ラベル 加藤楸邨 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 加藤楸邨 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年1月16日月曜日

DAZZLEHAIKU67[加藤楸邨]  渡邉美保

 その冬木誰も(みつ)めては去りぬ     加藤楸邨


 「その冬木」のことは一切描写されていないのだけれど、読者には読者なりの「その冬木」が目に浮かぶ。

 寒空の下、木はすっかり葉を落とし冬らしい姿になっている。木の瘤も顕わになったその冬木は、平然と空に向かって立っている。漠然とだが、その木には逞しい生命力が宿っているように感じられる。昔からずっとそこに、意志を持って立っているかのような佇まいの、「その冬木」なのだ。

 その冬木の立つ道を、多くの人が通り過ぎてゆく。その冬木を見つめるが、その木に触れることも、木を抱くこともなく、寒い道を足早に立ち去っていく。

 掲句、「誰も嘳めては去る」というシンプルな表現で、冬木の存在感と、冬ざれの寒々とした光景が描かれている。

 作者は「その冬木」をじっと見つめ、「瞶めては去る」人々と、その冬木との間の、一瞬のかすかな交流を感じているのだと思う。

〈岩波文庫『加藤楸邨句集』(2012年/岩波書店)所収〉

2016年2月16日火曜日

フシギな短詩2[北大路翼]/柳本々々



  乳輪のぼんやりとして水温む  北大路翼

ひとは、どうやって、〈乳房〉にたどりつくんだろう。

でも、掲句は、「乳輪」である。〈乳房〉ではない。どうして、だろう。

この句の季語は「水温む」だ。春の水は〈あたたかい〉というよりも、〈ぬる〉んでいる。冬の水とも違うし、夏の水とも、ちがう。

  水温むとも動くものなかるべし  加藤楸邨

という句があるように、春のぬるんだ水と〈動・物〉は親和性が高い。ぬるむからこそ、ようやく、動き出せるのだ。

掲句において、このぬるんだ水の中で語り手が発見した〈動・物〉は「乳輪」だった。しかもそれは「乳首」でも「乳房」でもない。〈突起物〉ではなく、語り手は〈乳輪=円環〉という〈図〉をぬるんだ水のなかに見ているのだ。

語り手は、「乳輪」という〈図〉を、みている。〈図〉は視覚によって構成されるものだが、お湯をとおしてみている以上、〈図〉は明確には再構成されえない。

「水温む」という季語を通過した「乳輪」は「ぼんやりと」する。となると、語り手は、「乳輪」を見ながらも、その「乳輪」を見ることを「水温む」によって阻まれているといってもいい。〈季語〉に阻止されたのだ。

だとしたら、こう言ってもいいのではないか。

語り手は、〈季語〉によって〈乳輪=性〉にたどりつくことを阻害されてしまったのだと。

目の前のお湯のなかの〈乳輪〉を通してそこにあらわれたのは、〈俳句〉だった。〈性〉ではなかった。

語り手は「乳輪」をみながら「水温む」をとおして、〈俳句〉のことを考えている。かんがえてしまっている。〈性〉でもなく、〈乳房〉でもなく。

だからこう言うしかない。

俳句は、乳房に、たどりつけない。

          (「春立つや」『天使の涎』邑書林・2015年 所収)