ラベル KuroiwaTokumasa(黒岩徳将) の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル KuroiwaTokumasa(黒岩徳将) の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年2月28日日曜日

今日のクロイワ35  [小澤實] / 黒岩徳将


湯豆腐の湯気の猛きが我が顎に 小澤實
顎に湯気が付き、サンタクロースのような髭になった景を想像した。「猛き」と良いながら実際は大した事態でないというギャップがクールである。余談だが、形容詞連体形+(名詞省略)+述語という構造が決まるとかっこいい…とこういう句を見て思う。
『砧』より。

2016年2月21日日曜日

今日のクロイワ34 [森山いほこ] / 黒岩徳将


バターナイフきらり元日遠くなる 森山いほこ

「遠くなる」で一気に面白くなる。バターの艶、銀色の鈍い光に正月の倦怠感が伝わってきた。お節料理をありがたいと思っていても、洋食派でなくとも、1月初旬からパンを食べる。
「元日遠し」という新季語提案だと考えても面白いかもしれない。元日もだが、元日が過ぎ去った気分も、また新年なのである。

「2016年週刊俳句新年詠」より。

2016年2月14日日曜日

今日のクロイワ33 [大山雅由]  / 黒岩徳将


見せ消ちのここが要ぞ獏枕 大山雅由

 獏枕は中国の想像上の動物である獏が人の悪夢を食うという逸話から、獏の絵を枕に敷くことを言う。見せ消ちは写本などで字句を訂正する場合、符号を付けたり取り消し線を引くなどして、消した字も読めるようにした消し方のことを言う。要は、獏枕のように悪い夢(=しでかした過ち)を霧消させてしまうのではなく、しっかりと直視して新たな形を作るべし、と言いたいのだろう。
 作るという行為そのものを詠むというメタ的な行為は、類想に陥りやすいのでは、そもそもやや説教臭いのではいう思いもよぎったが、創作に対する信念が見せ消ちや獏枕という特徴的な事柄によって現れる点が特異であり、執念であると感じた。夢の中でも、主体は何かを作り続けている。

『獏枕』(角川文化振興財団)より

2016年2月9日火曜日

今日のクロイワ32 [米岡隆文]  / 黒岩徳将


片腕を忘れし卓に石榴の実 米岡隆文

ミロのヴィーナスのごとく、欠損の表現には「かつてあったものの存在」をどうしても思わざるを得ない。「忘れし」の表現からは、「卓」が「誰かの片腕」の質感を忘れているとも読めると同時に、作中主体、あるいは「主体の思う誰か」が「片腕」を忘れている、と読むこともできる。石榴の実は、「露人ワシコフ叫びて石榴打ち落とす 三鬼」など何らかの象徴性を想定することもできれば、無意味な二物衝撃とも捉えられる。石榴の側に、片腕の幻影を見る。作者の狙いとは違うかもしれないが、失われてしまった片腕がいとおしい。

『藍』2016年1月号より

2016年2月2日火曜日

今日のクロイワ31 [宇多喜代子] / 黒岩徳将



餅花のしなりて曾父母父母孫子 宇多喜代子

 親族が集う景は新年詠としてはそれほど目新しくはない。しかし、「曾父母父母孫子」と並べることで、餅花の緑、桃色、白のように、家族が連なっている様子が見えてくる。
 みんなのうた『だんご三兄弟』を彷彿とさせる句だ。ふと思い出したが、その昔「『だんご三兄弟』ヒットの秘訣」というテレビ番組を見たことがある。幼稚園に取材班が赴き、「○」「□」「△」が書かれた地面のうち、好きな場所に行くように園児に伝えると、ほぼすべての園児が「○」の床を選んだ。
丸き物体のイメージと人間は切り離せない。人間の顔が四角だったら、三角だったら、どんな世界だっただろう。少し悲しいかもしれない。丸で良かった。

『現代俳句』2016年1月号より

2015年9月27日日曜日

今日のクロイワ 30 [杉山久子]  / 黒岩徳将



手が伸びて昼寝の子らをうらがへす  杉山久子

日焼童子洗ふやうらがへしうらがへし 橋本多佳子 を思い出した。


手が伸びて という措辞からは、あたかも自分の意志ではない動作だということを思い出させる。多佳子句と比べて、複数の子を「うらがえす」という書き方が異なっていることが興味深い。久子は「ら」と「うらがえす」で、上五の非人為的表現と相俟って淡々としており、「隣の家のお母さんがママ友と旅行に行く間、小さい子どもを預かる」などといった状況を想像させるが、多佳子の「うらがへし」をリフレインさせて主観性を打ち出した姿は、明らかに「カーチャン」である。

