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2017年10月11日水曜日

超不思議な短詩238[岡崎京子]/柳本々々


  いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。いつも。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ち方というものを。  岡崎京子

「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」の図録『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』に寄せた文章のなかで小沢健二は次のように書いている。

  岡崎京子は『ヘルタースケルター』で、「みなさん」という言葉を使っている。マーケティングの会議/思考がとらえようとするのは、この「みなさん」の動向だ。
  ……
  でも、「みなさん」は、実は存在しない。
  「みなさん」は、実は数字だ。
  (小沢健二「「みなさん」の話は禁句」『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』)

小沢健二は『ヘルタースケルター』に埋め込まれた「みなさん」と「あんた達」の差異について語る。「みなさん」に取り巻かれた主人公のりりこ。表の「みなさん」と裏の「あんた達」の二重構造的環境にとりまかれるりりこ。

ここで興味深いなと思うのが、岡崎京子マンガが喚起してくる全体性である。岡崎京子は、冒頭に掲げたように「たった一人の」「女の子のことを書こうと思っている」と述べるのに、そして実際それは納得できるはずなのに、岡崎マンガでは、その「一人」が〈全体的ななにか〉を立ち上げていく。それは「女の子」を取り巻く全体的な「みなさん」や「あんた達」かもしれないし、「一人の女の子」が「全体」(終末感と奇妙な明るさが同居した80年代)の「女の子」を代表してしまう。「一人」が「全体」に結びついていってしまう風景を岡崎マンガは描いていたのではないか。

冒頭の引用部分は『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』の「ノート(ある日の)」からだが、こんな続きがある。

  いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。
  いつも。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ち方というものを。
  一人の女の子の落ちかた。
  一人の女の子の駄目になりかた。
  それは別のありかたとして全て同じ私たちの。
  どこの街、どこの時間、誰だって。
  近頃の落ちかた。
  そういうものを。
  (岡崎京子『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』)

「一人の女の子」の風景は、「別のありかたとして全て同じ私たち」につながっていく。それはもう女の子/女性/男の差異もない「全て同じ私たちの」風景である。

『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』には穂村弘さんの短歌が寄せられているが、やはり、〈全体〉を想起させる短歌になっている。

  長い夢から覚めたら世界がなんか変 タクシーの基本料金がちがう  穂村弘

  「商社ってシステムでかいから一度海老に決まると一生海老だ」  〃


  真っ青な目に僕たちを入れたまま台風はゆっくりとウインク  〃

  「目玉焼き、かたさどのくらい?」と問いかける誰かの声が永遠になる  〃

  「気をつけて一OLのあやまちは全OLのあやまちだから」  〃
  (「インターフォンにありんこがいる」『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』)

夢から覚めると「世界」が変わり、「システム」は「海老」が「海老」で一生ありつづけることを決め、「台風」の「真っ青な目」のなかに「僕たち」はいて、「誰かの」なにげない「声が永遠にな」り、「一OLのあやまちは全OLのあやまち」になる〈世界〉。

  そうよ あたしはあたしがつくったのよ
  (岡崎京子『ヘルタースケルター』)

〈ひとり〉の「あたし」の世界は、〈ぜんぶ〉の「あたし」の世界に結びついてゆく。

  日本の女の子の人生の幸福と不幸と困難さと退屈さについて行ってみよう。
  (岡崎京子「ノート(ある日の)」『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』)

「いつも一人の女の子のことを書こうと思っている」と書き出した文章で岡崎京子は「日本の女の子の人生の幸福と不幸と困難さと退屈さ」について書き始めている。岡崎マンガでは、絶望的に、ひとりの女の子とぜんぶの女の子が結びついてゆく。それは、時間さえも、超えて、だ。

  あなたが これから 向かうところは わたし達が やってきたところ
  (岡崎京子『チワワちゃん』)


          (『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』平凡社・2015年 所収)

2017年9月11日月曜日

超不思議な短詩212[宮柊二]/柳本々々


  ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す  宮柊二

穂村弘さんの解説がある。

  「ひきよせて」は、戦闘の一場面と読める歌。感情語を排した動詞の連続が緊迫感を伝える。
  (穂村弘『近現代詩歌』)

穂村さんの「動詞の連続」という指摘が面白いのだが、「ひきよせ/寄り添ふ/刺し/立てなく/くづおれ/伏す」とたしかにこの歌は動詞に満ち満ちている。こんな歌を思い出してみたい。

  前肢が崩折れて顔から倒れねじれて牛肉になってゆく  斉藤斎藤

この歌をはじめてみたとき、どうしてスローに感じられるんだろうと思ったことがある。屠殺される牛が、一瞬で殺されるのではなく、スローでゆっくりと死に、牛という個体から牛肉という食物=商品になっていく様子が感じられる。

宮柊二の歌では、ひとを刺すとはどういうことか、ひとを殺すとはどういうことか、ひとが刺され・殺され・死ぬとはどういうことか、がじっくりと描かれているのだが、この斉藤さんの歌にも「動詞の連続」によって牛が牛肉になっていくまでの死のプロセスが「崩/折れ/倒れ/ねじれ/なって/ゆく」とじっくりとスローで、動詞の連鎖で描かれている。

宮さんや斉藤さんの歌がスローを感じさせることがあるならば、それは、反復しつつも・ズラされながら連鎖してゆく動詞にある。定型の枠=時間を微分するかのように並列=列挙される動詞。読み手はそれら動詞を即座に処理し、連続させ、積分してゆかなくてはならない。

  崩→折れ→倒れ→ねじれ→なって→ゆく

こうやってみるとわかるように、おなじような意味の動詞が並びつつもだんだんズレてゆき、「崩」という↓への肉体がダウンするエネルギーは、「ゆく」という→への食品流通への流れへと、漢語からひらがなへの軽やかさとともに変化していく。

  スローモーションの魔術。どんなジャンルでもあえて低速にすると、高尚なものより尊重されやすいような気がする。
  (千葉雅也『別のしかたで』)

こういう技法は現在は漫画が効果的に使っている。例えば岡野玲子『ファンシィダンス』では主人公が三年の寺での修行生活を抜け、「まっ暗なシャバへ旅立」つときを、一コマのなかに身体の動きをズレつつ反復しながら印象的なスロー・シーンに変えている。

    (岡野玲子『ファンシィダンス』5巻、小学館文庫、1999年、p.43)

微分化された身体がスローな感覚をうむこと。たとえばこの考え方をこんなふうに〈逆〉に考えることもできるかもしれない。なぜ、チャップリンやバスター・キートンやマルクス兄弟がコマを早送りしながら自分たちのアクロバティックな身体を撮っていたかというと、それは、速度をはやめることで、身体に動詞を多重に折り重ねるプロセスだったのではないかと。

限定された時間のなかに動詞を多重に折り重ねることでスローな感覚をもたらす短歌と、限定された身体の速度を高めることで身体に動詞を多重に折り重ねるサイレント・コメディ。

動詞、速度、身体。短歌も映画も身体のテクノロジーにかかわっている。

  チャップリンのテクノロジー化した身体は、逆に周囲の環境からの刺激(機械のリズム)に自分を同調させることができるような、柔軟な有機的身体である。つまりこの身体は、機械の断続的なリズムを自らの生命のリズムとして生きてしまうのだ。
  (長谷正人『映画というテクノロジー経験』)


          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年9月9日土曜日

超不思議な短詩209[小野茂樹]/柳本々々


  あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ  小野茂樹

たくさんで、それでいて、たったひとつの表情をしろ、という不思議な歌だ。ヒントは、「あの夏」だ。この「あの夏」を知っている人間は、その矛盾した複雑な表情ができるのだ。たぶん「した」ことがある人間だから。ここには「あの」という経験が矛盾律を越えてしまうようなことがうたわれている。出来事性が、理屈を、こえている。

ところで短歌史を流れている〈記憶〉のようなものがあるんじゃないかと思い、実験的に書いてみようと思う。

この掲出歌に次の二首を並べてみたい。

  逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと  河野裕子

  この夏も一度しかなく空き瓶は発見次第まっすぐ立てる  虫武一俊

河野さんの歌にも「あの夏」がやはり出てきて、「たつた一度」も出てくる。ただこの「たつた一度」は小野さんの歌からずれて、「たつた一度きりのあの夏」と夏にかかってくる。でも「たつた一度きりのあの夏」の〈表情〉をうたっている歌だ。しかもその〈表情〉とは、「逆立ちしておまへがおれを眺めてた」表情だ。

あえて小野さんの歌と一緒に読んでみるならば、ここにはこの歌の記憶を引き継ぎながらも、河野さんの立場からの〈フレッシュなねじれ〉がある。小野さんの歌が「せよ」と命令形だったのに対し、河野さんの歌は「逆立ち」を導入することによってこちらをみつめる人間の〈微妙な心性〉が浮かび上がってくる。「おまへ」は素直な人間ではないのかもしれない、「おれ」の「せよ」という命令をきくような人間でもないかもしれない。そうした相互の主体性の微妙な距離感がでている。

虫武さんの歌もこの〈歌の記憶〉に沿うような歌としてあえて読んでみるならば、「この夏も一度しかなく」と小野さんの表情の矛盾にあったものが、数の矛盾としてここではうたわれている。「この夏も」と夏はたくさんあるのだが、しかし「一度」なのである。表情の力点は、時間の力点におかれた。つまり、表情の有限ではなく、時間の有限を気にする位置性に語り手は身を置いている。

そして河野さんの歌にいた「おまへ」は消え、ここにあるのは「空き瓶」である。表情も、他者も、消えてしまったのだが、それが逆に現代の〈フレッシュなねじれ〉になっていると思う。

