-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年9月23日土曜日
超不思議な短詩228[ドラゴンクエスト]/柳本々々
ぎこそざだ とてつちにひふ へねてとだ ぢりび ふっかつのじゅもん「ドラゴンクエスト」
現在ゲームはオートセーブ機能があって突然アプリが終了してしまってもゲームが勝手に事前にセーブしてくれていたところから進めることができる。だから何かの事態が起きてもそこまで頭をかかえて膝をついて苦悩することはないのだが、『ファイナルファンタジー』発売の1987年までセーブは画面に映し出されたパスワードを紙に書き取り、再度プレイするときは、その紙のパスワードを打ち込んで始めていた。だからそのパスワードの書き取りが間違えると、すべてのそれまでの冒険データは消えることになる。このパスワードは、遊び手の前に立ちふさがる「画面外の“敵”」とまで呼ばれた。
『ドラゴンクエストⅠ』『Ⅱ』では、セーブの代わりにパスワードを入力する方式だった。「じ」と「ぢ」や「ぬ」と「ね」を間違えて、苦難の結晶である冒険の記録がパーになる。ああ、悪夢!
(『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』)
『ドラゴンクエスト』(1986)のパスワードは意味不明な言葉の羅列が「ふっかつのじゅもん」と呼ばれていたのだが、意味不明な羅列のため、書き取り間違いを起こしやすかった(入力が違うと「じゅもんが ちがいます」と無情なテロップが出る)。ただ意味不明だけでなく、実はこの「ふっかつのじゅもん」は《定型》もそれとなく取り入れていた。
バックアップメモリなどがなかった時代、データを保存するために考えられたのが復活の呪文。単なる進行度のパスワードではなく呪文の中に経験値などのでーを含むというアイデアが秀逸であった。五・七・五・三の韻を踏んだ日本的なリズムも味がある。しかし、所詮はデータ、無意味な音の羅列にドラマが生まれる。…夢中でメモした紙が会社の重要書類や保険証だったり。
(同上)
意味不明なじゅもんの羅列であったとしても、かすかな〈ユーザーフレンドリー〉としての 「五・七・五・三」の定型意識。当時の『ドラゴンクエスト』のプレイヤーたちは、ゲームをプレイしながら、中断するたびに、〈定型詩〉を紙に書き記していたとも言える。そしてその定型詩は世界にアクセスするためのものであったのだが、その書記行為の精度によっては、二度と世界へアクセスできなくなってしまう。
こうした書記行為と世界のリンク/アクセスをずっと短歌で考えていたのが荻原裕幸さんだったのではないかと思う。
『ドラゴンクエスト』発売翌年の1987年に荻原さんは短歌研究新人賞を受賞しているが、荻原さんの短歌には「ふっかつのじゅもん」のような書記行為と世界がリンクする歌が出てくる。
90年代後半の歌になるが
歌、卵、ル、虹、凩、好きな字を拾ひ書きして世界が欠ける 荻原裕幸
(『デジタル・ビスケット』)
「好きな字」という〈自由な書記行為〉(書取の逸脱)が〈世界(データ)の喪失〉に結びつくこと。「ふっかつのじゅもん」のように書記のあり方がデータ=世界が消えることに結びつく。
あえてゲーム文化を枠組みに読んでみると、書記行為と世界のリンクの風景がみえてくる。
92年の歌集『あるまじろん』は書記行為/文字意識への問いかけをめぐる歌が多いのだが、
だだQQQミタイデ変ダ★★ケレド☆?夜ハQ&コンナ感ジダ 荻原裕幸
などは80年代後期のファミコンのバグ画面の質感、読みとれそうなメッセージがバグによってノイズ入りまくりになってしまう〈読みとりぎりぎりの文章〉になっていく、詩的バグの風景を想起させる。
こうしたバグはカセット方式からCD読みとり方式に変わった94年のプレイステーション発売によってなくなっていくのだが、それと共にまた書式意識の仕方も変化していく部分もあるかもしれない。
ときどき思うのだけれど、わたしたちの書記意識を支えているものはなんなのだろう。わたしたちが眼にする文字量は、本よりも、ネットの文字データのほうが、ブログのほうが、ゲームのテキストのほうが、テレビのテロップのほうが、LINEの書き込みのほうが、多くないだろうか。
だとしたら、わたしたちの書記意識を支えているものは、なんなのだろう。書記意識というと、すぐに本や書物といった規範になりそうなのだけれど、日常的にフローに流れているメディアのなかに実は書記意識があったりしないだろうか。
日本語が日本語になるまでの「数秒」の非日本語意識は、いつも・いま・どこに、あるんだろう。
春の夜のラジオの奇声を日本語と識別できるまでの数秒 荻原裕幸
(『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』宝島社・2010年 所収)
2017年9月19日火曜日
超不思議な短詩224[芝村裕吏]/柳本々々
ゲームって、究極的に言えば、絵を描くというか、写生の一つなんです。 芝村裕吏
去年、ながや宏高さんとお話したときに、ながやさんが短歌=定型詩とゲームの関係について話されていて、そうかあ、ゲームの箱庭的な部分と定型詩と
いうのは似ているのかもしれないなあと思った覚えがある。
たとえば定型をハード=ゲーム機として考えてみよう。そしてその定型にセットするソフトを短歌、俳句、川柳と考えてみよう。定型(ハード)のスペックや容量は決まっているのだが、そこにセットされるソフトによって、さまざまにプレイ(読み)は変わってくる。
