-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年9月7日木曜日
超不思議な短詩202[土屋文明]/柳本々々
子供等は浮かぶ海月に興じつつ戦争といふことを理解せず 土屋文明
1935年の歌。
時代と社会の動きを捉えようとする目を感じる。「子供等」の「海月に興じつつ」には、無邪気さの中に不穏なイメージがある。大人等は戦争を理解していたのだろうか。
(穂村弘『近現代詩歌』)
この土屋の歌では、「理解」という行為が軸になることで、さまざまな二項対立を形作っている。
子供等 /大人等
浮かぶ海月/沈む重い何か
興じる /興じない
理解せず /理解している
子どもたちが浮かぶ海月にはしゃぎ戦争を理解しない一方で、大人たちは浮かぶことのない何かを前にはしゃぐこともできず、ただ戦争という事態を理解している。
「理解」ということは、「あなたたち」と「わたしたち」という二項対立をどうしてもうみだしてしまう。かならず、理解できるひとと理解できないひとがでてくるからだ。
この「理解」ということばは現代の歌ではどのように受け止められているだろう。
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系
中澤さんのこの歌でもある意味、「理解」は戦争状態を通して《行われ》ている。「快速電車が通過」するとき、「理解できない」にんげんは「理解できない」まま、死んでいく可傷性がある。わたしを破壊的な死に巻き込むこの電車とはいったいなんなのか、なぜわたしたちの社会に電車があるのか、こんな危険な致死にもたらす可能性があるものになぜぼんやりとわたしたちはホームで待つのか、理解できないまま身体を損壊されて、しんでゆく。
ただし。
「理解」できたからといってそれがなんなのだろう。いったい《なに》を理解したことになるのだろう。「3番線快速電車が通過します」というセンテンスの意味性を理解した(つもりになっている)に過ぎないのではないか。それを「理解」したところでときどき電車という暴力装置のなかで骨片になってゆくひとたちの〈きもち〉は理解できない。毎日、朝の、夜の、生の、機械の、戦争のなかで、電車によってこなごなにされ、ふいつぶされ、たたきつぶされ、しんでゆくひとたち。「理解」は、どこにあるのだろう。
戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか。その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下される。
(押井守『機動警察パトレイバー2』)
わたしたちとあなたたちを《分けて》いたはずの「戦争」や「理解」はいったいどこにいってしまったのか。
わからないけれど、しかしわからないなかで、「理解」そのものを拒むという理解への積極的否定をとることだって、できる。「理解できない人は下がって」と大きな主体から言われたときに、「理解しよう」と飛びつくのではなく、だったらそうかんたんには「理解しません」と〈理解しない〉ことを耐え抜く態度だ。
死にたくはないので「下が」るが、だからといって、「理解」については譲らない。理解しない。理解する気なんてない。理解しないままのわたしで《あえて》下がる。理解しないその場所で、忍耐強く、たたずみつづける。中澤さんのうた。
小さめにきざんでおいてくれないか口を大きく開ける気はない 中澤系
(『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)
2017年9月4日月曜日
続フシギな短詩199[吉田恭大]/柳本々々
名詞から覚えた鳥が金網を挟んでむこう側で飛んでいる 吉田恭大
最後はこの歌で終わりにしようと、おもう。
高柳蕗子さんが『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』において最後にあげられている歌だ。
喜びも悲しみもしない。この無感動には、“興ざめ”が感じられる。
[向こう側]が見えているにもかかわらず、ここは[果て]なのだ。その遮るような遮らないような状態を「金網」が表していると思う。……
言葉の[果て]は眼前にある。表現はその[こちら側]のものである。……
見つけた人がいる以上、言葉の[果て]はこの先も少しずつ意識され続けるだろう。
(高柳蕗子『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』)
「名詞から覚えた鳥」という記号と物の一致する「鳥」が「金網」の「むこう側」を飛んでいる。そのとき鳥の名前である記号表現とその鳥の意味そのものの記号内容と、今実際に飛んでいる鳥そのものを一致させることはできる。しかしそれは金網のむこう側にいる。《みる》ことはできる。しかし、みたからといって、この届かなさは、なんなのか。しかし、その届かなさを意識できた人間だけが届いてしまう領域がある。
ああむこう側にいるのかこの蠅はこちら側なら殺せるのにな 木下龍也
「むこう側」にいる「蠅」。《みる》ことはできる。しかし「こちら側」にいないので、「殺せ」はしない。ここには、「むこう側/こちら側」という記号的分節が、現実の分節に及んでしまった人間が描かれている。これもひとつの届かなさだが、この届かなさに届いてしまった人間だけが入り込めるところに踏み込んでいる。
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系
「理解できる人/理解できない人」という〈脳〉の問題。しかしそれも単なる「電車が通過するから危険/電車が通過するということがわからない危険もわからない」という〈記号の答え合わせ〉的問題に過ぎないような状況。だとしたら、理解とはなんなのか。理解と記号の関係は? だれが理解できて・だれが理解できないのか。そして、どんな大きな主体が、わたしたちを「こちら側」と「むこう側」にわけているのか。大きな主体は、金網を《どこ》に用意している?