ところで、なぜ「空き瓶」を「発見次第まっすぐ立てる」必要があるのか。拾ったら回収し分別し捨てればいいのではないか。

こんなふうに答えてみたい。この語り手は、短歌史のなかにいる人間だったから、歌の記憶のなかで、「まっすぐ立て」たのだと。たった一度きりの夏のなかで、短歌の記憶を引き継いだ語り手は、空き瓶をみつけて「まっすぐ立て」た。これは、そういう歌なんじゃないか。

これは一度と夏をめぐる歌の記憶だったが、わたしはときどき、短歌史のなかの〈気づきの歌の記憶〉のようなものも、気になっている。そんなものはないかもしれないし、気づきそこねなのかもしれないが、でも、ちょっと、気になっている。気にしていこうと、おもう。

  呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる  穂村弘

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤

  草と風のもつれる秋の底にきて抱き起こすこれは自転車なのか  虫武一俊


          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年9月8日金曜日

超不思議な短詩207[藤幹子]/柳本々々


  銀河行くふたつの旅行鞄かな  藤幹子

『庫内灯 BL俳句誌』の「鞄はふたつ」から掲句。

『BL進化論』の溝口彰子さんによれば、女性読者がポルノを読む際の感情移入の対象は複数化していくという。

  「受」、「攻」にそれぞれアイデンティファイするというふたつのモードに加えて、もうひとつ、物語宇宙の外側に立つ読者としての視点、いわゆる「神の視点」へのアイデンティフィケーションもある。…
  三つのモードのうち、どれが最も強く働くかは、読者それぞれのファンタジーや物語の内容によっても異なる。…
  強弱はあれど、読者の頭のなかでは、この三つは同時進行であろう。「攻」、「受」そして「神」、すべてが「私」=読者なのである。
  (溝口彰子『BL進化論』)

ここで興味深いのは、BL的視点は決して〈攻め・受け〉の二項対立だけでなく、それらを俯瞰する第三者の視点をも同時にもつということである。

掲句をみてみよう。この句が、〈BL俳句〉である点は、どういう点にあるのか。

まず「ふたつの旅行鞄」で〈関係性〉を示唆している。〈攻めの旅行鞄/受けの旅行鞄〉と〈攻め/受け〉の二項対立が想起される。ここで注意したいのは、旅行鞄の所持者への関係性だけでなく、旅行鞄それ自体への関係性へも視点が潜り込んでいることだ。どういうことか。

たとえばこう考えてほしい。所持者に関係性がなくても、ふたつの旅行鞄が隣り合っておかれるだけで〈BL的想像力〉は働かせることができるのだと。BL的想像力は複数化の視点だから。

  恋愛がヘテロのものでない可能性があること、あるいは恋愛とは違っても互いを求め合う(対等な)関係性があること。BL俳句/短歌は、自分にとってそのひとつの象徴です。ときに異性愛に満ちて息苦しく感じられる世界への、ささやかな抵抗でもあります。
  (佐々木紺「編集後記」『庫内灯』2015年9月)

しかし/だから、もちろん〈攻め/受け〉の二項対立だけではない。

「銀河行く」という俯瞰の視点。この句ではこの「ふたつの旅行鞄」が「銀河行く」のを〈みている〉俯瞰の〈神〉の視点がある。BL的関係性を発動させている神の視点のような。

こうしてさまざまな複数的関係性を一句に折り畳んでいるのがBL俳句と言えないだろうか。

  抱くときは後ろ抱きなり春の月  岡田一実

〈背後から抱く(攻め)/後ろ抱きされる(受け)〉関係をみている「春の月(神の視点)」。

  ともだちを抱くこともある夏の果て  佐々木紺

〈抱く(攻め)/抱かれるともだち(受け)〉の関係をみている「夏の果て(神の視点)」。

ここでたぶんもっと大事なのは、いま・これをBL的に読もうとしている柳本々々もこの関係的想像力にかかわっていることである。これは柳本々々をてこにしたBL的想像力の関係性であり、この基点としての視点をだれが・どこから・どのように読むかによってまた関係性の束は変わってくるだろう。たぶんその意味で石原ユキオさんは『庫内灯』序文にこんなふうに書いている。

  BL俳句に決まった読み方はありません。
  でも、「俳句なんて読むの初めてだし、まず何をどう読んでいいかわかんなよー!」という方もいらっしゃるかもしれないので、BL俳句を楽しむコツを書いておきます。
  情景を想像し、ストーリーを妄想せよ!
   (石原ユキオ「BL俳句の醸し方」『庫内灯』)

関係性の束のなかにさらに読み手としての〈わたし〉をも関数として、関数的想像力として、その関係性の束のなかに関わらせること。BL的想像のダイナミクスは、読み手としての〈わたし〉に関係性の詩学を教えてくれる。

  穂村弘の「こんなめにきみをあわせる人間は、ぼくのほかにはありはしないよ」という明智と怪人20面相との関係を描いた短歌がありますが、私の理想はまさにこれです。
  「たったひとりの、代替不可能な互いの理解者であり、敵」という関係性にきゅんとします。
 (佐々木紺「往復書簡 金原まさ子×佐々木紺」『庫内灯』)

          (「鞄はふたつ」『庫内灯』2015年9月 所収)

2017年9月7日木曜日

超不思議な短詩205[斎藤史]/柳本々々


  白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう  斎藤史

短歌のアンソロジーを読むとたいてい載っているとても有名な歌だ。

ちょっとデリダのこんな言葉を引いてみたい。

  明日、君に手紙を書く、でもおそらく、またしても、手紙より私のほうが先に着くだろう
  (デリダ『絵葉書Ⅰ』)

デリダは、こう言ってよければ、手紙に挫折したひとである(〈郵便的誤配〉とは、手紙に対する挫折だったのではないか)。

手紙は、届かない。というよりも、届くんだが、届くまえに、わたしが先に着いてしまう。だから、手紙は届かない。まだ来ていないからだ。

ここには、手紙の身体性があらわれている。斎藤史さんの歌をテクストとして読んでみよう。デリダと事態は逆である。

すでに手紙は届いている。けれども、語り手は、「待たう」というのだ。手紙は、もう、着いているのに。

おそらく、その手紙に、誰かがくることが書かれている。それは語り手の父親かもしれないし、デリダかもしれない。わからないけれど、でも、身体は遅れてやってくる。手紙をめぐる身体は、《先に着いたり、遅れてやって来たり》する。

つまり、手紙は身体の時間差をうむ。その身体の時間差が、手紙の誤配をうんでいく。いくら言葉を読みとっても、もう身体はさきに着いているのだし、まだ着いていないのだし、が、言葉を先走らせたり遅延させたりする。意味は、ずれていく。

では、手紙と身体が、《同時に》やってきた場合は、どうなるのだろう。こんな歌がある。ほんとうに同時にやってくる歌だ。

  お手紙ごつこ流行りて毎日お手紙を持ち帰り来る おまへが手紙なのに  米川千嘉子

お手紙をもって母親のもとにやってくる子ども。ちゃんと手紙と身体が同時にやってきた。ところが、やはり、《遅延》が起きる。語り手は、「おまへが手紙なのに」と思うのだ。ここには、手紙と手紙のズレがある。やはり、手紙は誤配され、届かなかったのだ。なぜなら、「おまへが手紙なのに」おまえはそれに気づいていないから。だから、手紙は、届かない。身体は、そこにあるのに。

  私はまだソクラテスの背後のプラトンという、あの啓示的な破局から立ち直っていない。
  (デリダ『絵葉書Ⅰ』)

手紙は、身体を、分割する。そしてその身体の分割の破局を、立ち直らせない。

そういえば、穂村さんに、こんな手紙の歌があった。

  窓のひとつにまたがればきらきらとすべてをゆるす手紙になった  穂村弘

なんで「窓のひとつにまたが」ったのか? それは自ら積極的に身体を分割し、手紙身体になったからだ。窓枠にまたがり、みずからを、ソクラテス/プラトンに分割(スプリット)する。破局させる。そのとき、積極的にわたしが手紙を追いかけたことで、手紙の遅れをとりもどし、わたしに《だけ》わたしの手紙が、とどく。すべてをゆるす手紙に「なる」。わたしにとってだけれど。

もちろん、すべてをゆるす手紙は、また、誤配を重ねる。でも、あいても、窓枠にまたがって読むかもしれない。そうしたら、相手に、手紙は届くかもしれない。届くんだったら、

  時差は私のうちにある、それは私だ。時差は私を阻止し、禁じ、分離し、停止させる──しかしまた、私から楔を取り去り、私を飛翔させる、君も知っているように、私は自分に何も禁止しない、というか、私を禁止しない、そして私はまさに君のほうへ、君へと飛翔する。
ただただ君のほうへと。一瞬のうちに。
  (デリダ『絵葉書Ⅰ』)

          (『斎藤史全歌集』大和書房・1997年 所収)

超不思議な短詩203[竹山広]/柳本々々


  二万発の核弾頭を積む星のゆふかがやきの中のかなかな  竹山広

穂村弘さんの解説がある。

  「核弾頭」と「ゆふかがやきの中のかなかな」が共存する世界に我々は生きている。
  (穂村弘『近現代詩歌』)

先日放送されたNHKの「SWITCH インタビュー 達人達(たち) 山本直樹×柄本佑」を観ていたら漫画家の山本直樹さんが連合赤軍事件を描いたマンガ『レッド』で、凄惨な事件のなかでもつい笑ってしまうような楽しいことがある、それも描きたかったと話していた。これもひとつのレベルの違うものの共存である。でも、たしかにヴォネガットの小説を読めばわかるようにどんなに凄惨な状況でもわらってしまうことはあるかもしれない。

たとえばそうした違うレベルの共存をずっと描いたのが、松尾スズキだとも、おもう。松尾スズキさんがかつて「トップランナー」というインタビュー番組で、葬式に向かう途中で週刊誌の袋とじヌードを破ってしまうことがあったとする、すごくかなしいことはかなしいのだけれど、その一方で、そういう状況のなかでもヌードをみたいきもちが共存してしまうときがある。その状況とはなんなのか、みたいなことを話されていた(『ファンキー! 宇宙は見える所までしかない』には障害者と笑いの共存というテーマが模索されている)。そういうものを忘れないでいたい、と。これもレベルの違うものの共存の話である。