ゲーム・デザイナーの芝村裕吏さんは、ゲームは「写生」だと言う。ある現実や日常の一瞬を切り取る。その切り取られたものが世界観になり、ミクロなグランドデザインになる。
ゲームって、究極的に言えば、絵を描くというか、写生の一つなんです。現実の一部を切り取って、それを描くことがゲームデザインだと思うんですよね。何かの瞬間とか現実の一部、あるいはファンタジーでもなんでもいいんですけど、その一部を切り取れるかどうか。その切り取り方によって、ゲームデザインが変わる。人によっては、格闘してるところを切り取って提示する。格闘ゲームは、まさにそうですよね。
(芝村裕吏『ゲームの流儀』)
ある切り取られたミクロな現実が、マクロな世界そのものとなる。たしかにそう言われてみると、格闘ゲームは奇妙な世界で、たとえば『ストリートファイターⅡ』を例にとってもいいが、〈格闘しかしていない〉のだ。そこには〈成長〉もなければ、〈ストーリー〉もほぼない。ただし、現実世界から切り取られた〈格闘だけの世界〉が、象徴的にマクロな世界を提示し、象徴し、代替する。
ここで大事なのが、ゲームにはハードの機能、ソフトのコンテンツにもうひとつ大事な関数が関わることだ。それは、プレイヤーの経験値としてのストーリーである。たとえばマリオをはじめてプレイしたとしよう。最初はクリアできなかったステージも、何度も死にながら何回も同じところをプレイしているうちにプレイヤーの経験値がたまってゆき、そのステージをクリアできるようになる。マリオ自体には、ただ複数のうちのひとつのステージをクリアしたというストーリーしかないが、プレイヤーのなかではどうしてもクリアできなかったなんどもなんども死んだステージをクリアできたというプレイヤーの経験値としてのストーリーが生まれる。
つまり、ゲームのストーリーは、ゲーム本編のストーリーと、プレイヤーが経験値のなかで育んでいくストーリーがある。
ゲームにはプレイヤーの経験値をめぐるストーリーがあるように、定型詩にもプレイヤーの経験値をめぐるストーリーがあるのではないだろうか。たとえばここまではわかるがここからはわからない。でも何度もプレイしていると突然クリアできるステージがあるように何年かたったあとにふいに〈わかってしまう〉ことがある。でもわからないひともいるので、そこからは〈難解〉かどうかの境界線がひかれていく。クリアできるひととできないひと、難解かどうか、の境界線がおのおので生まれていく。でもそうしたクリア可/不可の複数の境界線もひっくるめながらゲーム/定型詩のジャンルがつくられていく。
「ゼビウス」という名作ゲームをうんだ遠藤雅伸さんがこんなふうに述べている。
良いゲームの条件として、難易度調整は一番大事だと思います。どんなクソゲーでも上手く難易度調整してやれば、そこそこ遊べるはずなんですよ。その辺を上手くやらないから、どんなにすごいゲームを作ってもクソゲーだって言われてしまうんですよ。
(遠藤雅伸『ゲームの流儀』)
この「難易度調整」というのは定型詩にも関わっているように思う。どこらへんに「難易度」を「調整」するのか。あまりに難易度が高すぎると「無理ゲー」がうまれてくる。ただときどき「無理ゲー」や「クソゲー」からそれまでのジャンルの世界観を更新するような(『デスクリムゾン』や『たけしの挑戦状』のような)ソフトが生まれることもある。
ゲームというのはプレイする人間の、プレイヤーの経験の質感(成功体験・失敗体験の微妙なバランス、プレイヤーをいかに成功させ・失敗させるか)をとてもよく考えられながらつくられるが、定型詩にもそうした〈読みの質感〉〈読みの経験値〉がどうなるかを微細に考えながらつくられるところがあるのではないだろうか。
そもそも、僕が初期のファミコンのゲームソフトに感じた魅惑の核心は、現実世界の惰性的に際限ない拡がりを、ゲームソフトの「狭いなりに広い緊張した世界」へと切り詰められるということだったと思う。
(千葉雅也『別のしかたで』)
定められた(少ない)容量のなかでプレイヤー(読み手)のプレイを考えながら工夫しつづけること。
ファミコンは、パソコンと考え方の違うハードだし、何しろ動かし方も違うし、容量もパソコンに比べていきなり小さい。色数も少なければ、プログラムはアセンブラ。ゲームもシューティングとアクションばかりでしたから。
『ドラゴンクエスト』が出たときに衝撃を受けましたよ。「ふっかつのじゅもん」という形でセーブもできて、きっちりとしたRPGになっていたから。「工夫さえすれば、ファミコンでもRPGができるんだ」って。『ドラゴンクエスト』がきっかけで『FF』を作ろうと思ったんです。
「もう大学を八年間も留年してるし、ファミコンの3Dゲームも上手くいかないし、次のゲームがダメだったら大学に戻ろう」と思ってました。それで『ファイナルファンタジー』というタイトルに。
当初は『ファイティングファンタジー』という案もありましたけど、「自分自身のファイナルなゲームにしよう」と思っていたんですね。「これでゲームの仕事は終わりになるかもしれないけど、頑張ろう」って。
(坂口博信『ゲームの流儀』)
仮の思考実験として7世紀『万葉集』の万葉人や9世紀『古今和歌集』の歌人を、1899年寝たきりの正岡子規を、ゲーム・クリエイター=ゲーム・プレイヤーとして想像してみること。
意外なことかもしれないけど、ゲームと定型詩はよく似ているように、思う。
プレイヤーは難しいゲームを好みます。プレイヤーは失敗が好き。だけど大好きではない。ゲームに気持ちよく没頭できる「フロー」と呼ばれる魅力的な心理状態にプレイヤーを引き込むのはこのようなバランスだと言われます。
(ユール『しかめっ面にさせるゲームは成功する』)
あえて言い換えてみよう。
