-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年9月4日月曜日
続フシギな短詩199[吉田恭大]/柳本々々
名詞から覚えた鳥が金網を挟んでむこう側で飛んでいる 吉田恭大
最後はこの歌で終わりにしようと、おもう。
高柳蕗子さんが『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』において最後にあげられている歌だ。
喜びも悲しみもしない。この無感動には、“興ざめ”が感じられる。
[向こう側]が見えているにもかかわらず、ここは[果て]なのだ。その遮るような遮らないような状態を「金網」が表していると思う。……
言葉の[果て]は眼前にある。表現はその[こちら側]のものである。……
見つけた人がいる以上、言葉の[果て]はこの先も少しずつ意識され続けるだろう。
(高柳蕗子『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』)
「名詞から覚えた鳥」という記号と物の一致する「鳥」が「金網」の「むこう側」を飛んでいる。そのとき鳥の名前である記号表現とその鳥の意味そのものの記号内容と、今実際に飛んでいる鳥そのものを一致させることはできる。しかしそれは金網のむこう側にいる。《みる》ことはできる。しかし、みたからといって、この届かなさは、なんなのか。しかし、その届かなさを意識できた人間だけが届いてしまう領域がある。
ああむこう側にいるのかこの蠅はこちら側なら殺せるのにな 木下龍也
「むこう側」にいる「蠅」。《みる》ことはできる。しかし「こちら側」にいないので、「殺せ」はしない。ここには、「むこう側/こちら側」という記号的分節が、現実の分節に及んでしまった人間が描かれている。これもひとつの届かなさだが、この届かなさに届いてしまった人間だけが入り込めるところに踏み込んでいる。
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系
「理解できる人/理解できない人」という〈脳〉の問題。しかしそれも単なる「電車が通過するから危険/電車が通過するということがわからない危険もわからない」という〈記号の答え合わせ〉的問題に過ぎないような状況。だとしたら、理解とはなんなのか。理解と記号の関係は? だれが理解できて・だれが理解できないのか。そして、どんな大きな主体が、わたしたちを「こちら側」と「むこう側」にわけているのか。大きな主体は、金網を《どこ》に用意している?
短詩をずーっとみてきて今思うのは、この「こちら側」と「むこう側」の問題だったようにおもう。定型は、どうしても〈外部〉をつくりだす。でもその〈外部〉は捨て置かれずに、内側に取り込んでいくのもまた定型詩であり、短詩である。でもそのうちとそとの境界線を、それを読む人間は、〈どこ〉に据えたらいいのか。それが、短詩には、ずーっと問われているような気がする。定型とは、つまり、吉田さんの歌のことばを使うなら「金網の置きどころ」なのではないかと、おもうのだ。
金網は、どこにあるのか。
ずっとそれがわからなくて、ひとは短歌を読んだり川柳を読んだり俳句を読んだりするのではないか。
外にいっても外にいってもどれだけ外にいってもずっと内側においてある自転車。この自転車は、なんだ?
