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2017年9月2日土曜日

続フシギな短詩195[村木道彦]/柳本々々


  するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら  村木道彦

とても有名な村木道彦さんの歌なのだが、「するだろう」という出だしをみてわかるように一首単位では意味がとれないようにつくられている。

ただその不安定さが魅力といえば魅力で、たとえば「ぼくをすてたるものがたり」をするのは、「ぼく」がするのか、それとも「ぼくをすてた」あなたがするのか、「マシュマロ」をくちにほおばりながらそのようにはなすのは〈だれ〉なのかという不安定さが魅力にもなっている。たとえば「するだろう」という切り出し方などは、この歌が、〈無人称〉をみずから選び取っているような強さがある。

でも、連作のなかでこの一首を読んだらどうなるのか。

この歌は、「緋の椅子」という連作のなかにおさめられている。

このマシュマロの歌の次に置かれているのは次の歌である。

  秋いたるおもいさみしくみずにあらうくちびるの熱 口中の熱  村木道彦

「秋」に「いたる」「おもい」は「さみしく」(捨てられたからだろうか)、「みずにあらうくちびるの熱」を感じ取っている(マシュマロを食べたから洗っているのだろうか)。もちろん、歌と歌は隣に置かれたからといってそんなにダイレクトな接続はしないが、続けてみて気になるのは、「くちにほおばりながら」から「くちびるの熱」がゆるやかに連鎖しているということだ。むしろそちらの感覚的連鎖が気になってくる。

では、マシュマロの歌の前にはどんな歌がのっていたのか。

  耳のみがふき遺されているわれにきれぎれやなんの鐘ぞきこゆる  村木道彦

ちょっと謎めいた耳なし芳一のような歌だ。耳だけがふきのこされていて、きれぎれになにかの鐘の音がきこえるのだが、それがなんの鐘なのかわからない。とてもこの後にマシュマロの甘い歌がくるとは思えないような、けっこう奇怪な歌だと思う。

三首を順番どおりにならべてみよう。

  耳のみがふき遺されているわれにきれぎれやなんの鐘ぞきこゆる  村木道彦
  
  するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら  〃

  秋いたるおもいさみしくみずにあらうくちびるの熱 口中の熱  〃

こうして並べてみると、〔聴覚(きこゆる)〕→〔聴覚(するだろう/ものがたり)+触覚(マシュマロくちにほおばりながら〕→〔触覚(くちびるの熱)〕と感覚が推移していくのがわかる。「するだろう」の主体のわからなさは、「なんの鐘ぞきこゆる」と鐘の音の主体性のわからなさと響きあっている。それは「ぼく」かもしれないし、「ぼく」をすてたあなたかもしれない。でも、それは「きれぎれ」にきこえるものであって、《わからなくてもいい》。

「耳のみ」だった聴覚への感覚は、「マシュマロ」を口に放り込んだ瞬間、触覚への関心に変わり、ぼくは触覚へとらわれ、「ぼくをすてたるものがたり」自体を忘れ、「くちびるの熱 口中の熱」と口=触覚への関心にうつるだろう。

こうして連作として並べてみると、このマシュマロの歌で問題となるのは、《だれが・どうした》という問題ではなくて、《ぼくの感覚の推移》という問題ではないだろうか。この「するだろう」は、「ぼくをすてたる」というロマンに比重が置かれそうだが、そうではなくて、「くちにほおばりながら」に重心がおかれる歌なのではないか。

つまり、マシュマロ感覚の歌、と。だから、この感覚の特権化は、「するだろう」という感覚的な切り出し方を用意する。それは、「なんの鐘ぞきこゆる」のように感覚的な「するだろう」であって、だれが・どうした、というような発話が正確におかれたものではないのだ。

このように《感覚》からこの歌を読んでみると一首単位で読むのとはまた違った風景がみえてくる。ちなみに、この連作の最後の歌に置かれたのは、やはり視覚の特権化の歌なのだ。めの歌。

  めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子  村木道彦

この《感覚》から読むというのは春日井建が次のように村木道彦歌集におさめられた歌人論に書いている。

  視覚 聴覚 味覚 触覚の五官、あるいは気分 神経 欲望といった生理的に実感できるものを村木は抒情する。その姿勢はまぎれもない。
  (春日井建『村木道彦歌集』)