読み手は難しい定型詩を好みます。読み手は失敗が好き。だけど大好きではない。定型詩に気持ちよく没頭できる「フロー」と呼ばれる魅力的な心理状態に読み手を引き込むのはこのようなバランスだと言われます。
(ユール(偽)『しかめっ面にさせる定型詩は成功する』)
(『ゲームの流儀』太田出版・2012年 所収)
2017年9月17日日曜日
超不思議な短詩223[さやわか]/柳本々々
コンピュータゲームとはもっとも素朴な形に還元すると「入力すると反応がある」ということである。 さやわか
ゲームと俳句の話が続いているのでせっかくなのでもう少し冒険して続けてみようと思う。さやわかさんがゲームの本質について次のように語っている。
ゲームの本質。コンピュータゲームとはもっとも素朴な形に還元すると「入力すると反応がある」ということである。それはAボタンを押すとマリオがジャンプするということだったり、エンターキーを押すと次の画面が表示されることだったりする。我々はしばしばモニタの前で、どうしても選びきれない選択肢を選ぶ羽目になる。その時も、ボタンはいつも通りに軽いし、ボタンそれ自体は画面内で展開されているいかなる物語やキャラクターとも関連がない。重要な選択であっても実際に行うのはエンターキーを押すか否か、「する/しない」という些細な選択なのだ。たったそれだけのことにすべてを左右させることで、スリルと不安を喚起する。選択自体には意味がないが、しかしその行動が世界を改変してしまう。
(さやわか「ゲームのように」『ユリイカ臨時増刊 涼宮ハルヒのユリイカ』)
ここでさやさんが言っているのはたぶんこのようなことだと思う。ゲームというのは、非常にシンプルな行為、入力すると反応があるという行為が、世界をつくりあげ変えていく行為なんだと。
前回、フローな俳句として鴇田智哉さんの俳句をあげたが、ときどき、鴇田さんの句集を読みながら、任天堂のアクションゲーム『スーパーマリオブラザーズ』に近いんじゃないかと思ったりしたことがあった。これはさやさんで引用したような、シンプルな入力が、世界への触知とつながっている感覚と思ってもらえばいいと思う。たとえば、
水面ふたつ越えて高きにのぼりけり 鴇田智哉
(『句集 凧と円柱』)
あえてマリオっぽい句を選んでみたのだが、〈水面をふたつ越えて高いところにのぼった〉というのはふつうなら「それがいったいなんなんだ」的なところがあるが、もしこれがマリオが読んだ句だったら、どうだろう。水面をふたつ越えて・高いところにのぼったなら、ステージ=世界を攻略してゆく喜びがある(プレイヤーも同様にその喜びを感受する)。マリオにとっては、こうした原始的で・シンプルな行為が、至上の意味をもつ(マリオ=プレイヤーにとってすべての価値観はステージを前進することなのだから)。
ちなみにこの句集のタイトルは、『凧と円柱』で、高い場所やポールのような突端が気にされているのだが、そうした〈高い場所〉や〈とがったもの〉への至高もマリオ的である(土管、城のポール、キノコ)。
春めくと枝にあたってから気づく 鴇田智哉
この世界では突端に触れる、というただそれだけの行為が「春」に気づくという世界そのもののベースへの触知につながっている。これはマリオがクリボーに触れて命を失ったり(触れることが世界の終わり)、キノコに触れる(食べる)ことで身体を巨大化させたり(世界の視野の改変)することにも似ている。
こんな句もみてみたい。
近い日傘と遠い日傘とちかちかす 鴇田智哉
遠近に「ちかちか」と視覚的なデジタル・ノイズが入ってくる風景。これなども処理落ちのマリオのステージのようなノイズ的風景を想起することができる。
裏側を人々のゆく枇杷の花 鴇田智哉
断面があらはれてきて冬に入る 〃
世界の「裏側」や「断面」の意識。マリオ3では、↓ボタンを押しっぱなしにすることでステージの裏側にすとんと落ちることができる裏技とは言えないまでも小技があったが、あるいはさいきんのペーパーマリオではステージを3Dで断面的に見ることが可能になったが、「裏側」や「断面」はゲームの世界(ステージ)では、たびたび〈世界の果て〉として出会うことでもある。
鴇田さんの俳句がゲーム的世界観に支えられているというつもりはないのだが、さやさんが述べたようなゲームの本質、シンプルな入力が世界の原理につながっていく感じは、鴇田さんの俳句の風景によく似通っているのではないかと思う(というかそういう思いがけない枠組みを導入すると鴇田さんの俳句はぐっと理解しやすくなったりするのではないだろうか)。
小津夜景さんの句集『フラワーズ・カンフー』を読んでいて、或いは関悦史さんの俳句を読んでいて思うのは、俳句がB級的な要素をそれとなく密輸しながら成立してきていることだ。そのB級的要素とはなんだろう、と時々考えるのだが、たとえばそれはこうしたゲーム的世界観との思いがけないリンクと言うこともできないだろうか。
たとえば、小津夜景さんは関悦史さんとのトークで、
ぷろぺらのぷるんぷるんと花の宵 小津夜景
は自分がはじめて俳句をつくったと実感することができた《写生句》だと述べたが(たしか夜景さんは海辺で吟行していたときにできた句だと言ったような気がする、ぼんやりだが)、「ぷるんぷるん」している「ぷろぺら」もゲームのCG世界ではごくまっとうなゲーム的リアリズムとしてあらわれそうではある(例えば私ならプレイステーションソフト『クーロンズ・ゲート』を想起する)。
関さんのこんなリアリズムとゲーム的リアリズムが融合する句。
牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服 関悦史
