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2017年10月11日水曜日

超不思議な短詩236[星野源]/柳本々々


   夫婦を超えてゆけ/2人を超えてゆけ/1人を超えてゆけ  星野源

最近星野源の「恋」の歌詞「夫婦を超えてゆけ/2人を超えてゆけ」について考えていて、これは漱石『門』の、

  宗助と御米とは仲の好い夫婦に違なかった。いっしょになってから今日(こんにち)まで六年ほどの長い月日を、まだ半日も気不味(きまず)く暮した事はなかった。
  (漱石『門』)

や、

  屠蘇散や夫は他人なので好き  池田澄子

などの〈夫婦〉というユニットをめぐる小説や句と通底しあっている歌なのではないかと思った。

夫婦を考えるときに問題となるのは、夫婦を夫婦として意識しはじめたときに2人のあいだで逸脱してきてしまう〈なにか〉である。でもその〈なにか〉は〈なにか〉の余剰としてしか感じ取れず、〈なにか〉のままで置くしかないのだが、星野源の歌詞にも語られているように、「夫婦」を考えたとき、「夫婦」とは、「2人」とは、「1人」とは、というカテゴリーをめぐる問いが生まれてくる。

星野源も漱石も池田澄子さんもいったん〈夫婦〉というカテゴリーに沿いながら、その夫婦というユニットのカテゴリーをたどっているうちに越え出ようとしているところに特徴がある。星野源の歌の「似た顔や虚構」と言った第三者が夫婦幻想に介入してくるのも、星野・漱石・澄子に共通するところだ。夫婦は夫婦で簡潔しない。池田さんの句にあるように「他人」という第三項の問題がかかわってくる。

たとえばこの池田さんの句を漱石『門』になぞらえるなら、

  屠蘇散や夫は他人(の安井がいるから)なので好き

ということになる。

  二人はそれから以後安井の名を口にするのを避けた。考え出す事さえもあえてしなかった。
  (漱石『門』)

は、逆にどれだけ安井を夫婦が意識しているかを〈逆語り〉している。安井から駆け落ちするように逃げるように2人になった2人。私は星野源の恋ダンスをほんとうは漱石『門』の野中夫婦に踊って貰いたいなあと思ったりもする。例えば野中宗助が、野中御米が、恋ダンスを踊りながら「夫婦を超えてゆけ/2人を超えてゆけ/1人を超えてゆけ」の部分でなにを思うのか。いや夫婦というユニットを考え続けた漱石に恋ダンス踊ってもらいたい。

夫婦であるということは、夫婦というカテゴリーを考えると同時に、2人であるとはどういうことかを考えると同時に、1人であるとはどういうことかを同時に考えることでもある。そして時々たぶん私たちはその夫婦という、2人という、1人というカテゴリーを〈恋〉によって(なんとなく)超えてしまう。

星野源の歌でも「似た顔や虚構」という〈脅威〉が迫っているように漱石『門』でも「安井」という夫婦存在を脅かす「似た顔や虚構」が現れる(宗助は脅えるがその安井がどの安井なのか作品では結局明らかにならないぶん、宗助は「似た顔や虚構」に怯え続けることになる)。

  そうして父母未生以前と、御米と、安井に、脅かされながら、村の中をうろついて帰った。
  (漱石『門』)

宗助は最終的に、じぶんの存在の根っこと、妻と、妻のかつての夫婦となろうとした相手に、おびやかされることになる。つまり、夫婦で今じぶんがたまたまいることの可能性、夫婦がこわれることの可能性、夫婦でなかったことの可能性、のみっつのねじれ≒夫婦ループのなかにはいりこんでゆく。

夫婦というユニットの静かな危機と崩壊を描き続けてきたのが劇作家の岩松了で、『水の戯れ』や『テレビ・デイズ』でなんとなく・しずかに・はげしく・こわれていく夫婦を描いている。

  夫 でもキミは、その前、自分だけの問題じゃない。ふたりの問題だって言ったよ。
  妻 問題なんて言わないわ。生活だって言ったのよ。
  夫 ……。
  妻 ……。
  夫 生活って?
  妻 ……。
  夫 ……。
  妻 生活よ……。
  (岩松了『テレビ・デイズ』)