また連作から「感覚」を鍵語に読まれている方もいる:「村木道彦の「緋の椅子」。

最後にこんなことをつけくわえておきたい。マシュマロの歌の「するだろう」という独特の切り出し方なのだが、村木さんにはこんな歌がある。

  ーー。そしてなお、空にも虚構あるごとく朗々として雲そそりたち  村木道彦

  ジャンプ! 三歩助走のアタッカー突きぬけてむなしきものをこそ撃て  〃

  たれか? かぜか隣室に本をめくりおる顔あげぬままわれは伏しいて  〃

  ああ そらに雲の出でたるそのこととわれの生(あ)れたること異ならず  〃

こうした唐突な切り出し方の歌が村木さんの歌集には多い。とくに、「ーー。」などの表現方法は今みても新鮮かもしれない。これも先の枠組みでいえば、理(ことわり)よりも、感覚的発話・衝動的発話が、優先されてしまうということが言えないだろうか。感覚的発話なのでそれは片言になるのだが、まず、感覚的に読み手を刺すのだ。

だから、「するだろう」って「だれがするの?」と聞かれたときは、こう答えたい。感覚がするんだよ、と。

  ついてくるだれひとりないまひるまはまひるまにわれおいつめられて  村木道彦

          (「緋の椅子」『現代歌人文庫 村木道彦歌集』国文社・1979年 所収)

2017年1月17日火曜日

フシギな短詩76[八上桐子]/柳本々々


  はなびらを噛んでまぶたのすきとおる  八上桐子

神戸新聞において元旦から「時実新子没後10年」として「新子を読む 新子へ詠む」という連載記事があったのだが、第一回目は八上桐子さんだった。

八上さんは新子さんの

  花びらを噛んでとてつもなく遠い  時実新子

という句をあげた上で、自身の句として

  はなびらを噛んでまぶたのすきとおる  八上桐子

という句を詠んだ。

ここでなにかの句に対して、もうひとつの句を〈わたし〉として詠むとはどういうことなのかを考えてみたい。「新子《へ》詠む」ということは八上さんにとってどういうことだったのか。

新子さんの句では「とてつもなく遠い」と対象の遠さが語られていたが、八上さんはその対象をみずからの身体に取り込み、「まぶたのすきとおる」とすることによって自身の身体の遠さとして描いた。

「まぶたのすきとおる」という比喩はいろんな解釈ができると思うが、私はこれを《じぶんの身体が透明化して遠さをもつこと》としてみたい。

新子句の物理的な距離は、自身の身体的な遠さとして描き直されることによって、自身の内面の〈遠さ〉を生んだ。つまり、新子さんの句を〈内面化〉したのだ。

八上さんは記事においてこの新子句を「感覚的な句」と評したが、〈感覚〉として「新子を読」んだ立場から、さらにその〈感覚〉を先鋭化させ、身体のびんかんな「まぶた」に遠近を転移させ「新子へ詠」んだ。

ひらがな表記の「はなびら」というのも、漢字変換される前の、まだ〈感覚・知覚〉段階の、意味になる前の「はなびら」であるように思われる。

まとめよう。

なにかの句に対して、自身の句を詠むということは、まずその句の自分なりの〈読解〉を提出し、その〈読解〉したものを先鋭化させたものを〈詠む〉ということなのではないか。

その意味で、なにかを〈詠む〉ということは〈読む〉ことなのであり、〈読む〉ということはたえざるなにかを〈詠む〉ことなのだ。自身の、〈わたし〉の、文脈のなかで。

私の時実新子像は八上桐子さんらが編んだ新子アンソロジーに多くを学んだ。今でも読み返してはそこから新しい新子のイメージを教えてもらう。そこには、新子さんのなにかが受け継がれながら、なにかがある決意とともに〈切断〉されている。

受け継ぐことには切断が必要とされる逆説。

ひとがなにかを引き継いでいくということは、その受け継ぎと切断のぎりぎりの決意にあるのではないかと、思う。

そしてそのときの切断とは、〈まぶた〉のことなのだ。

「まぶた」は閉じるときに使われるものだ。眼をとじて、まぶたのなかで、はじめてみえてくる世界がある。なにを見るか、ではなくて、まぶたを閉じた上で、なにを見ないことで・見ようとしたのか。決意したのか。

まぶたのすきとおる」まで眼を閉じること。閉じていてさえ、見えてくるまで。

大事なときにひとは眼をつむる。そして、あえてすれ違いに身を乗りだしていく。

味が出てくるまで、突き詰めるまで、「すれ違」いつづけることを。

  シマウマの縞滲むまですれ違う  八上桐子
    (「植物園の半券」『川柳ねじまき』2号・2015年12月)


          (八上桐子(平松正子・まとめ)「新子を読む 新子へ詠む 時実新子没後10年1」『神戸新聞』2017年1月1日 所収)