現実のリアリズム的世界では非常識なことが、ゲーム的リアリズムの世界では、なんのためらいもなくまっとうで・ノーマルなことがある。
蝉の死にぱちんぱちんと星が出る 鴇田智哉
(「ゲームのように」『ユリイカ臨時増刊 涼宮ハルヒのユリイカ』2011年7月 所収)
超不思議な短詩222[阿部公彦]/柳本々々
おもしろいのは、ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』のような作品を読んだ人なら覚えているあの脱力感覚と、日本的な俳句の精神のまじり具合である 阿部公彦
70年代はマンガ『巨人の星』の「スポ根劇画」に代表されるようなハードな汗と涙と闘いのエネルギッシュな60年代が終わり、女性誌『an・an』や『non・no』の創刊、マクドナルド、ミスタードーナツ、サーティワンといったファーストフードの日本の開店など、キャラクターやファンシービジネスが始まってゆく時代という言われ方をされることがあるが(前に取り上げた攝津幸彦はその70年代に二十代を過ごしていた)、その70年代半ば、1976年にアメリカの作家リチャード・ブローティガンは東京に一ヶ月半滞在し、『東京日記』という詩を書いた。
阿部公彦さんは「解説」でこんなふうに書いている。
「東京日記」の多くの作品は、俳句に触発された語り口になっている。俳句ならではの唐突さや切断感は、はじめて訪れる東京で足場のないまま、さまざまな“瞬間”をあやうく渡り歩いていた詩人にとって、まさにぴったりの装置を提供してくれたのだろう。
おもしろいのは、ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』のような作品を読んだ人なら覚えているあの脱力感覚と、日本的な俳句の精神のまじり具合である。切断や転換、接合などによって生み出される俳句特有の凝縮した緊張感を支えているのがある種の“拮抗”だと考えれば、これに対してブローティガンで目立つのは、拡散と散逸の気分でもある。主旋律は緊張よりも弛緩であり、興奮や熱気よりも冷却となぐさめが言葉を生み出していく。
(阿部公彦「解説」『東京日記』)
瞬間を渡り歩く装置として「俳句の精神」を使いながらも、その瞬間は凝縮されるよりも「拡散と散逸」を伴っていく。「日常を鋭く切り取り緊張」というよりは、「緊張と驚きと空虚さをゆったり流してくれるやさしさ」の方に傾いていく。
俳句的な装いをまとう本書の短詩は、実際には、俳句的なキャプチャの身振りをほどき、流し、平凡化・日常化する。平凡であるとは何と難しいことだろう。際だたず、とがらず、立ち止まらない。
(阿部公彦、同上)
〈平凡さ〉というフローのなかに身を置くこと。
テレビの
日本の子どもたちの番組を見て
ぼくはこの三十分間をすごした
ここ東京には何百万ものぼくたちがいる
ぼくたちは自分の好きなものがわかっている
(ブローティガン「日本の子どもたち」『東京日記』)
日本の「テレビ」を「三十間」見ている時間が〈わたし〉の個を際だたせることなく、「何百万ものぼくたち」に拡散・散逸していく。「ぼくは自分の好きなものがわかっている」ではなく、「ぼくたちは自分の好きなものがわかっている」というひどく曖昧な流れるような言い方。〈見る〉という行為が〈わたしたちの見る〉につながり、〈何百万もの見る〉とともにフローな個の流れとしてうかびあがってくる。
この不思議な短詩では何度か取り上げている句だが、こんな俳句がある。
毛布から白いテレビを見てゐたり 鴇田智哉
毛布から白いテレビを見ているのだが、この助動詞「たり」を完了(~した)ではなく、存続(ある時点からずーっと~している)の意味合いでとった場合、語り手は、ずーっと白いテレビを見ているなかに身をおいていることになる。ずーっと語り手は毛布から白いテレビを見ている。そのときこの「たり」は神秘化していく。毛布から白いテレビをずーっと見ている風景は死後の景にも近いからだ。
その「死後の景」を誘導するのが「毛布」と「白いテレビ」の組み合わせである。たとえばこのテレビが〈白い画面〉だった場合、テレビを見ていながら・同時に・テレビをなんにも見ていないということになる。この句は突き詰めれば・突き詰めるほど〈見ること〉の危機的な様相が浮かび上がり、〈見ること・見ないこと〉を通して死者も含めた〈何百万もの見るぼくたち〉が現れる。
この俳句にもブローティガンの詩にあるようなフローな感覚が見いだされうるように思う(ちなみにフローという概念はよくゲームを論じた本を読んでいると出てくるゲームのプレイヤーを考えるときのキーワードになっている。たとえばマリオをプレイしているとき、あなたはあなたがあなたでありつつも没入していく感覚を経験していないだろうか。ゲームをプレイしながら、個でありつつも・個を没入させていく感覚。俳句とゲームの親和性)。現在の俳句は、瞬間的な切り取りではなく、フローな感覚に敏感になっている。フローな俳句としてはこんな印象的な俳句もあげられる。
息のある方へ動いている流氷 田島健一
(『句集 ただならぬぽ』)
この田島さんの句にも鴇田さんの神秘的な「たり」に通じるような神秘的な存続の助動詞「ている」がある。70年代アメリカの労働者階級の〈どこにもゆけなさ〉を描いた小説家にレイモンド・カーヴァーがいる。ただカーヴァーが特徴的だったのは、労働者階級のミドルクラスの生活をミニマルに描きながらも、それが〈外〉に神秘的に抜けていってしまう点だった。どこにもゆけなさのなかで神秘性があらわれる。