『水の戯れ』では、もう「結婚」しているのに、「ちゃんと結婚してないような気がする」と夫の春樹が言い始める。しかし、「ちゃんと結婚」するとはどういうことなのか。夫婦に「ちゃんと」を持ち込みはじめたとき、その夫婦は、どうなるのか。夫婦を、2人を、1人を、ひとは、どうやって、越えられるのだろうか。恋ダンスのねじれるようなダンスは、その答えがアクロバティックにしか見いだせないことをあらわしているかもしれない。

ちゃんと2人になりたい、ちゃんと2人でいたい、ってどういうことなんだろう。おおくの〈2人〉がといかけていること。

  春樹 ちゃんと結婚したい……
  明子 え?
  春樹 ちゃんと結婚したい。
  明子 どういうこと?
  春樹 ちゃんと結婚してないような気がする……。
  (岩松了『水の戯れ』)


          (「恋」・2016年 所収)

2017年9月1日金曜日

続フシギな短詩191[金子兜太]/柳本々々


  きょお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中  金子兜太

さいきん小澤實さんと中沢新一さんの対談集『俳句の海に潜る』を読んでいるのだが、対談は最終的に〈俳句におけるアニミズム〉の話に流れ着いていく。

そこで興味深かったのが、肉体/魂という二項対立を意識してしまったらもうそれはアニミズムではない、という中沢さんの言葉だった(アニミズムとは一般的に、万物に意識があるという思想。中沢新一さんは「生物も非生物も、もともとは一体」という一元論的アニミズムを考えている。スピリットが世界全体を流動しつづけており、それがたまたまとどおこったときに、なにかが〈存在〉する)。

  凍蝶の己が魂追うて飛ぶ  高浜虚子

この句は、一見アニミズムっぽいのだが、「魂」が出てきている時点で近代的なアニミズムになってしまっているという。凍蝶の身体/凍蝶の魂という二項対立。

  生きている凍蝶の肉体が、別れ出てしまった魂を追っているということは、肉体と魂とを別に考えているということである。この考え方は中沢さんが次のように説く十九世紀の間違ったアニミズム論につながるものだった。そのアニミズム論とは「生命のないものにアニマが宿って、あたかも生命を持つように振る舞うようになる」という、中沢さんが誤りと断じているものである
  (小澤實『俳句の海に潜る』角川書店、2016年)

魂も感じさせないような、万物が融合し流動しているような状態、それがそもそものアニミズムだというのだ。たとえば、

  閑さや岩にしみいる蝉の声  松尾芭蕉

この句においては、「岩」と「蝉」が「しみいる」で融合した状態になっている。

  中沢さんはこの句をアニミズム俳句の極致と呼び、「蝉を流れるスピリットと岩を流れるスピリットが、相互貫入を起こして染み込み合っています」と評されている。
  (小澤實『俳句の海に潜る』)

魂はなく、ただ「岩」と「蝉」が相互浸透した融合状態がある。これが、アニミズムだという。

そんなとき私は金子兜太さんの掲句を思い出した。

「きょお!」という汽車の発話には言語レベルに還元できない不穏ななにかがある。誰かの人名を叫んでいるような(「清ぉ!」)、もしくは「狂/恐/凶/驚/胸/競!」と不吉な言葉を叫んでいるような(「KYOU」は不穏な漢字ばかりだ)。

汽車は夏目漱石『草枕』で描かれたように近代的な装置だった。国家のすみずみまで均質に知や物資や情報を届け、均一な国民を育てる。

  汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。
  (夏目漱石『草枕』)

ところがその「汽車」が「きょお!」と不可解な非言語を「喚いて」しまう。この「汽車」はいったいどういうふうに位置付けられるのだろう。

ここで注意してみたいのが、「この汽車はゆく」である。語り手は「《この》汽車」と指示できる確かな位置をもっている。語り手の意識は、没入はしていない。事物を名指しできる場所にちゃんといるのだ。だから、「ゆく新緑の夜中」とベクトルも時間=場所叙述できる。

