-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年9月23日土曜日
超不思議な短詩228[ドラゴンクエスト]/柳本々々
ぎこそざだ とてつちにひふ へねてとだ ぢりび ふっかつのじゅもん「ドラゴンクエスト」
現在ゲームはオートセーブ機能があって突然アプリが終了してしまってもゲームが勝手に事前にセーブしてくれていたところから進めることができる。だから何かの事態が起きてもそこまで頭をかかえて膝をついて苦悩することはないのだが、『ファイナルファンタジー』発売の1987年までセーブは画面に映し出されたパスワードを紙に書き取り、再度プレイするときは、その紙のパスワードを打ち込んで始めていた。だからそのパスワードの書き取りが間違えると、すべてのそれまでの冒険データは消えることになる。このパスワードは、遊び手の前に立ちふさがる「画面外の“敵”」とまで呼ばれた。
『ドラゴンクエストⅠ』『Ⅱ』では、セーブの代わりにパスワードを入力する方式だった。「じ」と「ぢ」や「ぬ」と「ね」を間違えて、苦難の結晶である冒険の記録がパーになる。ああ、悪夢!
(『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』)
『ドラゴンクエスト』(1986)のパスワードは意味不明な言葉の羅列が「ふっかつのじゅもん」と呼ばれていたのだが、意味不明な羅列のため、書き取り間違いを起こしやすかった(入力が違うと「じゅもんが ちがいます」と無情なテロップが出る)。ただ意味不明だけでなく、実はこの「ふっかつのじゅもん」は《定型》もそれとなく取り入れていた。
バックアップメモリなどがなかった時代、データを保存するために考えられたのが復活の呪文。単なる進行度のパスワードではなく呪文の中に経験値などのでーを含むというアイデアが秀逸であった。五・七・五・三の韻を踏んだ日本的なリズムも味がある。しかし、所詮はデータ、無意味な音の羅列にドラマが生まれる。…夢中でメモした紙が会社の重要書類や保険証だったり。
(同上)
意味不明なじゅもんの羅列であったとしても、かすかな〈ユーザーフレンドリー〉としての 「五・七・五・三」の定型意識。当時の『ドラゴンクエスト』のプレイヤーたちは、ゲームをプレイしながら、中断するたびに、〈定型詩〉を紙に書き記していたとも言える。そしてその定型詩は世界にアクセスするためのものであったのだが、その書記行為の精度によっては、二度と世界へアクセスできなくなってしまう。
こうした書記行為と世界のリンク/アクセスをずっと短歌で考えていたのが荻原裕幸さんだったのではないかと思う。
『ドラゴンクエスト』発売翌年の1987年に荻原さんは短歌研究新人賞を受賞しているが、荻原さんの短歌には「ふっかつのじゅもん」のような書記行為と世界がリンクする歌が出てくる。
90年代後半の歌になるが
歌、卵、ル、虹、凩、好きな字を拾ひ書きして世界が欠ける 荻原裕幸
(『デジタル・ビスケット』)
「好きな字」という〈自由な書記行為〉(書取の逸脱)が〈世界(データ)の喪失〉に結びつくこと。「ふっかつのじゅもん」のように書記のあり方がデータ=世界が消えることに結びつく。
あえてゲーム文化を枠組みに読んでみると、書記行為と世界のリンクの風景がみえてくる。
92年の歌集『あるまじろん』は書記行為/文字意識への問いかけをめぐる歌が多いのだが、
だだQQQミタイデ変ダ★★ケレド☆?夜ハQ&コンナ感ジダ 荻原裕幸
などは80年代後期のファミコンのバグ画面の質感、読みとれそうなメッセージがバグによってノイズ入りまくりになってしまう〈読みとりぎりぎりの文章〉になっていく、詩的バグの風景を想起させる。
こうしたバグはカセット方式からCD読みとり方式に変わった94年のプレイステーション発売によってなくなっていくのだが、それと共にまた書式意識の仕方も変化していく部分もあるかもしれない。
ときどき思うのだけれど、わたしたちの書記意識を支えているものはなんなのだろう。わたしたちが眼にする文字量は、本よりも、ネットの文字データのほうが、ブログのほうが、ゲームのテキストのほうが、テレビのテロップのほうが、LINEの書き込みのほうが、多くないだろうか。