カーヴァーのマジックは、貧困を含めた、ありとあらゆるものを、無意味化、身体化する、そのミニマリズムのスタイルにある。そのスタイルの特徴は、既存のリアリズムにあるような社会的、政治的文脈を無視し、まるでそこに社会など存在しないかのように、身体化された世界だけを描くことにある。言ってみれば、カーヴァーの作品は、アメリカ合衆国の話ではない。それは、合衆国のなかのどこかの街の話であるが、カーヴァーの作品世界は、その街を描くことで成立していて、そこに街よりも大きなもの、大きな社会、合衆国は存在しないのだから。ミニマリズムとは、自分の周囲十メートルの話なのである。カーヴァーのマジックは、労働者階級なら労働者階級の生活を描きながら、それが単なる労働者階級の生活ではなくなる瞬間を提出することにある。その瞬間とは、「大聖堂」の啓示が示すように、無意味化、身体化の結晶である。それは、既存の政治的・社会的文脈を破壊した、まったく新しいなにかなのだ。
(三浦玲一『村上春樹とポストモダン・ジャパン』)
わたしはこのマジックのありかた、「毛布から」という「自分の周囲十メートルの話」を描きながら「白いテレビ」という魔術的メディアを通して〈日本の話〉だけではないマジカルな啓示的瞬間があらわれているのを鴇田さんのテレビの句に感じる。それは、ブローティガンの「子ども番組のテレビ」を見ていただけで「何百万ものぼくたち」につながってしまうようなフローしていく何かである。
私は実は三年前に鴇田さんの白いテレビの句をはじめて眼にしたときに、すぐに思い出したカーヴァーの一節があった。ただその一節がどの作品にあるのか、ずっと思い出せなかった。だから思い出すまで待っていようとおもった。ところが、きのう、雨がふっているのかふっていないのかわからない白い光の空の真下を、ぼんやり、傘をさしながら道を歩いていたら、とつぜん思い出した。それは、テレビを見ているなかで、テレビを見ていることを突き抜けてしまう、白いテレビのなかに暴力的に包まれてしまう一節だった。横になって、どこにもゆけないなかで・その《どこにも》が圧倒的に・暴力的に押し寄せ、しずかに、その場で、じっとしながら、押し流されていく〈終わりの風景〉。私が思い出したかったのは、これだった。
私はそこに横になってテレビを見ていた、軍服を着た男たちの姿が画面に映っていた。ぼそぼそとした声。それから戦車隊が現れ、ひとりの男が火炎放射器を発射した。音は聞こえなかったが、わざわざ起き上がるのも面倒だった。私は瞼が重なるまで、じっとテレビを見ていた。でもはっと目を覚ました。私のパジャマは汗でぐしょ濡れになっていた。雪明かりのような光が部屋に満ちていた。ゴオオオという音が私に押し寄せてきた。その轟音は耳を聾せんばかりだった。私はそこに横になっていた。私は動かなかった。
(カーヴァー「みんなは何処に行ったのか?」『ファイアズ』)
(「解説」『東京日記』平凡社ライブラリー・2017年 所収)
ラベル:
ゲーム,
テレビ,
フロー,
リチャード・ブローティガン,
レイモンド・カーヴァー,
阿部公彦,
田島健一,
鴇田智哉
2017年9月16日土曜日
超不思議な短詩220[攝津幸彦]/柳本々々
三島忌の帽子の中のうどんかな 攝津幸彦
前回、『MOTHER』と俳句をめぐる話だったのだが、『MOTHER』というゲームは最終的に〈赤ん坊(のときの記憶〉と出会うゲームであり、その意味で、大人の分節をどんどんなくして、どろどろの世界に還っていくゲームでもあった(例えば『MOTHER2』のラスボスはもはや輪郭をなしていない。苦悶の表情のような、胎児の姿のような、連続し、流動する背景そのものが、ラスボスだった)。
だから『MOTHER』は、みずからが〈母親〉になりながら、意味や分節や価値観がわたしとあなたが生まれる前の未生の世界へ、赤ちゃんの世界を探求する、遡行・退行・去勢の物語と言うこともできるかもしれない。
そこでちょっと意外なのだが、この『MOTHER』的世界に俳句からアクセスしていたのだが、攝津幸彦だったのではないかと、おもう(ゲーム『MOTHER』と攝津幸彦を組み合わせると異色すぎて怒るひともいるかもしれないが、しかし、ゲーム『MOTHER』では豊富な映画史的記憶の引用がなされており、映画を一年で300本以上観ていたという映画史的記憶と共にあった攝津幸彦と共通点がないわけではない)。
攝津幸彦の俳句に出会ったとき、まず抱くのは、不可解さ、ではないかと思うのだが、しかしそれは『MOTHER』で主人公たちが最終的に赤ちゃん化してゆくラスボスに出会ったような、どこか不可解でありながらもわかってしまうかんじ、身体の奥のほうでじぶんがいつか歩いてきた道、にも通じているのではないか。攝津幸彦は句集『鳥屋』のあとがきでこんなふうに書いている。
どうやらぼくの意識下には、幼時すでに表現されてしまっている確固とした世界があり、その世界が、ある時、記憶の光を通じて外部の風景に触発されるや、自然とそこに一句が成立してしまうのだと、しばしば思ってみることがある。
幼時の表現世界は、きまってフリーキーでしかも暴力的であり美しい全うな世界に対していつも挑発的であるのだが、時折、俳句形式に遭遇することにより、別の世界の貌をして小さな安息を求めているのかも知れない。
(攝津幸彦『俳句幻景』)
なんだかとても奇妙な話なのだが、『MOTHER』のゲーム世界を攝津幸彦に解説されているような気になってくる(ちなみにこの「あとがき」が書かれた句集『鳥屋』は1986``年に刊行されており、1989年発売の『MOTHER』とほぼ同じ時期にある)。
この攝津幸彦にとっての「幼時の表現世界」というのは、言ってみれば、〈未分節性〉へ立ち返るということではないのかと思う。大人の分節をこわせば、当然そこには、暴力性や挑発性、フリーキー、不可解さがあらわれてくる。