外国はここよりずっと遠いから友達の置いてゆく自転車 吉田恭大
(「袖振り合うも」『短歌の酵母Ⅱ 空はともだち?』沖積舎・2016年 所収)
2017年6月17日土曜日
続フシギな短詩126[吉井勇]/柳本々々
かにかくに祗園はこひし寝(ぬ)るときも枕の下を水のながるる 吉井勇
加藤政洋さんの『モダン京都 〈遊楽〉の空間文化誌』(ナカニシヤ出版、2017年)を読んでいたら面白い指摘があった。
上の吉井勇の歌は有名な歌で短歌のアンソロジーなどを読んでいるとよく眼にする歌である。たぶん「枕の下を水のながるる」という比喩が現代的でいまだに有効だからじゃないかとも思う(ちなみに枕って音響装置的役割をすることが本当にあるのだ。たとえばマンション暮らしをしていると枕に耳をつけて眠ると下の階の話し声が聞こえたりする時もある。枕の下には世界が広がっている)。
で、加藤さんが指摘しているのは、この吉井の歌と谷崎潤一郎の歌の比較である。谷崎潤一郎は著作の中でこの吉井の歌を引用している。ところが谷崎は〈まちがって〉引用しているらしいのだ。
吉井勇の歌に、「かにかくに祗園はうれし酔ひざめの枕の下を水の流るゝ」と云ふ吟詠があるのは、……
(谷崎潤一郎「青春物語」)
吉井の歌の第2句・3句の「こひし寝るときも」が、谷崎引用バージョンでは「うれし酔ひざめの」になっているのだ。
吉井勇の歌では「こひし」だった箇所が、谷崎が引用した歌では「うれし」になってしまった。この谷崎の〈引用間違い〉によってなにが言えるだろう。
「恋し」は、距離を前提する語句だから…、今はもうそこにいないという空間的な次元と、時間的な事後性とを含意する。つまり、恋しい《祗園》を離れている状態でうたわれているものとみるべきであろう。
(加藤政洋、同上)
だから吉井の歌の語り手は、祗園から離れている。ところが谷崎の歌の「うれし」は、
酔いの醒めるのが夜半であれ、明け方であれ、あるいは翌朝であっても、その場の満足感をうたっている
(加藤政洋、同上)
だから谷崎の引用歌の語り手は、《祗園そのものの場》にいることになる。
つまり、わたしは恋しい、と、わたしは嬉しい、の語り手の位置性の違いである。恋しいというひとは離れた場所にいるが、うれしいというひとは今・そこにいる。
吉井は祗園《で》ではなく(no-where)、祗園《を》うたった。それに対して、谷崎の「酔ひざめ」には、「今・ここ」性がある(now-here)。
(加藤政洋、同上)
谷崎にとってこの歌は、〈今・ここ〉的な歌だったのだ。
この加藤さんの指摘からわかることはなんだろう。
わたしは別に引用を間違えることを推奨するわけではない。でも、引用を間違えたとき、そこにはなんらかの〈当事者性〉が入るということは考えてもいいのではないかと思う。〈わたし〉や〈あなた〉の問題として。
短歌の引用は、よく間違えるし間違えられる(私もできるだけ気をつけているのだがやはり間違えることがある)。間違った引用は直さなければならないが、直す時にあなたがその歌の引用の〈当事者〉としてどうして〈そう〉間違ったかを考えてみてもいいかもしれない。あなたが〈だれ〉であったのかを。
わたしは昔、木下龍也さんの「鯛飯タイムマシン」の歌(ラップ)を「蛸飯タイムマシン」と〈まちがえ〉てこんなことを言ったことがある。
たぶん自分に鯛飯文化がなかったんだとおもうんですよ。たこめししかしらなかったっていう。それでそのときのことを歌にしたら蛸飯タイムマシンになったんですよ。でもたぶんあの場にいないとまちがいはおこらないじゃないですか。なんかだからそういう体験の歌なんだとおもって。その場にいるからこそ間違いっておこるんです。そう、おもったんですよ。
(「鯛と蛸」『きょうごめん行けないんだ』食パンとペン、2017年)
何度も言うが間違いは正当化されることなくちゃんと直さなければならない。それをふまえた上で、でも〈間違ったじぶん〉がどうして〈間違った〉のかも考えてみてもいいかもしれない。それはあなたが、そのとき・そこに・あなたとして・そういうかたちでしかいられないかたちで・いた、ということにもなるかもしれないから。
わたしたちは別に短歌でなくても、日々、だれかの、テレビの、ネットの、ほんの、まんがの、えいがの、言説を引用している。でも引用されていくうちに、引用者の〈当事者性〉が塗り重ねられていく。わたしたちは歴史的な存在だから、そこにわたしたちの今・ここが塗り重ねられる。