もちろん、久子の「うらがへす」は横転であり、多佳子の「うらがへしうらがへし」は回転である。

2015年8月2日日曜日

今日のクロイワ 29 [山口昭男]  / 黒岩徳将



波音の虞美人草でありにけり 山口昭男

「鍛錬会二句」という前書きで、「竹林の今日しづかなる早苗かな」と共に掲載されている。シンプルかつ挑戦している文体だ。「波音の」とあることから、虞美人草がまるで波音がないと存在しないかのような気がしている。あの茎の頼りなさからも、波音に凭れ掛かっているともとれる。

見なければ、書けない句がきっとある。しかし、見なかったからこそ書けた句もあるのかもしれないと思った。

「秋草」7月号より。裏表紙の句会案内を見ると、7月25日の欄に10−12時、12:45−14:15、14:30−16:00に全く同じ場所で句会をするそうだ。なんて熱いんだろう。

2015年7月26日日曜日

今日のクロイワ 28 [曾根 毅]  / 黒岩徳将



万緑や行方不明の帽子たち  曾根 毅


実は私も、数ヶ月ほど前、買ったばかりの帽子を失くした。それは極めて個人的な体験なのだが、掲句は森か林の中で帽子を失くしてしまったのだろう。そこで、「私のように帽子を失った人がこの世界には…」と考えている。個人的な事象から全体の問題へとスムーズに話題を移行させている。この帽子は、黃ばんだ色か、茶色か、もしくは緑の帽子だと思いたい。

帽子は、人間の装身具の中で一番不安定なものではないだろうか。帽子は肉体になろうとしても、なりきれない。ネックレスや腕輪、イヤリングよりも頼りない。帽子と人間が手を取り合う、いや頭を取り合う日は来るのだろうか。もう来ているのだろうか。


<「花修」深夜叢書社2015年7月所収>

2015年6月20日土曜日

今日のクロイワ 27 [中島斌雄]  / 黒岩徳将


鐡橋に蟹に五月の雨が降る   中島斌雄

隣に「犬も梅雨瓦礫の中に徑がある」とあり、言うまでもなく掲句も梅雨の句。

初めに大きな景→小さな蟹の横歩き、という演出がニクい。そして、蟹へのそこはかとない親しみも感じる。

第二句集「光炎」から引いた。

甘い措辞が少し俳句的ではないのだろうか、いや、この少し甘すぎる感じが作家性なのでは、と思わせてくれる句集だ。自分と同じくらいの年代の俳人に読ませて感想を聞いてみたい。


2015年6月14日日曜日

今日のクロイワ 26 [岡田一実]  / 黒岩徳将



虹立ちて虹の消えざる来世は嫌   岡田一実

句の方向性としては希望を疑わず、現在の世界の輝きを望んでいるのだが、虹が立っているときに消える想像をしてしまうというネガティブさに共感を覚える。下五の「来世は嫌」を軽く流すか、重く受け止めるか、その二つで読みが変わってくる。誰かの落とすぽつりとした呟きにその人の本質的な何かが潜んでいるのかもしれない。 「境界-border-」より。

2015年6月11日木曜日

今日のクロイワ 25 [若杉朋哉]  / 黒岩徳将


毎日の柿の紅葉の懐かしき  若杉朋哉

毎日なのに懐かしいとはこれ如何に、と幼い頃なら思ったかもしれない。
柿の紅葉のなんとも言えない赤さを、いつもの道で思う.先日、電話で友人にこの句を紹介したら、彼は「いいですね!」と何度も繰り返した。その魅力を、人と確かめ合いたくなる句だ。「朋哉句集」より。1ページに1句が基本、というのがこの句集の好きなところだ。

2015年5月12日火曜日

今日のクロイワ 24 [峯尾文世]  / 黒岩徳将



桜蘂降るまつたりと土に雨   峯尾文世

桜の花びらよりも、土・雨との接着が確かな感じを与える「桜蘂降る」。

「まつたりと」の使い方に驚いた。「まったり」と言われると筆者などはNHKアニメ「おじゃる丸」の主題歌にもなった「詩人/北島三郎」などを思い出すが、ここでは景に人間は直接描かれてはいない。しかし、主体が自然と静かに交信を図っていることが伝わってくる。

<角川「俳句」2015年5月号「まつたりと」より>

2015年4月29日水曜日

今日のクロイワ 23 [相生垣瓜人]  / 黒岩徳将


耳目又惑はむ梅雨に入りにけり  相生垣瓜人

雨粒の音に合わせて今年もやってきた…と思わせる季節の到来だが、ここで使われる「耳目」は、梅雨と配合されることによって、「複数人の注目」という意味合いよりも、むしろ体の部位としての形状を思わせる。

耳のぐるぐるした模様めいたかたち、目の人に訴えかけるメッセージ性。とかく人間・動物は不思議なパーツを与えられたものである。


『明治草』より

2015年4月11日土曜日

今日のクロイワ 22 [中島斌雄]  / 黒岩徳将



讃美歌や揚羽の吻(くち)を蜜のぼる  中島斌雄

讃美歌にはその高音域も手伝ってか、天・上昇のイメージがある。大体に上五で切ってしまうことで、そのイメージが揚羽としっかりとぶつかった。しかも、揚羽蝶をズームで捉えているところに心を掴まれる。人間と生物の間に流れる時間の響き合いに身を預けたい。