たとえば掲句の「帽子の中のうどん」だが、「帽子の中のうどん」を率直にいえば、〈取り返しがつかない〉ということだ。もし帽子の中にうどんを入れたら、帽子とうどんの分節は消え、分離しがたくなってくる。帽子は帽子の機能をやめ、うどんはうどんの機能をやめ、帽子うどんのような奇怪な意味分節があらわれてくる(いちごとうふ)。
これは攝津幸彦の有名な句、
階段を濡らして昼が来てゐたり 攝津幸彦
にも通底しているように思う。階段が濡れて、階段と液体の分節がこわれるとき、そこに〈意味の昼〉がやってくる。それはどこかやはり不快でありながら、未分節が新しい分節をもたらす予感もある。
口腔にわだかまりけり森の端 攝津幸彦
浄土これ畳のへりにとろゝ汁 〃
口のなかにわだかまる「森の端」はやはり不快感がある。食べ物ではなく、それが「森」なのだから、根本的にこの口のなかの不快感は消えないのではないかというおそれもある(神話的不快感というか)。
畳のへりにとろゝ汁とやはり〈取り返しのつかない不快〉が描かれる(吉田戦車が描きそうな不快でもある。吉田戦車でも、言語や意味の未分節を探究することをギャグマンガとして昇華していた。ちなみに吉田戦車『伝染るんです。』は1989年からの連載。攝津幸彦、『MOTHER』、吉田戦車は同時期にいる)。
こうした未分節の風景を、不快感とともに、俳句にあらわすことが攝津幸彦の俳句にあるんじゃないかと思う。
そう言えば、ぼくの句にたち現れる、人や毛物や花は、いずれも現実の地上にあるとするより、その身のいずこかに奇形を抱え込んだまま、遠い宙空を漂っているとした方がいっそう似つかわしいのではあるまいか。
この遙かにしてなつかしい表現世界は、その奇形ゆえ久しく脳球の奥にとどまり、他者の理解をあらかじめ拒絶する在り方をしているのだが、ぼくにとっては逆にいつも新鮮で親しいものとして存在しているのだった。
(攝津幸彦、同上)
他者を拒絶するものでありながら・いつも新鮮で親しいものとしてあらわれてくるもの。『MOTHER2』のラスボスであるギーグは、戦闘中、どんどん「奇形」になり「宙空を漂」いながら、こんなセリフを洩らしている。
…カエレ…チガウ…チガウ…チガウ
アーアーアー
……ウレシイ…
…カナシイ…ネスサン。
……トモダチ…
(『MOTHER2』)
オギャーとは何の音ぞよ芋嵐 攝津幸彦
(『俳句幻景』南風の会・1999年 所収)
2017年9月15日金曜日
超不思議な短詩219[糸井重里]/柳本々々
フライングマンは「古池や・蛙飛び込む・水の音」なんです。 糸井重里
名作RPGと言われる『MOTHER』をつくった糸井重里さんがインタビューのなかで『MOTHER』を俳句と関連づけながら語っている。『MOTHER』と俳句という取り合わせは意外だったのだが、しかし考え直してみると、『MOTHER』の説明過少な朴訥で〈無口〉な語り口には、たしかに俳句と通底しているところがある。
セリフは、ひらがなで作りましたから。声に出して、そのまま耳に響く音として、自分で受け止め直して、反響させてみて「これは違うな」と思うなら消す。原稿書きのように、自分でひたすら推敲していました。だから、敢えて言うなら俳句ですよね。「古池や・蛙飛び込む・水の音」って俳句には「だからどうした?」ってリアクションをしたくなりますよね。古池があって、蛙が飛び込んだ? 水の音がしたんだ? それはどんな音だった? ポチャンと音がしたのか、しなかったのか。自分にマイクを突きつけられたような、コール&レスポンスがあると思うんですよ。
(糸井重里『ゲームの流儀』)
また『MOTHER』と〈写生的認識〉のかかわり合いをめぐるこんな記述も見逃せない。
糸井重里の作り出した劇中人物に「~じゃ!」というおじいさんは出てこなかった。ゲームシナリオに自然主義的写生文を持ち込んだわけで、決まり文句で構成する古典の手法は音楽同様に否定されている。
(『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』)
任天堂から『MOTHER』が発売されたのは1989年。プラットフォームとなるファミリーコンピュータ発売の1983年の6年後に発売された。この間には『スーパーマリオブラザーズ』や『ファイナルファンタジー』『ドラゴンクエスト』など後々までそのブランドを維持していくゲームが発売されている。
糸井さんは俳句の「だからどうした?」性を『MOTHER』のなかに持ち込んだというが、そもそも過少な容量で広大な物語世界を表現するドットをベースにしたファミコンには、そもそもの「だからどうした?」性があった。
たとえば今でも『マリオメーカー』でプレイできる初代ファミコンマリオ。クリボーとはいったいなんなのか、なぜクリボーにふれただけで死ぬのか、死ぬといってもマリオはいったい画面外のどこにいくのか、マリオにとって命とはなんなのか、穴に落ちるとなぜ死ぬのか、穴に落ちて死んだのになぜ陽気な音楽がかかるのか、キノコを食べるとなぜ大きくなるのか、なぜキノコがブロックのなかにあるのか、キノピオは食われるキノコをどう見ているのか、花を食べて火を放つのはどういう仕組みなのか、なぜクッパは何体もいるのか(クリボーやノコノコがクッパに化けているから)、或いはなぜクッパはたびたび自ら出向いてくるのか、なぜクッパはマリオがぎりぎり自らのもとまでたどりつけるようコースをつくってあげたのか、ピーチとキノピオの関係はどうなっているのか、この国の〈種差〉のありかたは? ピーチ姫はさらわれている間何をして過ごし生きていたのか、食べ物や排泄はどうしていたのか、助けにいけないままだとどうなるのか、クッパはピーチをどうしたかったのか、なぜマリオはおじさんなのか。
