まれることが多い。身体の中で一番先に春を感じる部位が、顔。逆を言えば、顔に気が付く季節が春である。一年中なにも纏っていない無垢な部位だから一番先に季節を感じるのだ。

手に乗せて顔はやはらか春あけぼの  「花表」
ちるはなや顔(かんばせ)は吹き荒らされて 「龍集」
顔を置く机上はひろし夜の鶯

<『龍集』1885(昭和60)年 端渓社所収>

2016年4月17日日曜日

黄金をたたく29  [桑原三郎]  / 北川美美




鉛筆は地獄を書いてゐたりけり   桑原三郎 


小学校入学の式典を終えた女の子がやってきて、ほぼ空っぽのランドセルにひとつだけ入っていた筆箱の中身を見せてくれた。未使用の削ったばかりの鉛筆、赤鉛筆、消しゴムが綺麗に並んでいた。児童、生徒、学生というのは、やはり鉛筆を使うのだ。大人になると芸術、技巧的な分野は別として、鉛筆を使う機会が激減する。

掲句の「地獄を書く」の措辞は、「地獄」という字を書いたのか、あるいは、「地獄」についての文章を書いたのか、ということになると思うが、地獄に相当する文書、手紙、メモ、作品を書いたのだと予想する。つらいこと、もう懲り懲りということ、経験するに堪えがたいことを書いたのだと思う。そして鉛筆で書いたのであれば、何度でも消して書き直すことが出来ることを意味する。

「で」ではなく、「は」であること、そして「ゐたりけり」により、過去の回想にとどまらず、時間の経過、つまり、鉛筆というものは、昔から、地獄のことを書いていて、今もそうなんだ、という作者の認識が含まれていると考察する。

鉛筆であれば、書き直すことができる。遺書、遺言、恋文、俳句…、それは地獄の黙示録に相当する。


鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ  林田紀音夫


鉛筆は無季にこそ、味わいがあると教えてくれる。掲句はその典型である。



<『龍集』1885(昭和60)年端渓社所収>

2016年4月10日日曜日

黄金をたたく28  [桑原三郎]  / 北川美美



春闌けて落ちるおちると川の水   桑原三郎

春爛漫の頃、花々や鳥たちが賑やかになり心落ち着かなく、外へ出たいと思うようになる。その頃は同時に水を感じる季節でもある。すべてが清々しく、あぁ春だと思う。掲句は春の中にいる作者に虚しく映っている水の景である。大自然の摂理の中に生きる人間の業の悲しみが伝わる。おそらくそれは中七の「落ちるおちる」にインパクトがあるからではないか。落ちていくことが解っている景を見ているにも関わらず、その危うさに虚無感が感じられる。落ちるおちる、あぁ落ちていった、というような作者心理が伺える。


春が闌けているのに「落ちる」という逆の構造、そして「落ちるおちる」のリフレインと表記が<散る>を徐々に連想させ、読者を空虚の世界へと引き込んでいく。


川の流れを見て、思い出すのは、下記の方丈記の冒頭だ。


ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず    鴨長明


水の流れを人の営みや、時の流れに重ね合わせてきたのが、詩歌の歴史でもある。落ちるもの・・・恋として見ることもできる。そしてすべては下五「川の水」へと繋がり流れていく。夢なのか現なのかとその境がわからなくなる間(あわい)に作者立っているのである。


<『龍集』1885(昭和60)年端渓社所収>