しかし、そうした「この」と指図ができて、時間ベクトルも場所ベクトルも叙述できる意識鮮明な語り手に対し、「きょお!」と汽車は喚き傍若無人な意識/無意識のふるまいをみせる。これはそうした語り手が、没入しそうになる一歩手前の、しかしその一歩を過ぎてしまえばもう汽車の意識のなかに怒濤のようになだれこんでいってしまうという、意識没入 対 近代的個の対立の句といえないだろうか。アクセスポイントは、もうすぐその手前に、きている。でもそのアクセスポイントがこれからどうなるかはわからない。

そういえばアクセスポイントが意識された兜太さんの句にこんな句があった。この古代のWi-Fiのように明滅するアクセスポイントは、どういうふうにかんがえればいいのだろう。

  おおかみに蛍が一つ付いていた 金子兜太

          (「俳句 短歌の魅力」『語る 俳句 短歌』藤原書店・2010年 所収)

2017年8月28日月曜日

続フシギな短詩183[河野裕子]/柳本々々


  手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が  河野裕子

河野裕子さんで有名な歌に、

  たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか  河野裕子

という歌があるのだが、すごく「君」への求心力が強い歌だ。〈例え〉として話し始めたことではあったが、その〈例え〉は「ガサッと落葉すくふやうに」と非常に具体的かつ強力で、さらにそこに例えだけではなく、「私をさらつて行つてはくれぬか」という率直な行為の記述が入る。それは落ち葉をすくうようにというたとえではもはやすまされていない。たとえ話をしながらも、そのたとえを超克し、「私をさらえ」と言っているのだ。

だから「たとへば君」のこの「たとへば」は「たとへば」なんかでは、ぜんぜん、ない。「たとへて」はいないのだから。「たとへ」るというよりは、「君」と名指しされた「君」がためされる歌だ。たとえば、ですますのか、たとえば、ですまさないのか。どっちなのか、と。

そうかんがえると、この一字アキもとても効果的だとおもう。なぜなら、「君」に少し考える時間を与えてあげているから。この一字アキは残酷である。試される時間だからだ。この歌のいちばんの強度は「君」の横にある永遠ともいえそうなこの一字アキになるような気もする。夏目漱石『それから』で主人公の代助が答えることのできなかったおそろしい問いかけである。

掲出歌は、河野さんの最後の作と言われている。この歌で私がとてもインパクトを受けたのが、「あなたとあなた」という「あなた」の反復だった。「手をのべて/触れたき」というとき、ふつうは慣性として「君」というひとりの人間に語られるのではないだろうか。あなたにも・あなたにも触れたい、という発想ではなくて。

ところがこの歌では「あなたとあなた」と〈あなた〉が複数形になっている。まるで河野さんはみずからの代表歌の「君」を〈ズラす〉ように「あなた」の横に「あなた」を添えている。そしてその複数の「あなた」に対応するように下の句には複数の「息」がでてくる。

落葉の歌は、「君」と「私」という単数の歌である。でも河野さんが最後にたどりついた歌は、「あなたとあなた」、「息」と「この世の息」という複数に語りかける複数的な場所をめぐる歌だった。

大澤真幸さんが愛をめぐる関係を次のように述べている。

  愛の関係においては、指示の究極的な帰属点は、私(自己)であると同時にあなた(他者)でもある。一方においては、私こそがあなたを愛しているのであり、あなたを愛する対象として指示する営みの帰属点が私であるという構成は解消されはしない。が他方、私の任意の指示が、ただあなたの宇宙の中の要素としてのみ意味を有するのであれば、私の指示をさらに指示している他者の方に最終的な帰属点が委譲されてもいることになる。だから、ここには、眩暈を誘うような、指示の帰属点の終わりなき反転がある。
  (大澤真幸『恋愛の不可能性について』)

愛の関係は、究極的に「私」か「あなた」に回収される。「私」「あなた」「私」「あなた」とお互いがお互いをガサッとさらい続けるような眩暈のような関係が愛の関係でもある。