これらはほとんど説明されることなく、プレイヤーはプレイのなかに投げ込まれていく。しかし大事なことはそうした不条理をドットという過少な表現が支えていてしまったことにあるように思う。こうしたゲームへ投げ出されながら、プレイしていくなかでリアリティを確保していく様子は、定型に投げ出されながらその定型のなかでリアリティを確保していくようすに似ている。とりあえず・やっていくこと、体験や経験のプレイがリアリティを支えていく。プレイ・リアリズム、というか。
その意味で、ゲームや定型詩のリアリズムとは、《すること》が《すること》を支えていくという同語反復的なゲーム・リアリズムに支えられているのかもしれない(だからゲームをプレイしたことのないひと、定型詩を詠まないひとにはわかりにくい。《プレイ》していないから)。
プレイすることに加えて、もうひとつ大切なのは、というより、糸井さんが強調したのは、足りない部分を補っていく想像力だ。足りないからこそ、補う。
『MOTHER』は、ただでさえ足りない情報量の世界を、テキストにまで俳句的足りなさをもちこむことで、さらに想像力をひきだした。
たとえば『MOTHER』のキャラクターには、「お前は○○なのか?」と聞いておきながら「そうか」と答えるだけの奴がいるんです。そういうぶった切るやり取りが、すごくある。だから、その短い言葉の中に、相手の気持ちを斟酌する“想像力”が必要になってくる。「『そうか』ってどういう意味だよ!」という、単なる三文字の中に、想像力に応じたオマケがついてくるんです。
(糸井重里『ゲームの流儀』)
RPGは世界観を構築するために、またはゲームの容量上制限された視覚情報を補うために、膨大なテキストを用意するが、『MOTHER』はそのテキストをあえて俳句的に〈外し〉ていく。
『MOTHER』にはフライングマンという主人公をかばうだけの、一見強そうななりで、ひ弱なキャラクターがいる。かれらはすぐに死ぬのだが、しかし、寡黙なかれらからは使命感が伝わってくる。俺らが主人公をかばわなきゃ誰がかばうんだと。わたしたちは命を賭けて主人公をかばい死んでいくと。「わたしはフライングマン。あなたのちからになる。そのためにうまれてきた」とかっこいいセリフも用意されている。でも、かれらは弱い。弱いうえに、ゲーム上どうでもいいキャラなのである。だから、おもう。いったいなんなんだ? と。でもその「いったいなんなんだ?」が組成していく世界が『MOTHER』だった。俳句のように。
ゲームの中に「フライングマン」という、勝手に冒険に加わって死んでいくキャラクターが出てくるんだけど、この感想も人によって全然違う。……その人の想像力に応じて、フライングマンが役割を果たすわけで。フライングマンは「古池や・蛙飛び込む・水の音」なんです。リズムが五・七・五ではないのだけれど、問いかけの構造。未完成のものをポンポン置いてあるってのが、僕のテキスト世界じゃないかな。
(糸井重里、同上)
モンスターを駆逐し、父親のようなラスボスを倒し、世界を領土化し、仲間をふやしていく〈完成型〉のRPGが多いなかで、『MOTHER』はそのタイトルから〈父権的〉なものを喪失しており、未完の世界のなかで、未生の赤ん坊をめぐる物語だった。主人公たちが最後に出会うのは赤ん坊であり、その赤ん坊の〈母親〉になれるかどうかが『MOTHER』には賭けられていた。さいごに主人公たちは、〈たたかう〉ではなく、〈うたう〉を選んだ。
ときどき、なんで『MOTHER』は3D化できる機会を失ったんだろうと考える。『MOTHER3』は当初3Dで開発が進められていたのだが結局頓挫し、2Dになった。でも、その〈達成しがたさ〉としての未完のありかたは、マザーっぽいと言えば、マザーっぽい。マザーというゲームは、くじけること、たたかわないこと、無意味なこと、いちごとうふ、意味不明なこと、素朴なこと、あたたかいこと、いきてゆくことを考えさせてくれる。
『MOTHER』は1989年というバブル・カルチャーが終わりに向かってゆく年に発売された。もう後5年で1995年という〈世界の終わり〉をサブカルチャーが描くような変わり目の年がくるのだが(新世紀エヴァンゲリオン・オウム真理教事件・阪神淡路大震災)、その5年前にこうした淡々とした俳句的世界観のゲームがあった。
人生はゲームよ。休んだり戻ったりも大事よ。
(『MOTHER』)
(『ゲームの流儀』太田出版・2012年 所収)
2017年8月11日金曜日
続フシギな短詩153[ロマンシングサガ2]/柳本々々
そして代々の皇帝とその仲間達の詩 この詩をうたい終えられるよう 精霊よ 我に力をあたえよ ロマンシングサガ2オープニング
ゲーム『ロマンシングサガ2』で興味深いのが物語全体の枠組みである。『ロマサガ2』は酒場での吟遊詩人の歌い出し=語り出しからはじまる。そこから代々の皇帝とその時代時代の仲間たちが何百年という時をめぐって七英雄と戦ったようすが吟遊詩人によって歌い出されてゲームがはじまる。
こうした冒険を代々語り継がれてきた歌のスタイルにすることによってロマサガは他のRPGにないロマサガ性を手に入れた。
それは運命を偶然化する冒険物語のスタイルである。ロマサガ2は、プレイするキャラクターがすぐに死んでしまう。そして皇帝継承としてプレイヤーの〈わたし〉が次の皇帝を任意で選ぶことになる。次の皇帝候補は何十人とおり、そのなかから選択することになる。だからプレイヤーの数だけロマサガの物語はあることになる。