短詩をずーっとみてきて今思うのは、この「こちら側」と「むこう側」の問題だったようにおもう。定型は、どうしても〈外部〉をつくりだす。でもその〈外部〉は捨て置かれずに、内側に取り込んでいくのもまた定型詩であり、短詩である。でもそのうちとそとの境界線を、それを読む人間は、〈どこ〉に据えたらいいのか。それが、短詩には、ずーっと問われているような気がする。定型とは、つまり、吉田さんの歌のことばを使うなら「金網の置きどころ」なのではないかと、おもうのだ。
金網は、どこにあるのか。
ずっとそれがわからなくて、ひとは短歌を読んだり川柳を読んだり俳句を読んだりするのではないか。
外にいっても外にいってもどれだけ外にいってもずっと内側においてある自転車。この自転車は、なんだ?
外国はここよりずっと遠いから友達の置いてゆく自転車 吉田恭大
(「袖振り合うも」『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』沖積舎・2016年 所収)
2016年5月10日火曜日
フシギな短詩16[中澤系]/柳本々々
理解したような気がした 理解したような気がした、ような気がした 中澤系
ときどき、中澤系さんにとって〈理解〉とはなんだったのだろうと考えている。中澤さんには〈理解〉をめぐるとても有名な歌がある。
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系
穂村弘さんがこの歌に対してこんな〈理解〉をめぐる解説をしている。
今、それが「理解できる人」であっても、進化や変化や崩壊を無限に繰り返す世界のルールを永遠に理解し続けることはできない。どこかで必ずついていけなくなる日がくる。誰もが未来のどこかの地点で、世界から「理解できない人は」と告げられることになる。「下がって」と。
(「未来の声」『中澤系歌集 uta0001.txt』双風舎・2015年 所収)
穂村さんの解説を敷衍して私なりに言葉にしてみれば、中澤系さんにとって〈理解〉とは言葉の受け手が〈枝分かれ〉するものであったのではないだろうか。
たとえば「快速電車が通過しますお下がりください」はその言葉の受容者を一枚岩にするものだ。そのときひとりひとりは〈みんな〉になって「お下がり」するだろう。だれも・なにも・疑わずに。
ところがそこに「理解」という、言葉の受け手にとって〈理解の仕方〉に差異がでる言葉の場合は、シーンが変わってくる。理解できるひとも出てくれば、理解できないひとも出てくる。穂村さんが書いたように、きょう理解できても、あした理解できないひともいるだろう。もちろん、きょう理解できなくて、あした理解してしまうひともいるかもしれない。
ともかく〈理解〉によって状況は〈偶有〉的になるのだ。つまり、わたしたちは、そのつど〈たまたま〉「お下がり」している者たちに過ぎないと。そしてもっといえば、きょうわたしたちは〈たまたま〉いまここにいてみずからの存在を〈たまたま〉受け止めているにすぎないんだと。
だとしたら、わたしたちは〈理解〉という言葉そのものを《理解》することが困難なのではないだろうか。〈理解〉したと思っても、それは次のしゅんかんには〈食い違って〉いるかもしれない。幻想かもしれない。錯覚かもしれない。
だから初めに掲げた歌にわたしたちは戻ってくる。
理解したような気がした 理解したような気がした、ような気がした 中澤系
理解に〈終わり〉はない。「理解」という言葉を提出したしゅんかん、わたしたちは〈果て〉のない〈平坦な戦場〉を生き延びてゆかねばならないことを自覚する。いや、させられてしまうのだ。「理解」という発話そのものから。
理解とはなにかぼくにはわからないわからないことだけわかるけど 中澤系
加藤治郎さんは中澤さんの歌集のモチーフをこんなふうに指摘していた。
「終わらない」ことは、この歌集のモチーフであった。
(「uta のために」前掲)
わたしたちは、たぶん、「理解」を「理解」しあえない。
でもそこから、もういちど、始めてみたい。また終わるために。
(「Ⅰ 糖衣(シュガーコート)1998 1999」『中澤系歌集 uta0001.txt』双風舎・2015年 所収)
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