レベルの落差の共存を描いたアニメに富野由悠季の『 ∀ガンダム(ターンエーガンダム)』がある。このアニメは、世界名作劇場+ガンダムと言われるような、ほのぼの日常労働社会と戦争リアルロボットアニメが融合していく特異というかとってもヘンなアニメなのだが(その意味で〈それまで〉のガンダムサーガを裏返している)、竹山さんの歌のうおな「核弾頭」と「ゆふかがやきの中のかなかな」が共存・折衝していく状況が描かれている。

物語の主人公ロランは偶然核弾頭を見つけてしまうのだが、そのとき核弾頭は、キャラクターたちの内面を、核の恐ろしさを知る味方、核の恐ろしさをまったく知らない味方、核の恐ろしさを知る敵、核の恐ろしさを知らない敵と微妙な層をわけながら、描き出していく。

核の恐ろしさをもとに協同しようとする敵味方、核のおそろしさを知らずそれが何かとても〈いいもの〉だと思い横取りしようとする味方。

結局、核は暴発してしまうのだが、そのとき、その回のタイトルにもなっているのだが、あまりの明るさで真っ暗闇のなか「夜中の夜明け」がきてしまう。核のおそろしさを人間はこの〈夜中の夜明け〉のひかり(まるで「ゆふかがやき」のような)に恐ろしさを感じるし、知らない人間は、美しいと感じる。

たぶん、核を考えるということは、このような核と一見無縁の〈風景〉=「夜中の夜明け」「ゆふかがやきの中のかなかな」と核を含んだ風景が、等価であるような状況を考えるということになるんじゃないかと思う。

ほのぼのした風景のなかに、核がある。

キューブリックの映画『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』のロデオのようにまたがることのできる核、タイムボカンシリーズの三悪の爆発するしゃれこうべ型の煙の核、核の風景は凄絶さよりもいつも〈コミカル〉や〈ほのぼの〉とも同居していたのではないか。

その凄絶さとほのぼのがコンタクトをとるその地点に、たぶん、ずっと立っている。わたしたちは凄絶な状況で、おかしなことがあれば思わずわらうし、ほのぼのとした日常のなかで凄絶な死をとげたりする。だれかがそれを正しいといったり、まちがっているといったりする。だけどもう、それだけじゃ足りないんだ。

  おそろしきことぞ思ほゆ原爆ののちなほわれに戦意ありにき  竹山広

  人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこうつけ加えた。「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ!」
  (ヴォネガット『スローターハウス5』)


          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

超不思議な短詩202[土屋文明]/柳本々々


 子供等は浮かぶ海月に興じつつ戦争といふことを理解せず  土屋文明

1935年の歌。

  時代と社会の動きを捉えようとする目を感じる。「子供等」の「海月に興じつつ」には、無邪気さの中に不穏なイメージがある。大人等は戦争を理解していたのだろうか。
  (穂村弘『近現代詩歌』)

この土屋の歌では、「理解」という行為が軸になることで、さまざまな二項対立を形作っている。

  子供等  /大人等
  浮かぶ海月/沈む重い何か
  興じる  /興じない
  理解せず /理解している

子どもたちが浮かぶ海月にはしゃぎ戦争を理解しない一方で、大人たちは浮かぶことのない何かを前にはしゃぐこともできず、ただ戦争という事態を理解している。

「理解」ということは、「あなたたち」と「わたしたち」という二項対立をどうしてもうみだしてしまう。かならず、理解できるひとと理解できないひとがでてくるからだ。

この「理解」ということばは現代の歌ではどのように受け止められているだろう。

  3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって  中澤系

中澤さんのこの歌でもある意味、「理解」は戦争状態を通して《行われ》ている。「快速電車が通過」するとき、「理解できない」にんげんは「理解できない」まま、死んでいく可傷性がある。わたしを破壊的な死に巻き込むこの電車とはいったいなんなのか、なぜわたしたちの社会に電車があるのか、こんな危険な致死にもたらす可能性があるものになぜぼんやりとわたしたちはホームで待つのか、理解できないまま身体を損壊されて、しんでゆく。

ただし。

「理解」できたからといってそれがなんなのだろう。いったい《なに》を理解したことになるのだろう。「3番線快速電車が通過します」というセンテンスの意味性を理解した(つもりになっている)に過ぎないのではないか。それを「理解」したところでときどき電車という暴力装置のなかで骨片になってゆくひとたちの〈きもち〉は理解できない。毎日、朝の、夜の、生の、機械の、戦争のなかで、電車によってこなごなにされ、ふいつぶされ、たたきつぶされ、しんでゆくひとたち。「理解」は、どこにあるのだろう。

  戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか。その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下される。
  (押井守『機動警察パトレイバー2』)

わたしたちとあなたたちを《分けて》いたはずの「戦争」や「理解」はいったいどこにいってしまったのか。

わからないけれど、しかしわからないなかで、「理解」そのものを拒むという理解への積極的否定をとることだって、できる。「理解できない人は下がって」と大きな主体から言われたときに、「理解しよう」と飛びつくのではなく、だったらそうかんたんには「理解しません」と〈理解しない〉ことを耐え抜く態度だ。

死にたくはないので「下が」るが、だからといって、「理解」については譲らない。理解しない。理解する気なんてない。理解しないままのわたしで《あえて》下がる。理解しないその場所で、忍耐強く、たたずみつづける。中澤さんのうた。

  小さめにきざんでおいてくれないか口を大きく開ける気はない  中澤系
  

          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年9月4日月曜日

続フシギな短詩197[福島泰樹]/柳本々々


  一隊をみおろす 夜の構内に三〇〇〇の髪戦(そよ)ぎてやまぬ  福島泰樹

こんな穂村弘さんの解説がある。

  第一歌集『バリケード・一九六六年二月』は、そのタイトルかあも明らかなように背景に六〇年代の学園闘争がある。…校舎の上に立てば、眼下には「構内」を埋め尽くした同志たちの「三〇〇〇の髪」が戦(そよ)いでいる。
 (穂村弘『近現代詩歌』)

「一九六六年」という「六〇年代の学園闘争」という時間の括りのなかにあってはじめて「一隊」や「三〇〇〇の髪」「戦(そよ)ぎ」が意味をもってくる。タイトルが『バリケード・一九六六年二月』とあるように、〈一九六六年二月〉という時間のバリケードのなかにあえてこれらの言葉は閉じこめられた。

60年代を背景にした100パーセント恋愛小説というベストセラーを書いた作家がいる。村上春樹だ。村上春樹さんは柴田元幸さんとの対談において自作『ノルウェイの森』についてこんなふうに述べている。

  僕が書いている小説世界というのは、だいたいいつもふたつの世界を内包しているんですね。こっちの世界とあっちの世界ですね。……でも『ノルウェイの森』ではそういう時間性の重層性というのはあまりかかわってこないような気がするんです。だから僕はこれはリアリズムの小説だと感じるんです。実感としてね。『ノルウェイの森』というのは、びしっとあの時代に限定しなくてはならなかったんです。もっと極端に言えば、そこから広がってほしくなかったんです。あれはあれとして終わってしまってほしかった。「僕」と緑さんがあのあとどうなるかなんて、僕としては考えたくないし、読者にも考えてほしくなかったんです。変な言い方かもしれないけれどね。だから僕にとってあの小説は他の小説とはぜんぜん違うものですね。
  (村上春樹「山羊さん郵便みたいに迷路化した世界の中で」『ユリイカ臨時増刊 村上春樹の世界』1989年6月)

ここで興味深いのが、村上さんが「リアリズム」とは「時間の単層性」だと述べている点である。それは「時間の重層性」を感じさせてはだめなのだ。リアリズムとは、時間の檻(おり)に閉じこめてはじめて効力を発揮する。だから福島さんの歌のこの「一隊」や「夜の構内」や「三〇〇〇の髪」や「戦(そよ)ぎてやまぬ」は《ここ》、《この時・ここ》だけのものだ。それは、その後の後日譚のようなものもないし、この歌を補足し補完するような解説も書かれえない。そこで始まって・そこで終わる歌。

  だから僕が言いたいのは、とにかくあの時代に時間を限定された小説を書きたかったということですね。それはそこで始まって、そこで終わる話なんです。だから僕は『ノルウェイの森』の続編は書かないし、それを補完する短編も書かないのです。
  (村上春樹、同上)

福島さんの歌の「一」と「三〇〇〇」の数の対比が象徴的なのではないかと思う。「一」のあとに「三〇〇〇」も「四〇〇〇」も「五〇〇〇」もこの歌を読む読者があらわれるかもしれないが、しかしこの歌はその圧倒的な数に、ある時代のなかに閉じこめられた「一」としてずっと対峙しつづける。その「一」に、〈今〉生きる立場から、負けて、この歌をはじめて読むことができるような気がするのだ。つまり、もう、補完しえない者として。

なんども書くのだが、感想を書くということは、いつも、どこかで、負け戦なんだと、おもう。

そこにいられなかった者が、そこにいようと試み、でも試みた結果、そこにいられ《え》なかったことに気づき、はじめからじぶんは負けていたことに気づくのだ。感想とは、そのようなものではないかと、おもう。

  二日酔いの無念極まるぼくのためもっと電車よ まじめに走れ  福島泰樹


          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年9月2日土曜日

続フシギな短詩194[佐佐木幸綱]/柳本々々


  のぼり坂のペダル踏みつつ子は叫ぶ「まっすぐ?」、そうだ、どんどんのぼれ  佐佐木幸綱

佐佐木幸綱さんの短歌がなしたことに、〈垂直〉の〈縦の身体性〉を、〈立つ〉ということを、しっかり短歌として定着させるということがあったのではないかと思う。この〈立つ〉身体性があらわれている歌をひいてみよう。