だとしたら、わたしたちの書記意識を支えているものは、なんなのだろう。書記意識というと、すぐに本や書物といった規範になりそうなのだけれど、日常的にフローに流れているメディアのなかに実は書記意識があったりしないだろうか。
日本語が日本語になるまでの「数秒」の非日本語意識は、いつも・いま・どこに、あるんだろう。
春の夜のラジオの奇声を日本語と識別できるまでの数秒 荻原裕幸
(『別冊宝島 決定版! 僕たちの好きなTVゲーム』宝島社・2010年 所収)
2017年9月20日水曜日
超不思議な短詩226[千葉雅也]/柳本々々
ツイッターの一四〇字以内というのも、短歌の五七五七七やフランス詩の一二音節も、非意味的切断による個体化の「原器」であると言えるでしょう。 千葉雅也
千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』という本は、すごく乱暴に簡略に(かつ私が理解できた範囲で)言えば、現在のなんにでもすぐアクセスできてしまうような接続過剰の世界で、どのように〈切断〉をみずから持ち込み、取り入れるか、〈動きすぎてはいけない〉をつくりだせるか、ということが書かれていたように思うのだが、その〈切断〉の〈器〉のヒントは、実は、ツイッターメディアの制約された文字数や定型にもあるのかもしれない。
たとえばすごくかんたんに言うとこんな経験はないだろうか。あの番組をみなくてはならない、あれをブログに書いておかなくてはならない、あのサイトをチェックしなくちゃならない、Amazonがまた商品をおすすめしてきていて・しかも自分の嗜好にどんぴしゃなので・買わなければならない。これは、接続過剰の一例である。わたしたちはたぶんもう〈とまっていて〉も、どんどん・動く。動きすぎる。動きすぎて(どこにも)いけない。
つまり、今考えなければならないのは、どれだけわたしたちが動いていけるか、ではなくて、どういうふうに工夫して〈動きすぎない〉でいられようにするか、接続過剰な世界で、切断をはぐくんでいけるか、ということなのだ。
ツイッターの一四〇字以内というのも、短歌の五七五七七やフランス詩の一二音節も、非意味的切断による個体化の「原器」であると言えるでしょう。これら様々なフォーマット、決まり事は、私たちの「もっと」=欲望の過剰を諦めさせるものであり、精神分析の概念を使うならば「去勢」の装置である。けれども、おそらくこう言えるのではないでしょうか。去勢の形式は複数的である、と。つまり、《諦めさせられ方は、複数的である》。だから、別のしかたでの諦めへ旅立つこともできるのです。
(千葉雅也「あとがき」『別のしかたで』)
千葉さんのこの本の「別のしかたで」というこのタイトルが重要だと思うのだが、この文章を読んで気付くことがふたつある。
まずひとつは、あ、そうか、定型っていうのはひとつの去勢の練習になるんだということだ。そして、もうひとつは、去勢というのはひとつなんかじゃない、実はいろいろあって複数なんだ、ということだ。
ここには二重の「別のしかたで」がある。
ひとつは、とまらない欲望をあえて切断し、定型をとおして、去勢させることで、みずからの欲望の「別のしかた」、言語や思想や世界の「別のしかた」に出会うこと。
もうひとつはその「別のしかた」の去勢のありかた、欲望や、発話や、思想や、世界の去勢された「その別のかたち」自体にさらに「別のしかた」が《いろいろ》あるのだという《別のしかたの複数性》に気付くこと。
以前とりあげた筑紫磐井さんの句をみてみよう。
行く先を知らない妻に聞いてみたい 筑紫磐井
「行く先」という〈意味論的な答え〉を「聞いてみたい」のだが、定型という「非意味的切断」に〈去勢〉されてしまう。ここには意味論的に問いかける主体が、非意味論的に切断される様態があらわれる。でも、こうした主体の去勢のありかた、躍動のありかたが定型詩なのだとも言える。定型詩は、いくら問答体のていをなしても、答えをみちびきださない。さいごに、去勢されるから。
じゃあこんな短歌はどうだろうか。
雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁 斉藤斎藤