また、イベント進行に関してもほとんど任意で行われる。国を滅ぼすこともできるし、味方を見殺しにもできる。よくあるRPGのような正義の必然化はない。悪に徹してもいい。正義も悪も任意で行われるのだ。
吟遊詩人の歌う伝承歌の歌のポイントとはなんだろうか。それは、伝承されるたびに、歌われるたびに、歌い直され、語り直される点だ。たとえば白川静のこんな言葉を思い出してみてもいい。
民謡には、その集団性に適応して詞句の変換が可能であるという替え歌への条件がある
(白川静『初期万葉論』)
集団的に共有される言葉の伝承は即興演奏(アドリブ)として誤配される。杉田俊介さんは、物語への信頼を次のように逆説的に述べていた。
私たちが物語=言葉を信じるとは、言葉の伝承の断絶や誤配への信頼、裏切りへの信頼でもあるだろう。この私が今こうして語りうることのすべての限界を超えて、この私を根本的に裏切って、誰かが語っていく。しかし、そのことで、自らやそれに先行する死者たちの「死後の生」(ベンヤミン)をも継承し翻訳するかのように生かしてくれる、そうした後続の誰かがいるはずだ、と。物語ることは誰かから物語られていくことであり、物語の銀河系に巻き込まれていくことである。
(杉田俊介『宮崎駿論 神々と子どもたちの物語』)
特に伝承歌は、即興的な磁場のなかで「言葉の伝承の断絶や誤配への信頼、裏切りへの信頼」が強く作用する「死後の生」を生きるテクストだろう(まるでゲームの主人公たちの皇帝継承のように)。
なんだかわたしは杉田さんのこの記述は、このまま『ロマサガ2』の解説にもあてはまるような気がしている。ロマサガ2は、物語全体の枠組みを歌に設定することで、〈運命の偶然性〉を描き出す。そこではどんな行為も、最終的には吟遊詩人によって、語り直され歌い直される相対的なテクストになるのだ。
でもこのロマサガ2のオープニングには仕掛けがある。ネタバレなのでこれからプレイするひとはもう読まないでほしいが、じつはこの吟遊詩人の歌をかたわらで聴いているのが、廃位したばかりの最終皇帝なのだ。ロマサガ2のオープニングはこうしてオープニングの外部としてのエンディングを先取りしながら、物語の円環をかたちづくる。しかしそれそのものも、あなたというプレーヤーによって語り直され、歌い直されるだろう。もちろんわたしもいま別のかたちでこうして語りなおしている。それに、だれにだって、あるだろう、やるしかないっていう気持になる時が。いつでも来い。今、そんな気持になった。
(『ロマンシングサガ2』スクウェア・エニックス・2017年 所収)
2016年7月12日火曜日
フシギな短詩25[木下龍也]/柳本々々
幽霊になりたてだからドアや壁すり抜けるときおめめ閉じちゃう 木下龍也
木下さんが描く幽霊はいつも〈いきいき〉している。たとえば、
ザ・ファースト・クリボー無限回の死を忘れて無限回の出撃 木下龍也
リクルートスーツでゆれる幽霊は死亡理由をはきはきしゃべる 〃
任天堂の『スーパーマリオブラザーズ』に出てくる敵キャラクターのクリボーはゲームのシステム上じぶんじしんの〈死〉を忘れて何度も〈いきいき〉と出撃してくるし、「リクルートスーツ」を着込んだ〈生まれたて〉の幽霊たちは生前よりも〈いきいき〉とするかのように「はきはき」と「死亡理由」をしゃべる。
これはいったいどういうことなのか。
私が思ったのは、ここで起こっている事態とは〈死の/への忘却〉ではないかということだ。
ひとはその生の過程においていろんなことを忘れていくが、ひとは〈死〉の過程において〈死〉さえも忘れる。それが木下さんの歌におけるひとつの〈死生観〉なのではないか。
だから「幽霊になりたて」の自分は〈死んでいる身体〉を忘れ、〈生きていた身体〉を自動的に想起し、反射的に「おめめ」を「閉じ」てしまう。〈わたし〉の意思にかかわらず、身体のシステム、思い出のシステム、忘却のシステムが〈そう〉させてしまうからだ。
「クリボー」もそうだ。じぶんの〈死〉をわすれて、ゲームのプログラムのシステムによって何度でもマリオにつっこんでくる。「リクルートスーツ」もまた〈就活〉というプログラム化されたものである以上、〈死〉を忘れさせる装置になる。
このとき大事なことは、〈忘却〉である。この〈忘却〉にこそ、木下さんが描く幽霊の〈いきいき〉がある。そしてそこから逆照射されたわたしたちの生も。
なぜ、死の忘却にわたしたちの生があるのか。
それは、忘れることが、生者の特権だからだ。
ひとがなにかを忘れるということ。ついうっかり忘れてしまうということ。それが〈生きている〉ということであり〈生の複雑さ〉なのだ。
いっけんわたしたちの生はシステムによっているようでいて、それでもそのシステムのプログラムを忘れ、ノイズを引き起こしてしまう。それが生きていることのやっかいさであり同時に愛おしさでもある。生きるとは、この生のノイズを増幅させることであり、たとえ幽霊になったとしても〈その死〉に対し〈このわたし〉が〈生きるおっちょこちょい〉であることにほかならないのだ。
だから木下さんの「おめめ」は〈幽霊〉化したはずの死のプログラムに生のエラーを引き起こす。〈彼〉はまだ〈生きている〉のだ。誰のシステムでもない、じぶんじしんの生として。
どれだけ〈わたし〉が死んだとしても、まだやってくる生のたくましさと愛おしさ。「おめめ」、この愛すべきもの。
(「雲の待合室」『現代歌人シリーズ12 きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房・2016年 所収)
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