  サンド・バッグに力はすべてたたきつけ疲れたり明日のために眠らん  佐佐木幸綱

  一生は待つものならずさあれ夕日の海驢(あしか)が天を呼ぶ反り姿  〃

  噴水が輝きながら立ちあがる見よ天を指す光の束(たば)を  〃

  噴き出ずる花の林に炎えて立つ一本の幹、お前を抱(いだ)く  〃

垂直に立つ「サンド・バッグ」にすべてのエネルギーをたたきつけ眠る語り手、天を呼ぶ反り姿の屹立したアシカ、天を指す光の束としての立ち上がる噴水、一本の幹のようにもえ立つ抱かれるお前。

ここにあるのは、あらん限りの〈立つ〉ことへの関心だと思う。この〈立つ〉ことの身体性を短歌に定着させることが佐佐木さんの短歌のひとつの力強さだったのではないかと思う。

それがなにが大事なのかというと、そうやって強く定着した〈立つ〉ことの運動性があってこそ、〈横〉の運動性が、またそれに反響してつながってくるからだ。たとえばここで取り上げたものでいうと、

  サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい  穂村弘

決して〈立ち上がる〉ことのない「横」の運動性しかもたない(あるいは螺旋)「象のうんこ」に話しかける、もう倒れそうな語り手の〈横〉性。

  たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく  山田航

「横」向けになったペットボトルを補充しつづける親の収入を超せない「横ばい」どころか「下降」してゆく「僕たち」。冒頭の掲出歌とこの歌を比較してみてほしい。ここには「まっすぐ」も「どんどんのぼれ」もない。それは永遠の横への補充であり、その永遠のゲームに生き残れても生き残れなくても、どちらにしても、どんどんあとは下降してゆくだけだ。

  玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって  望月裕二郎

玉川上水にながれつづけるからだ。やはりこれも横の身体性であり、かつこの身体には「人のからだをかってにつかって」と身体の主体性も剥奪されている。

こうした〈横の身体性〉がとても効果的に感じられるのは、定着された〈縦の身体性〉と響きあってこそではないかと思うのだ。こうした縦から横への身体の系譜があって、その系譜ごと、これらの短歌を〈感じている〉部分があるのではないかと思うのだ。

あなたがたとえ絶望しつっぷしているときも、あなたはもしかしたら身体の系譜学のなかで、歴史的身体性のなかで、つっぷしているかもしれないということ。

  満開の桜ずずんと四股を踏み、われは古代の王として立つ  佐佐木幸綱


          (『語る 俳句 短歌』藤原書店・2010年 所収)

2017年8月31日木曜日

続フシギな短詩190[奥村晃作]/柳本々々


  中年のハゲの男が立ち上がり大太鼓打つ体力で打つ  奥村晃作

穂村弘さんがこんな解説をしている。

  奥村晃作には、普通の大人が当然身につけている筈の意識のフレームがない。生存に優位な情報を重く見て、そうではない情報を軽く見るという判断が解体されている。……「中年の」においても「ハゲ」に対する偏見がゼロである。
  (穂村弘『近現代詩歌』河出書房新社、2016年)

実はこの歌をわたしはずっとある別の歌人のひとが詠んだ歌として記憶していた。でも、その〈まちがい〉に意味があるような気がして、すこし考えてみたのだが、ここにはこの語り手の独特のフレームがないために、実は、〈だれ〉が詠んでも、〈だれ〉がこの風景を観ていても、かまわないということなのではないかと思うのだ。零度の風景。だから、実はこの歌は、だれが署名しても、いい。でもそのだれが署名してもいい歌というのを歌としてつくりあげてしまったところにこの歌の署名性がある。

ところでこの歌には形容詞がひとつもないことに注意したい。形容しないからこそ、ここには語り手の意識がないように感じられるのだ。情報処理感覚がないというか。まるでボルヘスが創造した架空の国「トレーン」の逆バージョンのようなかんじなのだ。

  トレーンでは誰も見ていなければ月は存在せず、そもそも「月」を表す名詞すら無くて「暗い=円い、上の、淡い=明るいとか、空の=オレンジ色の=おぼろの」というような形容詞の連なりがあるだけだそうです。瞬間聖者や瞬間動物たちの世界とも言えるでしょう。なにしろ、今日から明日までずっと存在する月、もしくはあなたや私、という「もの」は存在しないし、だからといって、今が特別重要なわけでもありません。今が特別だと思うのは、私達のような、今以外の存在も暗黙に認めている俗人です。
  (西川アサキ『ユリイカ臨時増刊 『シン・ゴジラ』とはなにか』)

形容詞しかない国「トレーン」に比べて、事態はまったく逆である。奥村国は、形容詞のない国だ。トレーンでは形容詞しかなく名詞(カテゴリー)がないために瞬間的な意識しかないのだが、奥村国には形容詞がないことによって、ずーーーーっと続く純粋なカテゴリーが逆に感じられる。無限持続カテゴリーといったらいいか。ただしそれは意識ではなく、無限に続くカテゴリーの1コマに過ぎない(アゴタ・クリストフの『悪童日記』やトゥーサンの『浴室』みたいな)。

だからここでの「中年のハゲ」は、純粋に持続するカテゴリーでしかなく、語り手はカテゴリーになんの感情ももっていない。それは、ずーっとなんにも変わることなく持続していく「中年」カテゴリー、「ハゲ」カテゴリーの群れでしかなく、それは〈意識〉されなかったものであり、「中年」「ハゲ」「男」「立ち上がる」「大太鼓」「打つ」「体力」「打つ」と名詞と動詞が並べられただけである。

ここには瞬間的な感覚がない。瞬間的な〈感覚する〉がないので、このカテゴリーを使って語り手は明日も明後日も明明後日も十年後も百年後もまったくおなじ風景をみることが、再現=表象することができる(まるでボルヘスの「不死の人」みたいだ)。ここにはカテゴリーしかないので、百年後、やはり、中年のハゲの男が立ち上がる、立ち上がり大太鼓打つ。年齢も頭髪も体力もまったく変わらずに。語り手はそのときもカテゴリーにであうだけで、かなしいとかやさしいとかはげしいとかせつないとかすきとかきらいとかは、おもわない。それはカテゴリーにはならない。瞬間意識になっちゃうから。 

そう言えば、西川さんはこうも言っていた。

  (トレーンには)死の恐怖はありません。「死ぬ者」がいないからです。
  (西川アサキ『ユリイカ臨時増刊 『シン・ゴジラ』とはなにか』)

しかし、ずーっと持続してゆだけのカテゴリーも、逆に痛みや死を消してゆくのではないだろうか。カテゴリーに、〈痛い〉という形容詞はないから。

  転倒の瞬間ダメかと思ったが打つべき箇所を打って立ち上がる  奥村晃作

          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

続フシギな短詩189[与謝野鉄幹]/柳本々々


  われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子  与謝野鉄幹

この歌に関して、穂村弘さんが面白い解説を書かれている。

  鉄幹の「われ」は、その弟子世代の「われ」と較べても、あまりにもダイナミックかつ多面的、しかも引き裂かれていて把握が難しい。
  『紫』の巻頭に置かれた「われ男の子」は、その見本のような作である。一首の中に七つの「われ」が犇(ひし)めいている。それは混乱して「もだえの子」になるよなあ、と思う。
  (穂村弘『近現代詩歌」河出書房新社、2016年)

この七つの「われ」ってロマンシングサガ2の七英雄みたいでちょっと面白いが(『ONE PIECE』の七武海でもいいけど)、たぶんこの七つの「われ」をまとめあげているのが「あゝ」である。

どんなに分裂し「もだえ」ていても、〈ああ!〉と感嘆できる人間はひとりしかいない。この「あゝ」のなかに「男」も「意気」も「名」も「つるぎ」も「詩」も「恋」も「もだえ」も入っているのではないかと思う。

つまり、この「あゝ」がとっても近代的であり、縫い目を綴じ合わせる近代独特の〈ボタン〉のような働きをしているのではないかと思う。または、こんなふうに考えてみてもいい。どうして詩から「ああ!」は消えてしまったのだろう。どうして今「ああ!」を使うと古くさく感じられることがあるのだろうと。

すごく雑な言い方だが、近代はどれだけ〈わたし〉がカオスにおちいっても、「あゝ」でまとめあげようと思えばひとりの〈わたし〉にがっつりまとめあげられてしまう。

じゃあ、現代の〈わたし〉は、どうだろう(という言い方も雑でどうかと思うけれど)。

  ちょっとどうかと思うけれどもわたくしにわたしをよりそわせてねむります  斉藤斎藤
  (『渡辺のわたし 新装版』港の人、二〇一六年)

「わたくしにわたしをよりそわせ」る〈添い寝〉の距離感のような「わたし」。あなたに添い寝する〈あなた〉と〈わたし〉がいくら抱きしめても〈同一〉の人間にはなれないように、ここには微妙でソフトな距離感がある。しかしそれは、そんなに遠いわけでもない。抱擁しようと思えばできるくらいの距離には、あなたから離れたわたしはいる。「あゝ」ほど暴力的でもない。絶妙に、ソフトに、離れて、「ちょっとどうかと思うけれども」、でも、そこにいる、わたしのわたし。

斉藤斎藤さんの『渡辺のわたし』では、〈わざわざ限定して〉「渡辺のわたし」と歌集が名乗っているくらいに、きづくと〈わたし〉が少し離れた場所に遊離してしまう。でもそれはカオスでもなく、そんなに遠く離れて、でもない。それは、すぐそばにいる。すぐそばにはいるのだが、同一でもない。だから今は「渡辺のわたし」かもしれないが、次のしゅんかん、「わたし」は、「Xのわたし」になるかもしれない。そういう偶有的〈わたし〉にこの歌集はみちている。