引用者は透明な存在ではない。いや、わたしたちは透明じゃない。どんなに透明であろうとしても、あなたは透明ではない。そこにはかならず〈あなた〉がいる。その〈あなた〉にときどき出会ってみてもいいんじゃないか。そう、おもうんだけど。
(「祗園はうれし酔ひざめの……《祗園新橋》の強制疎開」『モダン京都 〈遊楽〉の空間文化誌』ナカニシヤ出版・2017年 所収)
2016年11月29日火曜日
フシギな短詩62[舞城王太郎]/柳本々々
絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対 舞城王太郎
舞城王太郎さんの現代怪談百物語でもある『深夜百太郎』にはその各話をコラボレーションとして短歌であらわした木下龍也さんの「深夜百短歌太郎」がある。
たとえば第三話目の「三太郎 地獄の子」は次のような歌に〈翻案〉された。
やめてくれおれはドラえもんになんかなりたくなぼくドラえもんです 木下龍也
私がこの木下さんの歌でとりわけ興味深かったのはこの歌に舞城王太郎さんの〈王太郎性〉のようなものがあらわれているのではないかと思ったからだ。それは、なんなのか。
そもそも〈王太郎性〉とはなんなのか。そんなことを簡単に言ってしまう柳本はうかつなのではないか。でも、ちょっと舞城さんのテクストをみてみよう。
「絶対絶対絶対絶対絶対絶対」
と私は絶対を並べてみる。…絶対前田さんは前田さんでいてね、みたいなことだったのだが、それは言えず、私はひたすら絶対絶対と言うだけだ。
「絶対絶対絶対絶対絶対絶対……」
すると前田さんが真顔で言う。
「怖いよ、藤田さん」
でも私の絶対は止まらない。
「絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対」
(舞城王太郎「三太郎 地獄の子」『深夜百太郎 入口』ナナロク社、2015年)
「三太郎 地獄の子」の〈こわさ〉は「絶対」という言葉=発話に意識や言語行為をジャックされる人間が出てくることだ。これは舞城さんの他の小説にも多々みられることだが言葉が過剰に反復されることによって明らかに〈意識が言語に汚染されてしまった人間〉があらわれるのだ。みずからの発話に意識をハッキングされる発話者。
だから舞城文学の〈こわさ〉は、そう言ってよければ、《言語に意識をジャックされた人間》が出てくる点にある。
「藤田さん」は「絶対」を連呼しているが、もはや絶対の意味は剥がれおち、ただ無機質な絶対だけが過剰に並びはじめる。「絶対」の意味を言いたいわけではなく、「絶対」を《言うことを言いたいだけ》の人間があらわれるのだ。
つまり、純粋に言語に汚染された人間。
意識が空白化し、ただ絶対言語だけがおがくずのようにぱんぱんに詰め込まれた言語案山子(かかし)のような人間、だから、それは「怖いよ、藤田さん」なのだ。
木下さんの歌をもう一度みてみよう。
木下さんの歌においてもこの〈意識のジャック〉が焦点となっている。そして、その意識のジャックは発話=文体によって行われているのに注意したい。
やめてくれおれはドラえもんになんかなりたくなぼくドラえもんです 木下龍也
この歌は、「ドラえもん」に意識をジャックされた人間の歌だ。「おれ」は「おれ」と自称した以上、人間であったはずだ。ところが意識をジャックされ「ぼく」という自称に変わった。意識が汚染されたのだ。
しかもそれは〈言語〉を媒介に行われた。「ぼくドラえもんです」はドラえもんの象徴としての決まり文句のようなものだが、その決まり文句としての言語によって意識が汚染されたことがわかるようになっている。しかも、唐突に・無根拠に。
この歌において問題なのは「ぼく」が「ドラえもん」かどうかなのではない。「なりたくな」の「おれ」の発話が唐突に断ち切られ、「ぼくドラえもんです」にジャックされてしまったことなのだ。そしてやはりそれは「怖いよ、藤田さん」なのである。
言語存在である人間にとってほんとうにこわいのは、ひとが言語によってジャックされてしまう瞬間なのだ。それは言語存在であるひとがほんとうに言語を《手放す》しゅんかんなのだから。
意識が言語によってハッキングされた人間。
このように木下さんは端的に短歌によって構造を抽出している。しかも「ドラえもん」というわかりやすいポピュラーな〈翻訳メディア〉を使い、〈翻案〉した。