でもここに「あなたとあなた」ともうひとりの「あなた」を介入させたら、このめまぐるしい愛の関係はどうなるのだろう。もうひとりの「あなた」は彼でも彼女でもない。それは第三者ではない。「あなた」である。「あなた」にもうひとり「あなた」が加わったのだ。それは、さらい・さらわれる関係でもない。河野裕子の短歌はこうした新しい愛の関係を短歌で発見したのではないかとおもう。「あなたと彼を愛したい」ではなく、「あなたとあなたを愛したい」。その愛の関係は、なんなのか。

とてもずっと考えたいと、おもう。

  まみ深くあなたは私に何を言ふとてもずつと長い夜のまへに  河野裕子

          (『日本文学全集29 近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)

続フシギな短詩182[芦田愛菜]/柳本々々


  ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 ……なんだったかな下の句  芦田愛菜

『徹子の部屋』のゲスト芦田愛菜さんの回をみていたら、いま中学校で百人一首が流行っているという。黒柳徹子さんから、好きな歌あります? と聞かれ、芦田さんがすらすら暗唱したのが、

  いにしへの 奈良の都の 八重ざくら 今日九重に 匂ひぬるかな  伊勢大輔

「八重」と「九重」の掛けが好きだという。たしかに視覚的にわかりやすいし面白い。芦田さんはすらすらと朗唱する。ほかに、

  瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ  崇徳院

この歌はストーリーが好きだという。やはり芦田さんはそらですらすら朗唱する。川の水が割れてもまた合流する感じを、ひとが別れてもまたいつか出逢うことにたとえた歌はたしかに話として面白い。

でも学校では「ちはやぶる」の歌がいちばん人気なのだというと、黒柳さんが「やって」という。「やって」と。「なんだっけ」という芦田さん。でも、やってみる。

  ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 ……

まで行ったものの、「なんだったかな下の句」と止まる芦田さん。黒柳さんも、わからない。ふたり、だまる。とつぜん、「どなたかご存じ?」と観客席に話しかける黒柳さん。観客席への下の句のヘルプ。観客席に百人一首にくわしいひとがいるのか。すると、観客席から反応が。黒柳さんが「ん?」と聞き返すと、(すいません、知りません)というただの負の反応で、「あ、ご存じじゃないの」と黒柳さん。会場は穏やかな笑いにつつまれた。終わり。

いや終わりじゃなくて、私が興味深いなと思ったのが、芦田さんが上の句まではすらすら暗唱したにもかかわらず、下の句を忘れてしまったように、上の句と下の句の間にある微妙な〈裂け目〉である。575と77のあいだにある微妙な記憶の境界。これは、歌の記憶の整理のされ方が、〈575〉というパッケージングと〈77〉というパッケージングに別れていることをあらわしていないだろうか。

  ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 から紅に 水くくるとは  在原業平朝臣

《すごい神々の時代にも聞いたことがないような龍田川だ。紅葉で水がまっかに染め上げられている》というような意味なのだが、「八重/九重」「割れた川/別れた人」という上の句と下の句の対照がないので下の句を忘れてしまうと思い出しにくい。また第3句が「龍田川」と名詞で終わることによって、体言止めの〈終わった感〉が出てくるのもいっそう忘れやすくなっている。下の句で、川がすごい! と思った理由が示されるが、すぐわかるような覚えやすい上の句と下の句の対照がないのだ。

575(上の句)と77(下の句)の間には、こんなふうに各歌にしたがって、接合やアクセスの仕方が異なり、その差異が読み手の心象や記憶にそのつど違ったバイアスを与えているといえないだろうか。図示してみると「八重/九重」の歌は、

  575⇄77

「割れた川/別れた人」の歌は、

  575=77

「ちはやぶる」の歌は、

  575←77

こうした接続方法の差異により、57577のトータルイメージとしての心象が変わってくるように思うのだ。あるいは、記憶のありかたが(ちょっと漱石『文学論』のF+fみたいだが)。