  ぼくはただあなたになりたいだけなのにふたりならんで映画を見てる  斉藤斎藤

ずっと疑問だったのだが、なぜ「ぼくはただあなたと一緒になりたいだけなのに」じゃなくて、「あなたになりたい」なのだろう。いったい、《なって・どうする》のだ。

こう、考えてみたい。「ぼく」は、「あなた」の視点が所持できないことが、「あなた」の視点で世界を考えられないことがいやなのだと。いやなんだけれど、けれど、仕方がない。「わたくし」に「わたし」をよりそわせることはできるが、「あなた」とは絶対的な途方もない、しかし並んでそんなに離れてもいない、絶対的な距離感がある。わたしのわたしとあなたのあなた。

「わたし」は語法によっては操作できる。わたしがわたしに添い寝できる。しかし、「あなた」を《語法で操作したくない》。あなたの位置から・わたしは・映画を観たくない。というか、なれない。絶対不可能ということを死守する。でも、「なりたい」という気持ちは隠さない。でも、ならない。なりたいけど。

それが、この歌ではないだろうか。いや、今、わたしも気づいたんだけれど。

  あなたの空もちゃんと青くてサンダルはあなたのかかとにぴったりしてる  斉藤斎藤

          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

2017年8月28日月曜日

続フシギな短詩180[塚本邦雄]/柳本々々


  春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状  塚本邦雄

戦争と川柳・俳句について前回少し話をしたがそのときずっとこの短歌について考えていた。よくかんがえる。

  電車の中でもセックスをせよ戦争へゆくのはきっときみたちだから  穂村弘

鶴彬の川柳の戦争を通過した身体は手足がもがれることで当事者性が出ていたが、渡辺白泉の俳句の身体は「銃後という不思議な町」というそれよりも後景で、しかしアクロバティックな身体を展開していた。

穂村さんの歌になると戦争はもっと後景になり、戦争をめぐる身体性も「きみたち」に委託される。ここでは手足をもがれる過激さは、公共圏としての「電車の中」で「セックス」をする過激さとなり、倫理の手足がもがれることになる。ただ、前回も話した江戸川乱歩の「芋虫」が、戦争身体と性的身体のオーヴァーラップの物語だったことを考えると、この歌の戦争とセックスの重なりは興味深い。

  そこには、キリキリと廻る、生きたコマのような肉塊があった。そして、肥え太って、脂ぎった三十女のぶざまなからだがあった。それがまるで地獄絵みたいに、もつれ合っているのだ。なんといういまわしさ、醜さであろう。だが、そのいまわしさ、醜さが、どんなほかの対象よりも、麻薬のように彼女の情欲をそそり、彼女の神経をしびれさせる力をもっていようとは、30年の半生を通じて、彼女のかつて想像だもしなかったところである。
  (江戸川乱歩「芋虫」)

妻は、戦地から帰ってきて「芋虫」のようになってしまった夫の身体にみずからのセクシュアリティの新たな位相を〈発見〉する。戦争身体を発見するということは性的な身体がなんなのかを考えることにも通じている。

  タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう  鶴彬

「産めよ殖やせよ」の戦時のスローガンのとおり、戦争はセクシュアリティを管轄しようとするからだ(たぶんここにはこうの史代さんの『この世界の片隅に』の戦争身体と性的身体をめぐる問題も関わってくる気がする。あのキスはどの位相でなされたのか)。

ちょっと遠回りをしたが、掲出歌。塚本邦雄にとっての戦争の位相はどこなのだろう。岡井隆さんがこんな発言をしている。

  ぼくは十七歳で戦争が終わったからそういうことはひっかかってこなかったけど、みんな何を考えていたかというと、兵隊に行かないようにするにはどうしたらいいかってことなんですよ。黙っているけどみんな考えているのはそれなんです。だから理系に行ったほうがいいとか、文系はやばいとか。そういうことをみんな考えていて、でも口に出すと非国民になるから言わない。一方で、友人が死んだりするし、日本が滅びたりしていいと思っているわけではないから、吉本隆明さんがお書きになるような愛国少年的な面も片方にはある。その複雑さがあるんだよね。
  (岡井隆『塚本邦雄の宇宙』)

戦争はいやだし行きたくはないのだが、でも、それを口には出せないので、黙っている。黙ってはいるが、思ってはいる。思ってはいるのだが、でも、愛国心もある。この国を滅ぼしたくないという気持ちもある。手足を失うわけでもないが、「きみたち」に託すほど後景にいるわけでもない。戦争のまっただなかにいるわけではないが、戦争が終わった場所にいるわけでもない。

このとき、「召集令状」に対する戦争への召集への、応答としてのその発話は、「あっ」しかないようにも思うのだ。よかった、でも、わるかった、でもない。「あっ」と叫ぶしかない。意味でも非意味でもない。意志でも感情でもない。言葉でもないし、内面でもない。叫びでもない。が、メッセージでもない。独語でも語りでも話でもない。「あっ

この歌に関して島内景二さんがこんな解説をしている。

  歴史的仮名遣いでは、促音の「っ」(小さな「っ」)も「つ」と大きく表記するのが原則。だから、「あっあかねさす」という例外的な表記には、「あっ」と叫ばずにはいられない。破格・破調の大波乱の歌である。
  (島内景二『塚本邦雄の宇宙』)

歴史的仮名遣いで「つ」と表記すべきところを、《わざわざ》「っ」と叫ぶように表記されたという。「あっ」。

この「あっ」の位相は、どこにあるんだろう。というよりも、「あっ」を位置づけられることができるのだろうか。しかし、歴史には、たぶん、おおくの位置づけられなかった「あっ」がある。そして、その「あっ」は「あっ」でしかないのに、ひとの生き死ににおおきく関わっているし、いく。

「あっ」って、なんだろう。戦争、も。

  戦争が廊下の奥に立つてゐたころのわすれがたみなに殺す  塚本邦雄


          (「序数歌集解題」『塚本邦雄の宇宙』思潮社・2005年 所収)

2017年8月20日日曜日

続フシギな短詩166[寺山修司]/柳本々々


  肉屋の鉤なまあたたかく揺るるとききみの心のなかの中国  寺山修司

ときどき短詩のなかの国名について考えることがある。たとえば、

  サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい  穂村弘

という歌があるが、このときの「サバンナ」とはなんだろう、と考えたりする。たとえばそれが〈アフリカ〉だったとしてもこの歌で特徴的なのは、「Xよ聞いてくれ」と呼びかけの形をとっていることである。つまり語り手の「心のなかのアフリカ」ということになる。

この「サバンナの象のうんこ」は、実物の「サバンナの象のうんこ」とはたぶんかすかにずれている。もし目の前にサバンナの象のうんこがあるならば、「サバンナの象のうんこに話しかける」でもいいのだし、そもそも「象のうんこ」でいい。「サバンナ」と特定したのは、「Xよ」と〈遠く離れて〉呼びかけるためだ。しかしその呼びかけは届かない。「私の心のなかのアフリカ」だからだ。つまり、私は・私に「だるいせつないこわいさみしい」と言っている。この「だるいせつないこわいさみしい」といううねりは、〈排泄〉できない。いつまでもわたしのなかに回流しつづける。

  マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや  寺山修司

寺山修司のとても有名な歌だが、「つかのま」が「祖国」と響きあい、「祖国」という言葉の重たさがいったん軽減されている。「つかのま」の「祖国」だ。身を捧げる「祖国」は、「マッチ」を「擦るつかのま」くらいの〈幻想〉でしかないのだが、しかし、「海」に派生した「霧」は「ふか」い。〈幻想〉だが深い奥行きがある。軽減された「祖国」はべつのかたちで、重くなってゆく。

これも、「私の心のなかの祖国」だと思うが、〈心のなか〉をいったん通すことによって、ステレオタイプになりがちな〈国〉のイメージを「心のなか」のステレオタイプとしてあらかじめ引き受けた上で、ずらしている。

穂村さんの「アフリカ」もまたそうなのではないかとおもう。アフリカはステレオタイプになりがちだ。いまだにステレオタイプなアフリカは、ディズニーのジャングルクルーズやひょっとすると『パイレーツ・オブ・カリビアン』で微妙に再生産されているかもしれないが、しかしそうしたステレオタイプな国のイメージをあらかじめ自意識のねじれとして引き受ける(だるいせつないこわいさみしい)。そういう機制としての国の表象の仕方があるのではないか。

  老犬の血の中にさえアフリカは目覚めつつありおはよう、母よ  寺山修司

つまり寺山も穂村さんも両者とも、国を語ろうとしているのではなく、〈国〉というイメージの立ち上げ方を語っているのではないか。〈中にある〉国として。

  行かないと思う中国も天国も  なかはられいこ

川柳において否定語法で語られた「中国」と「天国」。国を語るとしたら、国を語ることの機制を発見しなければならない。国をめぐる短詩をみていると、そんな気がする。国のイメージに、どう、ノイズやスクラッチをしょわせるのか。どう、どう、どう。

  出奔後もまわれ吃りの蓄音機誰か故郷を想わ想わ想わ  寺山修司
  (未発表歌集 月蝕書簡)

          (「テーブルの上の荒野」『寺山修司全歌集』講談社学術文庫・2011年 所収)

2017年8月8日火曜日

続フシギな短詩150[谷川電話]/柳本々々


  終電の連結部分で恋人を異常なぐらいじっくりと見る  谷川電話

谷川電話さんの歌集『恋人不死身説』は穂村弘さんが「天使解析者」という解説を書いている。だから穂村さんのこんな有名な恋人の歌を引用して考えてみてもいいかもしれない。

  恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死  穂村弘

この歌が特徴的なのは、恋人が過剰反復されればされるほど恋人とは無関係の場所にたどりつくということである。これだけ恋人が繰り返され、かつ、「恋人の恋人」「恋人の死」という扇情的で決定的な喪失をめぐる言葉まで入っているのに(恋人に恋人がいたことが発覚する、恋人が死んだことが発覚する)、一首としては恋人とはまったく関係がないのだ。

恋人は横滑りしていく。なぜなら、〈結婚〉をまだしていない〈恋人〉はわたしに恋をするだけでなく、他者にも恋をする潜在的な可能性をつねに秘めているからだ。そして、わたしが恋人に恋をするならば、他者もまたわたしの恋人に恋をする可能性が潜在的に恋人には書き込まれている。恋人はわたしを離れ恋人をつくるかもしれない。

恋人という存在(ことば)は、だから、リスキーだ。穂村さんの歌のいうように、いつでも横滑りする危険をもっている。わたしたちが、恋人ってなんだろう、って考えたときに、それは穏やかな隠喩(メタファー)にならない。A=Bという安心したパッケージングはできずに、A→Bとどこかに横滑りしていく換喩(メトニミー)存在が恋人なのだ。

わたしはそうした恋人の横滑り性を打破しようとしたのがこの電話さんの歌なのではないかと思う。もちろん歌に語られているとおり、「異常」な部分はちょっとあるのだが、でも穂村さんの歌をふまえてこの歌をかんがえたとき、この歌が行おうとしている〈恋人の記号学〉のようなものがあるように思えてならないのだ。

「恋人を異常なぐらいじっくりと見る」。「異常なぐらい」と語り手本人も〈異常さ〉を意識している。たとえば恋人を安心して眺めるとか、眼をみつめあわせるとか、会話しあうとかそういったことではない。「異常なぐらいじっくりと見る」のだ。これは恋人を〈喩え〉に回収させない行為といっていい。それどころか恋人とわたしの関係を逆説的にぎりぎり切り離す行為といってさえいい。

「恋人を異常なぐらいじっくりと見」ているときに、見ている〈わたし〉は恋人にとっての恋人でなくなってしまっているかもしれないのだ。それは「異常」事態なんだから。それでも〈わたし〉は異常なぐらいじっくりと見る。なにかを思ったりもしないし、比喩も差し挟まない。穂村さんの歌は、恋人が他者になっていく大きなレトリックになっていたが、そういう言葉のレトリックに恋人を回収させることもしない。

ここには「異常なぐらいじっくりと見」られる「恋人」と、「異常なぐらいじっくりと見」ている「恋人」がいるだけだ。

でもここにこの歌の恋人の記号学のフレッシュな感じがあるように思う。恋人をいくら隠喩や換喩のレトリックで語っても、しょせんそれは言葉なのだから、恋人は消えてしまう。恋人をほんとうに語るとするなら、恋人をもうどこにもいかせないかたちで、かつ自分自身が〈恋人でなくなりそうなヤバいリスク〉も背負いつつ、「じっくりと見る」しかないのではないか。ただ、ほんとうに、異常なぐらい、じっくりと、見る、こと。

「終電の連結部分」だから、ここは〈終わりの場所〉でありながら〈つづく場所〉でもある。なにかが終わっていて、なにかが続いている。「じっくりと見る」わたしはなにかが終わっていて、なにかが続いている。あす恋人でなくなるかもしれないし、あす恋人でいつづけるかもしれない。いまわたしでなくなってるかもしれないし、いまわたしをつづけているかもしれない。

歌集タイトルは『恋人不死身説』というすごくインパクトのあるタイトルになっている。でも、ほんとうに恋人としての不死を願っていたのは、目の前の恋人とは無関係に、〈わたしが恋人であること〉ではなかっただろうか。あなたの不死を願っていたのではなく、じつはわたしが恋人であることの不死を願っていたのではないか。

誤解を恐れずにいえば、たとえあなたがいなくなっても、めのまえの恋人がたとえいなくなったとしても、わたしが恋人として不死ならばこの説、恋人不死身説は、補完される。《わたしはあなたがいなくなっても恋人でいたい》という恋人説の過激さ。そして、だからこその、、なのだということ。

電話さんは「あとがき」でこう書いていた。

  ぼくは恋人のまま消滅したいのかもしれない。

この歌集は、《ぼく=恋人》という等式で終わった。そしてこの歌集は、〈わたし〉が「恋人」をじっくりと見ることではじまっていた。

実は、恋人というのは〈ひとり〉存在なのではないか。〈ふたり〉ではなくて。そしてそう思えたときに、いや、説を唱え、思おうとしたときに、恋人は「不死身」になる。穂村弘の歌の「恋人の死」は、〈ひとりでも恋人の不死身の詩学〉というたくましさを得て、「恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の不死」になる。

  「お客さまおひとりですか?」「ひとりですこの先ずっとそうかもしれない」  谷川電話

          (「恋人不死身説」『恋人不死身説』書肆侃侃房・2017年 所収)

2017年1月13日金曜日

フシギな短詩75[昔昔亭桃太郎]/柳本々々


  「『働けど働けどなおわが暮らし楽にならざりじっと手をみる』、これをつくったのは誰だ?」「簡単だよ。石川豚木(ぶたぼく)」  昔昔亭桃太郎

落語家の昔昔亭桃太郎の落語「春雨宿」に、宿をさがしながら二人で知能テストをするやりとりがある。そこで出てくるのが上記の問答。男は石川啄木を石川「豚」木と勘違いして答える。たしかに啄木は、豚木にみえることがある。

ここでちょっと考えてみたいのが、誤字/誤記についてだ。よく誤記される短歌に次の歌がある。

  ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり  穂村弘
   (『世界中が夕焼け』新潮社、2012年)

山田航さんとの共著『世界中が夕焼け』において、穂村さんはこの歌の「どらえもん」についてこんなコメントをしている。

  「どらえもん」も、あのドラえもんとはちょっとやっぱり違ってしまっていて、だから、ひらがな表記なんです。春の夜に溶けかけているような「どらえもん」というのかな。……僕の体感では「春の夜」と「嘘」はわりと近しいものなんですね。
   (穂村弘『世界中が夕焼け』同上)

つまり、「どらえもん」には平仮名表記としての〈ちゃんと〉した意味があるということなのだが、それでもたびたび〈ドラえもん〉と誤記されるのもこの歌が背負っている「春の夜」の「なんでもあり」なマジカルな感じとも言える。

この歌は誰かがどこかに書き写すたびに「ドラえもん」と誤記される可能性をずっと背負いつづけているのだが、しかしそれでも正確な表記は「どらえもん」である以上、「どらえもん」と「ドラえもん」の両極に揺れながら往還しつづけることになる。

私はこの歌の〈ふわふわ〉した「春の夜」の感じは、こうしたオーディエンスさえ、煙に巻き込んでいくところにあると思う。誤記という受容のされ方も含めて、オーディエンスをふわふわした「春の夜」の〈ほうけた共同体〉として立ち上げていくのだ。

誤記を介して、あなたは、惚ける/呆ける/ほうける。

つまり、誤記というのは〈ただされる〉ものであるとともに、ひとつの〈意味表現〉をなしてしまうということなのだ。この「嘘つき」をうたう歌は、オーディエンスを〈嘘つき〉にさせてしまう。しかし、それこそが「春の夜」のこの歌の〈本分〉なのではないか。

「ドラえもん」といえば、こんな有名な川柳がある。

  ドラえもんの青を探しにゆきませんか  石田柊馬

私は川柳において何か悩んだり行き詰まったりすることがあるたびに樋口由紀子さんの『川柳×薔薇』をひらくのだが(私は川柳の読み方をこの本で学んだ)、この『川柳×薔薇』ではじめて柊馬さんのこのドラえもん句にふれた。樋口さんの本にはこういう表記で載っていた。

  ドラエもんの青を探しにゆきませんか  石田柊馬

だからこの「ドラエもん」表記でずっと覚えていたのだが、後に柊馬さんの句集で確認したら、「ドラえもん」になっていたので、「ドラえもん」が正しいのかもしれない。しかし、川柳にはひとつの句に対して幾つものバージョンがある場合があるので、もしかしたら最初は「ドラエもん」だったのかもしれない。本当のことは私にはわからないが、ここで言いたいことは、「ドラえもん」という表記は、わたしたちを「春の夜」のように惚けさせる/呆けさせる力があるということだ。誤記によって。

正確な表記を考えているうちに、いったいなにが正解なのかわからなくなってゆく。しかし、それこそ、「春の夜」性であり、「ドラえもん」性ではないか。ほんとうの「正解」なんてないのかもしれない。「ハーブティー」に「ハーブ」が煮えて同語反復していくように。

そして、だからこその「探しにゆきませんか」なのだ。「ドラえもんの青」なんて見つからないかもしれない。わたしたちは誤記の手前でドラえもんに出会いそこね続けるのだから。

でも、同時に、「ドラえもん」は「どらえもん」として「ドラエモン」として殖えつづけていく。わたしたちは、間違いを犯しながら、誤りながら、おびただしい〈ドラえもん〉たちに出会いつづけていく。

誤記とは、なんなのか。

そう言えば、哲学者の西川アサキさんによれば「誤字」について哲学的に考えたのはキルケゴールだと言う。ちゃんと西川さんの本を読んだけれど私の記憶に誤りがあるかもしれないので(私の頭もときどきふわふわしている)、説明はしないで引用文だけ置いておこうと思う。メモ帳には「文句を言う誤字」と書かれている。おもしろそうだ。

  しかし、両立しない可能世界を認める世界観、誤字の世界観とはどのようなものなのか? そもそも「誤字」とはいったい何なのだろうか? 神ではなく、人が著者である時の誤字というのは、要するに意図=計画したのとは違う文字が、なんらかのはずみで残ってしまったというようなものだろう。ここで重要なのが「なんらかのはずみ」だ。……キルケゴールが生んだ「文句を言う誤字」。
  (西川アサキ『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』講談社選書メチエ、2011年)