だとしたら、もしかしたら短歌というのは、世界の構造を、端的に抽出できるメディアとしても機能するのかもしれない。そしてその抽出した短歌メディアは、わたしたちの意識のありかたを一瞬にジャックする。わたしたちは短歌という構造に感染するのである。
その意味で、「ぼくドラえもんです」というジャックされた言語感染は実は短歌を読む行為そのものだともいえる。それは絶対そうなんだと今回の文章の趣旨にならってわたしも言ってみたい。絶対に絶対絶対そうなんだと。もしそうでなかったとしてもそれは絶対だと。絶対絶対絶対絶対絶対
絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対」
「絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対絶対」
絶対ムリ
絶対そうさせない。
絶対お前を逃さない。
絶対離さない。
(舞城王太郎「三太郎 地獄の子」前掲)
(「三太郎 地獄の子」『深夜百太郎 入口』ナナロク社、2015年 所収)
2016年10月25日火曜日
フシギな短詩52[村上春樹]/柳本々々
「ご存じでしょうか。私の好きな短歌にこういうものがあります。『白鳥は哀しからずや/空の青/海のあをにも染まずただよふ』、なんという美しい短歌でしょう、岡田さん」 村上春樹村上春樹に「青が消える(Losing Blue)」(1992年)という短編がある。「アイロンをかけているときに、青が消えた。」の一文ではじまり、どんどん世界から青色が消滅していく物語だ。物語の時間は「1999年の大晦日の夜」の「二十世紀最後の夜」に設定されている。だからこの短編が掲載された1992年の時点からすれば〈ちょっとした未来〉だ。
青色が好きだった「僕」は「青の消滅」していくなかで公衆電話から「内閣総理府広報室」に電話をかける。NECが新しく作り上げた「コンピューター・システム」としての「総理大臣」が出て「総理大臣」は「僕」に若山牧水の短歌を引用しながら答えてくれる。
「青はまことに美しい色であります、岡田さん」と総理大臣の声が静かに言った。「ご存じでしょうか。私の好きな短歌にこういうものがあります。『白鳥は哀しからずや/空の青/海のあをにも染まずただよふ』、なんという美しい短歌でしょう、岡田さん」
「ねえ総理大臣、青がなくなってしまったんですよ」と僕は電話に向けて怒鳴った。
「かたちのあるものは必ずなくなるのです、岡田さん」と総理大臣は言い聞かせるように僕に言った。「それが歴史なのですよ、岡田さん。好き嫌いに関係なく歴史は進むのです」
(村上春樹「青が消える(Losing Blue)」『村上春樹全作品1990~2000①』2002年、講談社)
この物語では「青」をめぐる事柄が「政治」や「歴史」をめぐる〈大きな物語〉として語られる。「青はいったいどうしたんですか?」と「僕」が「白い駅員」に問いかけても「駅員」は「政治のことは私に聞かないでください」と「僕」をつっぱねる。「僕」は「青」が大好き(僕の〈小さな物語〉)なのに、牧水の歌の「白鳥」=〈小さな物語〉のようにその「青」=〈大きな物語(空の青/海のあを=世界の青)〉から排除されている(「総理大臣」が「私の好きな/美しい短歌」として「好き」「美しい」という〈小さな物語〉の枠組みで「青の消滅」=〈大きな物語〉を語ろうとしていることに注意したい。「総理大臣」とは〈小さな物語〉を〈大きな物語〉にすり替える人間なのかもしれない)。
短歌においてはちょっと不思議な〈色の系譜〉のようなものがある。思いつく限りで任意に引用してみよう。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書 穂村弘
(『ラインマーカーズ』小学館、2003年)
(『新鋭短歌シリーズ18 トントングラム』書肆侃侃房、2014年)
(『きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房、2016年)
牧水の〈色をめぐる歌〉を〈大きな物語=空の青/海のあを〉に排除されてある〈小さな物語=白鳥〉と春樹の短編に沿って読んでみるならば、〈色の短歌〉とはそうした〈大きな物語〉と〈小さな物語〉がせめぎあう構造的葛藤の場として読むことができるかもしれない(そこからなぜ村上春樹『ノルウェイの森』の「緑」は「緑」だったのかも考えることができるかもしれない。「緑」の言葉を思い出そう。「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょ?」)。