<『光炎』(1949七洋社)所収>

2015年4月5日日曜日

今日のクロイワ 21 [関悦史]  / 黒岩徳将


布団の横白馬現れ消えにけり    関悦史

常套な読み方としては、布団に潜っている人の夢の中に白馬が…と思ったのだが「横」に引っかかった。白馬なので、足音はしないと感じた。また、白馬は何匹が出入りしている気がする。寝苦しいのか、それとも意外にすやすや眠れるのか。

筆者の読みの世界の範疇にはなかった作品である。例えるならピーカブースタイルのボクサーの堅固なガードをすり抜けて打つパンチのようだ。

(GANYMEDE vol.63 50句作品「断片A」より)

2015年3月30日月曜日

今日のクロイワ 20 [本井英]  / 黒岩徳将 



雪片の白とは違ふ黒ではなく   本井英

指先、もしくは掌に落ちてくる雪をまじまじと見ている。

難しい言葉は使っていないのだが、「異なる」ということを表すのに2種類の言葉を使っていること、どうしても「ではなく」と書きたかったのだろうと思わせる。

俳句的表現において、例えば比喩を表す語彙は「ごとく」「ように」だけでなく、「めく」「ふさわしき」「似て」などもある、ということを先輩俳人に教えてもらったことがある。

それと近いもので、「異なる」も様々な言い方があり、二つの表現を一句の中に持ち込むことで、この雪が白70%黒30%なのか、ハーフアンドハーフなのかということを考えるのがとても楽しい

(「夏潮」2015 3月号より)

2015年3月9日月曜日

今日のクロイワ 19 [阿波野青畝]  / 黒岩徳将


六甲を低しとぞ凧あそぶなる    阿波野青畝

凧の揺られる様を単に「あそぶ」と表すだけでなく、六甲山と比較した。六甲は「阪神タイガース応援歌」にも「六甲颪に颯爽と」と歌われるが、語感からもなだらかさ、やさしさがあるように感じられる。

「とぞ」「なる」のゆったり感も相まって、遠近感と人情が読者にしっかりと届いている。



『國原』より

2015年3月3日火曜日

今日のクロイワ 18  [綾部仁喜]  / 黒岩徳将


更衣駅白波となりにけり    綾部仁喜
扉が開き、車両からホームへ今か今かと待ち構えていた白い服の人々が飛び出した直後だろうか。もしくはぎゅうぎゅうの改札から抜け出し三三五五となる直前だろうか。「綾部仁喜の百句」によると 「『中央線八王子駅隣接の一病院に入院中の作』という自註がある。」とのことだが、改札説でも面白いのでは、と思った。いや、ホーム説の方が景が立体的だろうか。

対象化された映像としての「白波」という言葉の選択は比喩としての力を持つだけでなく、自分がこの「白波」の一部と成り得るのだ、ということも思わせてくれるのがこの句の強さである。どどどど…という音が筆者には聞こえてきた。

2015年2月18日水曜日

今日のクロイワ 17  [朝田海月]  / 黒岩徳将



テント張る男言葉を投げ合って     朝田海月

第12回龍谷大学青春俳句大賞 高校生部門入選作」より。

男言葉とわざわざ書いているからには女子の行動だろう。骨組みの設定、危うい足の動き、しっかりと支える手という様々な注目ポイントがあるなか、見事スポットライトが当たったのは言葉であった。「俺に任せろ」「おいそれをよこせ」「がっってんだ」…現代の高校生の句と考えると上記のような言葉は古すぎるかもしれないが、威勢と調子の良さからむくむくとできあがるテントを想像させて楽しい。

と思ったら、堀下翔氏より連絡があり、この句にはなんと岡本眸の先行句があるらしい。

キャンプ張る男言葉を投げ合ひて  岡本眸

確かに、平成26年としてはキャンプよりもテントであってほしい。高校生に天晴れという気持ちである。







2015年2月12日木曜日

きょうのクロイワ 16 [塚本みや子]  / 黒岩徳将


縄電車傾きながら春野来る 塚本みや子

筆者は縄電車という遊びをしたことがない。想像でしかないが、楽しく、ときに甲高い子どもたちの声が聞こえてきそうだ。懐かしの遊びを題材にしてノスタルジーを演出する俳句は類想がありそうだが、中七の「傾きながら」が面白い。縄電車が傾くためには一番前と一番後ろがしっかりと張っていないと難しいだろう。何人いるかはわからないが、この縄電車のチームワークは相当によい。凄まじい勢いで春野を駆けてほしい、なぜなら筆者にはもはや難しいことであるからである。

<夕凪 2014年7月号(No.789)より>