          (「落語「春雨宿」」『日本の話芸』NHK・2016年11月13日 放送)

2016年11月25日金曜日

フシギな短詩61[新海誠]/柳本々々



  思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを  小野小町

※今回は映画『君の名は。』のネタバレを含みます。

日本文学者の木村朗子さんは新海誠さんの映画『君の名は。』を「時空を超えて結び合う物語」とした上で、「古典文学の世界に馴染みのあるテーマだ」と述べている。

  本作(『君の名は。』)は企画段階では『夢と知りせば(仮) 男女とりかへばや物語』というタイトルだったという。その発想の源には小野小町の夢の逢瀬を歌った次の和歌があった。

   思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを

  恋人を思って眠りについたからであろうか、その恋人が夢に現れて、逢瀬をとげることができた。夢だと知っていたならばあのまま目覚めずにいたかった、という歌である。「思い寝」といって、相手のことを思いながら眠りにつくと夢の時空でその人に逢うことができると古代人は考えていた。
  (木村朗子「古代を橋渡す」『ユリイカ』2016年9月号)

そして木村さんは「夢と知りせば」のあとに付け加えられていた「男女とりかへばや物語」の副題に注目し、「他人の身体に別の魂が入り込むことは、憑依として古代文化が考えてきたことだ。……夢をとおして入れ替わりが起こるというのは、……古典文学の系譜からいかにも自然に導かれるところだ」と述べる。

小野小町の歌では「覚めざらましを」と〈覚めなければよかったのになあ〉と歌われているが、なぜ「覚め」なければよかったのかといえば、「覚め」なければ夢=現実の空間を生きられるからだ。しかし、「覚め」た瞬間から、夢と現実は等価であることをやめ、ズレはじめる。夢は時の彼方にまたたく間に消え去り、現実だけが残る。

  (新海誠の)『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』でも、主人公とヒロインは夢のなかで再会する。しかし夢は夢でしかなく、夢は壊れる。現実には受けいれなければいけない喪失が待つ。それを甘受し、成熟する。 

(飯田一史「新海誠を『ポスト宮崎駿』『ポスト細田守』と呼ぶのは金輪際やめてもらいたい」前掲)

この映画『君の名は。』のタイトルにはなぜ「。」が付いているのかずっと気になっていたのだが、もしかするとこれは〈覚醒〉ととることはできないだろうか。つまり、〈君の名は〉と問いかけつづけた夢=現実のような時空間を生きたふたりの〈入れ替わり〉の物語は、最終的に「。」によって〈中断〉されたことで、「起き」られたことで、終わったのだと。夢とはとつぜん中断されることで、覚めて、終わるものだから。

だから、映画『君の名は。』のラストシーンで記憶を失ったふたりがお互いを一瞬で〈感覚〉しあい、「君の名前は?」とききあい、声が重なり合っておわるシーンは、〈名前を知る〉ことが大事だったのではなく、「君の名は。」と面前ではじめて発話できたことが大事だったのではないかと思うのだ。その句点「。」によってはじめて夢は終わるので。「覚めざらましを」は肯定的に語り直されたのだ。アンチ「覚めざらましを」として。「夢」から覚めたから《こそ》出会えて、お互いに名をきくことができる「現実」もあったのだと。「やっと覚めたね」と。

木村さんは「入れ替わり」のモチーフを述べられていたが、アニメでは〈入れ替わりのモチーフ〉が折々みられる。富野由悠季さんのアニメ『∀ガンダム』もまた「とりかへばや物語」を主要なモチーフとしている。容姿が瓜二つの月の女王ディアナ・キエルと地球の女性キエル・ハイムが入れ替わるという物語が展開されるのだが、誰にも知られずこっそり二人だけで入れ替わることでお互いの境遇を〈それしかない〉かたちで二人は理解しあう。この〈理解〉は非常にフシギなものだ。

なぜなら、わたしの立場における喜びや苦しみはこんなものなのですよ、と相手にコミュニケーションとして伝えるのではなく、ノンバーバルコミュニケーションでまったく言語を介さずに〈そのひとそのものになること〉によって非言語的に・体感として〈理解〉するからだ。

  コミュニケーションとは、二人の人間の間で言葉や手紙や物を交換するだけのことではない。それはまた、非物質的な何か、二つの項以前にある関係でもある。 

(トーマス・ラマール、大崎晴美訳「新海誠のクラウドメディア」前掲)

『君の名は。』でもぜんぜん立場や環境の違うふたりが入れ替わって相手の状況と環境に投げ込まれたように、〈入れ替わり〉というのは非言語で相手を〈理解〉できるたったひとつのアクションなのかもしれない。しかしそれは世界から「名」も忘れられるほどの〈等価交換〉でなければならない。たとえばもしそのひとの入れ替わり中に死んでしまったならば、永久に〈わたしの名〉が失われるような、つまり、世界の住人がだれひとり〈わたし〉を知らないままに〈そのひと〉として死ぬようなそういう絶対等価交換でなくてはならない。たとえば次の句のような。

別のかたちだけど生きてゐますから  小津夜景
(『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂、2016年)

〈入れ替わり〉とは〈そのひとを理解する〉ためだけに〈世界から忘却される経験〉なのではないかと思うのだ。〈わたしの名前〉はそのとき世界から失われる。そして入れ替わった〈そのひとの名〉は〈わたしの名〉ではない。ただ〈入れ替わり〉という運動だけがふたりのことを知っている。

もう夢に逢ふのとおなじだけ眩し  小津夜景
(前掲)

「夢」という装置は入れ替わりにもってこいなのだが、もしかしたら「夢」の空間では、言語を介さない〈理解〉のやり方がたえず行われているのかもしれない。「喋る」のではなく「光る」。それだけで相手が〈あなた〉のことを「理解」できる。世界から忘却されたふたりだけれど、お互いは、光っているから、その〈運動〉によって、それとなく、わかる。わかってしまう。わかってしまった。だから、問いかけた。「君の名は。」

  夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう  穂村弘



          (「古代を橋渡す」『ユリイカ』2016年9月 所収)




2016年10月25日火曜日

フシギな短詩52[村上春樹]/柳本々々



  「ご存じでしょうか。私の好きな短歌にこういうものがあります。『白鳥は哀しからずや/空の青/海のあをにも染まずただよふ』、なんという美しい短歌でしょう、岡田さん」  村上春樹
村上春樹に「青が消える(Losing Blue)」(1992年)という短編がある。「アイロンをかけているときに、青が消えた。」の一文ではじまり、どんどん世界から青色が消滅していく物語だ。物語の時間は「1999年の大晦日の夜」の「二十世紀最後の夜」に設定されている。だからこの短編が掲載された1992年の時点からすれば〈ちょっとした未来〉だ。

青色が好きだった「僕」は「青の消滅」していくなかで公衆電話から「内閣総理府広報室」に電話をかける。NECが新しく作り上げた「コンピューター・システム」としての「総理大臣」が出て「総理大臣」は「僕」に若山牧水の短歌を引用しながら答えてくれる。

  「青はまことに美しい色であります、岡田さん」と総理大臣の声が静かに言った。「ご存じでしょうか。私の好きな短歌にこういうものがあります。『白鳥は哀しからずや/空の青/海のあをにも染まずただよふ』、なんという美しい短歌でしょう、岡田さん」 
  「ねえ総理大臣、青がなくなってしまったんですよ」と僕は電話に向けて怒鳴った。 
  「かたちのあるものは必ずなくなるのです、岡田さん」と総理大臣は言い聞かせるように僕に言った。「それが歴史なのですよ、岡田さん。好き嫌いに関係なく歴史は進むのです」
    
(村上春樹「青が消える(Losing Blue)」『村上春樹全作品1990~2000①』2002年、講談社)

この物語では「青」をめぐる事柄が「政治」や「歴史」をめぐる〈大きな物語〉として語られる。「青はいったいどうしたんですか?」と「僕」が「白い駅員」に問いかけても「駅員」は「政治のことは私に聞かないでください」と「僕」をつっぱねる。「僕」は「青」が大好き(僕の〈小さな物語〉)なのに、牧水の歌の「白鳥」=〈小さな物語〉のようにその「青」=〈大きな物語(空の青/海のあを=世界の青)〉から排除されている(「総理大臣」が「私の好きな/美しい短歌」として「好き」「美しい」という〈小さな物語〉の枠組みで「青の消滅」=〈大きな物語〉を語ろうとしていることに注意したい。「総理大臣」とは〈小さな物語〉を〈大きな物語〉にすり替える人間なのかもしれない)。

短歌においてはちょっと不思議な〈色の系譜〉のようなものがある。思いつく限りで任意に引用してみよう。

  赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書  穂村弘
   (『ラインマーカーズ』小学館、2003年)

  緑でも赤でも黄色でも茶色でも青でも黒でもない鬼  伊舎堂仁
   (『新鋭短歌シリーズ18 トントングラム』書肆侃侃房、2014年)

 赤青黄緑橙茶紫桃黒柳徹子の部屋着  木下龍也
   (『きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房、2016年)

〈大きな物語〉である「聖書」は「ラインマーカー」のカラーによって個人にとって「きらきら」した〈小さな物語〉に〈解析〉される。どのような色からもはじき出された「鬼」は〈大きな物語〉にも〈小さな物語〉にも回収されず「鬼」としてたたずむ。毒々しい極彩色の「徹子」の部屋着は、「徹子」がみずから主体的に選び取った〈小さな物語〉としての「部屋着」というよりは、「徹子」が非主体的・超越的に「部屋着」を選び取らされているような〈大きな主体〉を感じさせる。