上の句と下の句の接合点(ジャンクション)のようなものについていつも思考をめぐらしているジャンルがある。連句だ。浅沼璞さんは、1句、2句、3句、4句と続いていくときの連句の接合イメージをこんなふうに視覚化している。

  ┃(発句=立句)
  \(脇句)
  ─(第三句)
  ─(平句)
  (浅沼璞『俳句・連句REMIX』)

詳しくは浅沼さんの本で確認してほしいのだが、私が乱暴な言い方で解説すると、連句のいちばん最初の発句は、縦にすっと落ちてゆく線になる(俳句が、そう)。縦に落ちてゆくので、もう後はいらないよ、というイメージである。だから、縦棒。自立できている、一人前の大人のような句だ。

ところが連句は、そこから続いていく(連句の大事なところは、前進あるのみ、なので)。二番目の「脇句」は、いちばんめの発句を気にかけながら、三番目にくる句も気にかけなければいけない。脇にそうコーディネーターみたいなところがある。だからここではどっちも気にかける視覚イメージの「\」が用いられている。大人にも子どもにもなれない、どちらへも揺らいでいる青年のイメージといってもいいかもしれない。

三番目、四番目は、平句といって、べたーっとした句がつづいてゆく。これは、つながっていく句で、ひとりだちしない、こう言ってよければ、自立できない、こどものような依存する句である(ちなみにこの平句が川柳である。だから川柳には「切れ」がない。べたーっとしているが、そのべたーっが散文的な詩情を呼び込んでくる)。でもそのかわり、どんどん横に続いていくこともできる。この横に移動していく運動は、実は、短歌にも川柳にも俳句にも確認できる。「連作」と呼ばれるものだ。「連作」は合間合間につまらない、ひらたい、意味もないような、つなげるだけの歌や句を入れなければならない、というのはここにある(と思う)。

こういうふうに連句は、接合ポイント、アクセスポイントをたえず気にかけている。というか、私は連句とは実は〈そこ〉を気にかける文芸であり、そして〈そこ〉を気にかけたときはじめて「座」の意識がでるのではないかとも、おもう。

芦田さんに戻るが、芦田さんの「なんだったかな下の句」はこうした接合ポイントはなんでしょう、という問いかけを行っているようにも、思う。もちろん、おまえが思ってるだけだよ、と言われればそれまでだし、それまでだが、今回は、それまでを書いてみたかった。

  寺山修司は「現代の連歌」について、「日本文学の縦の線を横の線におきかえる意図にはじまっている」とエッセイのなかでのべています。
  (浅沼璞『「超」連句入門』)

          (「芦田愛菜」『徹子の部屋』テレビ朝日・2017年8月28日 放送)

2015年2月5日木曜日

貯金箱を割る日 15[夏目漱石] / 仮屋賢一



初夢や金も拾はず死にもせず   夏目漱石

初夢だからといって、特別おめでたい夢を見るかといえばそうでもない。いつものように、訳の分からない夢だったり、現実と混同してしまうようなリアルな夢だったり、そもそも夢を見たかどうかすらあやふやだったり、そんなもの。でもそういう、日常と何ら変わらないことにめでたさや嬉しさを感じるのが人間。

とはいえ、「金も拾はず」がめでたいと感じるのも、考えてみれば不思議だ。さすがに100万円拾う夢を見たら不安も拭い切れないが、100円拾う夢だったら何の懸念もなく「めでたい夢だ」と思うだろう。多分、日常的で一般的なめでたさの基準は、ここだ。逆に1円でも落とせば、どこか不吉な感じが漂う。「金も拾はず」が、めでたさラインのすれすれを言い当てている。だからこそ、「死にもせず」が非常に幸せなものとして映る。


ところで、「幸せ」は、世相をリアルタイムで映し出すものだとつくづく思う。「死にもせず」生きていることがどれだけ幸せであるのか。一ヶ月前にこの句を鑑賞するのと、今日鑑賞するのと、心持ちが大きく異なる、という日本人は、特に多いに違いない。そう思いつつ、2015年の立春の日も終わりを迎えようとしている。

《出典:『漱石全集』》