その意味では、短歌になぜ〈きらきら〉や〈光〉が頻出するのかもちょっと考えてみたいところだ。
キラキラに撃たれてやばい 終電で美しが丘に帰れなくなる 佐藤りえ
(『フラジャイル』風媒舎、2003年)
(『やがて秋茄子へと到る』港の人、2013年)
〈大きな物語〉と〈小さな物語〉のはざまを「染まずただよふ」こと。色(カラー)を意識してしまった人間はその色彩的実存を引き受けることになる。多くの村上春樹の主人公「僕」がそうであるように青が消滅していく世界の「僕」もまた「わけのわからないままどこまでも通りを歩い」ていく。
「わけのわからない」状態は、〈大きな物語〉にも〈小さな物語〉にも回収されず「染まずただよふ」ことだ。言わば「やれやれ」的主体。「やがて町中の時計が十二時を打っ」て世界は2000年に踏み込んでいく。「みんな」は「一斉に歓声をあげ、歌を歌ったり、物を投げたり、抱き合ったり、シャンパンを抜いたりした。新しいミレニアムがやってきたのだ。誰も消えた青のことなんか気にしてはいなかった」。
《でも青がないんだ》、と僕は小さな声で言った。《そしてそれは僕が好きな色だったのだ》。
(「青が消える(Losing Blue)」『村上春樹全作品1990~2000①』講談社・2002年 所収)
2016年7月12日火曜日
フシギな短詩25[木下龍也]/柳本々々
幽霊になりたてだからドアや壁すり抜けるときおめめ閉じちゃう 木下龍也
木下さんが描く幽霊はいつも〈いきいき〉している。たとえば、
ザ・ファースト・クリボー無限回の死を忘れて無限回の出撃 木下龍也
リクルートスーツでゆれる幽霊は死亡理由をはきはきしゃべる 〃
任天堂の『スーパーマリオブラザーズ』に出てくる敵キャラクターのクリボーはゲームのシステム上じぶんじしんの〈死〉を忘れて何度も〈いきいき〉と出撃してくるし、「リクルートスーツ」を着込んだ〈生まれたて〉の幽霊たちは生前よりも〈いきいき〉とするかのように「はきはき」と「死亡理由」をしゃべる。
これはいったいどういうことなのか。
私が思ったのは、ここで起こっている事態とは〈死の/への忘却〉ではないかということだ。
ひとはその生の過程においていろんなことを忘れていくが、ひとは〈死〉の過程において〈死〉さえも忘れる。それが木下さんの歌におけるひとつの〈死生観〉なのではないか。
だから「幽霊になりたて」の自分は〈死んでいる身体〉を忘れ、〈生きていた身体〉を自動的に想起し、反射的に「おめめ」を「閉じ」てしまう。〈わたし〉の意思にかかわらず、身体のシステム、思い出のシステム、忘却のシステムが〈そう〉させてしまうからだ。
「クリボー」もそうだ。じぶんの〈死〉をわすれて、ゲームのプログラムのシステムによって何度でもマリオにつっこんでくる。「リクルートスーツ」もまた〈就活〉というプログラム化されたものである以上、〈死〉を忘れさせる装置になる。
このとき大事なことは、〈忘却〉である。この〈忘却〉にこそ、木下さんが描く幽霊の〈いきいき〉がある。そしてそこから逆照射されたわたしたちの生も。
なぜ、死の忘却にわたしたちの生があるのか。
それは、忘れることが、生者の特権だからだ。
ひとがなにかを忘れるということ。ついうっかり忘れてしまうということ。それが〈生きている〉ということであり〈生の複雑さ〉なのだ。
いっけんわたしたちの生はシステムによっているようでいて、それでもそのシステムのプログラムを忘れ、ノイズを引き起こしてしまう。それが生きていることのやっかいさであり同時に愛おしさでもある。生きるとは、この生のノイズを増幅させることであり、たとえ幽霊になったとしても〈その死〉に対し〈このわたし〉が〈生きるおっちょこちょい〉であることにほかならないのだ。
だから木下さんの「おめめ」は〈幽霊〉化したはずの死のプログラムに生のエラーを引き起こす。〈彼〉はまだ〈生きている〉のだ。誰のシステムでもない、じぶんじしんの生として。
どれだけ〈わたし〉が死んだとしても、まだやってくる生のたくましさと愛おしさ。「おめめ」、この愛すべきもの。
(「雲の待合室」『現代歌人シリーズ12 きみを嫌いな奴はクズだよ』書肆侃侃房・2016年 所収)
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