牧水の〈色をめぐる歌〉を〈大きな物語=空の青/海のあを〉に排除されてある〈小さな物語=白鳥〉と春樹の短編に沿って読んでみるならば、〈色の短歌〉とはそうした〈大きな物語〉と〈小さな物語〉がせめぎあう構造的葛藤の場として読むことができるかもしれない(そこからなぜ村上春樹『ノルウェイの森』の「緑」は「緑」だったのかも考えることができるかもしれない。「緑」の言葉を思い出そう。「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょ?」)。

その意味では、短歌になぜ〈きらきら〉や〈光〉が頻出するのかもちょっと考えてみたいところだ。

  キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる  佐藤りえ
  (『フラジャイル』風媒舎、2003年)

  秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは  堂園昌彦
   (『やがて秋茄子へと到る』港の人、2013年)

〈きらきら〉や〈光〉とは色に還元することができない〈なにか〉だからだ。それは個人的に現出した〈きらきら〉だが、どこか超越性も同時に感じさせている。これら二首が「キラキラ」や「光」と共に「撃たれて」「死ぬ」という〈大きな力〉を感じさせながらも、「終電」「秋茄子を両手に乗せて」という〈小さな物語〉をそこに布置していくことも興味深い。そういう〈小さな物語〉と〈大きな物語〉がぶつかり合いスパークした場所に〈きらきら/光〉はある。

〈大きな物語〉と〈小さな物語〉のはざまを「染まずただよふ」こと。色(カラー)を意識してしまった人間はその色彩的実存を引き受けることになる。多くの村上春樹の主人公「僕」がそうであるように青が消滅していく世界の「僕」もまた「わけのわからないままどこまでも通りを歩い」ていく。

「わけのわからない」状態は、〈大きな物語〉にも〈小さな物語〉にも回収されず「染まずただよふ」ことだ。言わば「やれやれ」的主体。「やがて町中の時計が十二時を打っ」て世界は2000年に踏み込んでいく。「みんな」は「一斉に歓声をあげ、歌を歌ったり、物を投げたり、抱き合ったり、シャンパンを抜いたりした。新しいミレニアムがやってきたのだ。誰も消えた青のことなんか気にしてはいなかった」。

  《でも青がないんだ》、と僕は小さな声で言った。《そしてそれは僕が好きな色だったのだ》。
         
 (「青が消える(Losing Blue)」『村上春樹全作品1990~2000①』講談社・2002年 所収)

2016年9月27日火曜日

フシギな短詩44[穂村弘]/柳本々々


  
夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう  穂村弘



たとえばパソコンでもスマホでもいいのだけれど、光る液晶画面に向かって誰かとやりとりしているときに、ふいにこの穂村さんの短歌を思い出す。今や「光ることと喋ることはおなじこと」なのは、「夢の中」だけでなく、〈現実の日常生活〉においてもありふれた事態なのではないか、と。
もちろんこの歌はメディアを詠んだ歌ではない。「夢」の中における「光ること」と「喋ること」というまったく違った次元が同一化されるような夢の魔術的な作用が詠まれた歌だ。そこでは「光ること」と「喋ること」は「おなじ」であり、さらにそうした行為と行為の距離感のゼロ性は、〈わたし〉と〈あなた〉の距離感のゼロ性につながっている。つまり「お会いしましょう」と。あなたがどれだけわたしから遠く隔たっていても、わたしはあなたに「会」うことができる。「夢の中では」。


しかし一方で、こうも思う。それはまったく現在のメディア環境そのものではないかと。スマホのLINEでも、ツイッターのダイレクトメールでもなんでもよい。通知がきて画面が光り、打ち込んで話す。距離はゼロ化され、相手は手元に〈現前〉する。メディアを通したたえざる「お会いしましょう」。
考えてみれば、この歌が収められていた歌集タイトルは『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』。手紙というツールを送り手から受け手へとメッセージを運ぶためのメディアだと考えるならば、「手紙魔」とは〈メディア魔〉のことでもある。メディア魔術師からメディア魔への「手紙」としての歌集(ちなみに「歌集」もある意味ではメディアだろう)。

今回の記事の一行目に書くべきだった一文を今書いてみよう。

《もしかしたら穂村さんの短歌は、メディアの魔術(マジック)をうたっているんじゃないかと思うことがある。》

たとえば穂村さんのよく引用される初期の歌。

  サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい  穂村弘

  体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ  〃
  
 (『シンジケート』沖積舎、2006年)

この歌をメディアの歌と考えてみよう。

語り手は「サバンナの象のうんこ」をメディアととらえることではじめて「聞いてくれ」という欲望が生じ、「だるいせつないこわいさみしい」と発信することができた。しかしメディアとしての「うんこ」は受信はしてくれるかもしれないが、それをどこにも送信してはくれない。「だるいせつないこわいさみしい」はこの世界でもしかしたらいちばんアナログなメディア「うんこ」のなかに留まり続ける。

歌のなかの〈おまえ〉は「体温計」をメディアとすることで、「雪だ(ゆきだ)」を「ゆひら」と〈屈折=屈光〉して発信することができた。そのことによってそこには言葉の潜在的屈折性が生まれる。「体温計」をくわえれば、音を介して《違った》言葉が呼び出される。「う・い・あ」という母音=母型(マトリックス)から、「すきだ(好きだ)」という潜在的な言葉も呼び寄せるに違いない。言葉の可塑性をもたらす「体温計」というメディア。

複数形であるメディアにはそもそも単数形のメディウムという霊媒的な意味がある。考えてみれば、定型も不可思議な言葉の可塑性を生み出す点で霊媒的なメディアと考えることもできるかもしれない。

実際、霊的なメディアを詠んだ歌としては穂村さんのこんな歌があげられるだろう。

  まなざしも言葉も溶けた闇のなかはずれし受話器高く鳴り出す  穂村弘
  
 (『シンジケート』前掲)

受話器が外されているのにそれでも鳴る電話。メディアは、生きている。

メディアの作用は夢の作用であり、定型の作用でもある。ときにそれは「光」=〈あなた〉の〈現前〉というゼロ距離をもたらし、またあるときは「象のうんこ」のように言葉のデッドエンドをもたらし、そしてあるときは「体温計」のように言葉の屈光性を生じさせる。言葉は加速し、減速し、変速する。「夢(メディア)の中では」。

はしゃぎながら、またがりながら、回遊しつづけるメディアに乗ったままわたしたちは生きて・死んでいく。ひとつ言えることは、そのまま「はしゃいで」いたければ、そのメディアの〈顔〉を決して見てはいけないということだ。メディアが《生きていること》に気が付いてしまうこと。それはメディアがあなたを直視していることに気づいてしまう瞬間でもあるのだ。メディアの魔術師が、そう言っている。

  はしゃいでもかまわないけどまたがった木馬の顔をみてはいけない  穂村弘

   (『シンジケート』前掲)



 (「手紙魔まみ、ウエイトレス魂」『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』小学館・2001年 所収)


2016年5月10日火曜日

フシギな短詩16[中澤系]/柳本々々




理解したような気がした 理解したような気がした、ような気がした  中澤系

ときどき、中澤系さんにとって〈理解〉とはなんだったのだろうと考えている。中澤さんには〈理解〉をめぐるとても有名な歌がある。

  3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって  中澤系

穂村弘さんがこの歌に対してこんな〈理解〉をめぐる解説をしている。

 今、それが「理解できる人」であっても、進化や変化や崩壊を無限に繰り返す世界のルールを永遠に理解し続けることはできない。どこかで必ずついていけなくなる日がくる。誰もが未来のどこかの地点で、世界から「理解できない人は」と告げられることになる。「下がって」と。
  (「未来の声」『中澤系歌集 uta0001.txt』双風舎・2015年 所収)

穂村さんの解説を敷衍して私なりに言葉にしてみれば、中澤系さんにとって〈理解〉とは言葉の受け手が〈枝分かれ〉するものであったのではないだろうか。

たとえば「快速電車が通過しますお下がりください」はその言葉の受容者を一枚岩にするものだ。そのときひとりひとりは〈みんな〉になって「お下がり」するだろう。だれも・なにも・疑わずに。

ところがそこに「理解」という、言葉の受け手にとって〈理解の仕方〉に差異がでる言葉の場合は、シーンが変わってくる。理解できるひとも出てくれば、理解できないひとも出てくる。穂村さんが書いたように、きょう理解できても、あした理解できないひともいるだろう。もちろん、きょう理解できなくて、あした理解してしまうひともいるかもしれない。

ともかく〈理解〉によって状況は〈偶有〉的になるのだ。つまり、わたしたちは、そのつど〈たまたま〉「お下がり」している者たちに過ぎないと。そしてもっといえば、きょうわたしたちは〈たまたま〉いまここにいてみずからの存在を〈たまたま〉受け止めているにすぎないんだと。

だとしたら、わたしたちは〈理解〉という言葉そのものを《理解》することが困難なのではないだろうか。〈理解〉したと思っても、それは次のしゅんかんには〈食い違って〉いるかもしれない。幻想かもしれない。錯覚かもしれない。

だから初めに掲げた歌にわたしたちは戻ってくる。

  理解したような気がした 理解したような気がした、ような気がした  中澤系

理解に〈終わり〉はない。「理解」という言葉を提出したしゅんかん、わたしたちは〈果て〉のない〈平坦な戦場〉を生き延びてゆかねばならないことを自覚する。いや、させられてしまうのだ。「理解」という発話そのものから。

  理解とはなにかぼくにはわからないわからないことだけわかるけど  中澤系

加藤治郎さんは中澤さんの歌集のモチーフをこんなふうに指摘していた。

 「終わらない」ことは、この歌集のモチーフであった。
  (「uta のために」前掲)

わたしたちは、たぶん、「理解」を「理解」しあえない。

でもそこから、もういちど、始めてみたい。また終わるために。

          (「Ⅰ 糖衣(シュガーコート)1998 1999」『中澤系歌集 uta0001.txt』双風舎・2015年 所収)