たしかに答えはでている。問い、「なんでしょう」。答え、「これはのり弁」。でも、このぶちまけられているのり弁にであっている出来事の「行き先」にたいする答えはない。それは定型が締め切ってしまっている。主体がわからない「ぶちまけられて」の無人称の暴発的な挿入。ここではまるでのり弁よりも人称がぶちまけられている。この歌の解釈は、いくつもの主体の「別のしかたで」が付随していくだろう。でも答えが定型詩そのものにはない以上、読み手の主体もつねに「別のしかたで」を続けてゆくしかない。定型詩は、答えることなく、締め切ってしまう。語り手に対しても、読み手に対しても。
定型詩というのは、〈わたし〉という主体の「別のしかたで」をずっと考えていく詩学なのかもしれない。ただそれは、答えがでた瞬間、その答えの「別のしかたで」がすでに・つねに待っているような、そういう詩学だ。
去勢を、別のしかたで、を考えること。
しかし、真剣に少しでも新しいものを作ろうと思ったら、あまりにも多くのことがなされてしまったという歴史に真剣に絶望しなければならないのです。
(千葉雅也『高校生と考える世界とつながる生き方』)
「別のしかたで」と極端に構えるのも、千葉さんの哲学のカラーとは少し違うように思う。たとえばこんなふうに日常のなにげない、とるにたらない、意外なところに「別のかたちで」は密輸できたりもする。それは「なんとなく」を「環境設定」としてとりこんでいく〈創造的な抜け穴〉になるかもしれない。
重要なのは、惰性的にやってしまう日々のルーチンのなかに、なんとなく勉強してしまえるタイミングとかをうまく組み込むこと。「惰性的に創造力を高めるための環境設定」をする。
(千葉雅也『別のしかたで』)
諦めることは、生成に、創造に実は深く関わっているんじゃないか(締め切りも)。
なぜツイッターの一四〇字以内がこんなに書きやすいかというと、それは、書き始めた途端にもう締め切りだからである。
(千葉雅也、同上)
(「あとがき」『別のしかたで』河出書房新社・2014年 所収)
2017年9月19日火曜日
超不思議な短詩224[芝村裕吏]/柳本々々
ゲームって、究極的に言えば、絵を描くというか、写生の一つなんです。 芝村裕吏
去年、ながや宏高さんとお話したときに、ながやさんが短歌=定型詩とゲームの関係について話されていて、そうかあ、ゲームの箱庭的な部分と定型詩と
いうのは似ているのかもしれないなあと思った覚えがある。
たとえば定型をハード=ゲーム機として考えてみよう。そしてその定型にセットするソフトを短歌、俳句、川柳と考えてみよう。定型(ハード)のスペックや容量は決まっているのだが、そこにセットされるソフトによって、さまざまにプレイ(読み)は変わってくる。
ゲーム・デザイナーの芝村裕吏さんは、ゲームは「写生」だと言う。ある現実や日常の一瞬を切り取る。その切り取られたものが世界観になり、ミクロなグランドデザインになる。
ゲームって、究極的に言えば、絵を描くというか、写生の一つなんです。現実の一部を切り取って、それを描くことがゲームデザインだと思うんですよね。何かの瞬間とか現実の一部、あるいはファンタジーでもなんでもいいんですけど、その一部を切り取れるかどうか。その切り取り方によって、ゲームデザインが変わる。人によっては、格闘してるところを切り取って提示する。格闘ゲームは、まさにそうですよね。
(芝村裕吏『ゲームの流儀』)
ある切り取られたミクロな現実が、マクロな世界そのものとなる。たしかにそう言われてみると、格闘ゲームは奇妙な世界で、たとえば『ストリートファイターⅡ』を例にとってもいいが、〈格闘しかしていない〉のだ。そこには〈成長〉もなければ、〈ストーリー〉もほぼない。ただし、現実世界から切り取られた〈格闘だけの世界〉が、象徴的にマクロな世界を提示し、象徴し、代替する。
ここで大事なのが、ゲームにはハードの機能、ソフトのコンテンツにもうひとつ大事な関数が関わることだ。それは、プレイヤーの経験値としてのストーリーである。たとえばマリオをはじめてプレイしたとしよう。最初はクリアできなかったステージも、何度も死にながら何回も同じところをプレイしているうちにプレイヤーの経験値がたまってゆき、そのステージをクリアできるようになる。マリオ自体には、ただ複数のうちのひとつのステージをクリアしたというストーリーしかないが、プレイヤーのなかではどうしてもクリアできなかったなんどもなんども死んだステージをクリアできたというプレイヤーの経験値としてのストーリーが生まれる。
つまり、ゲームのストーリーは、ゲーム本編のストーリーと、プレイヤーが経験値のなかで育んでいくストーリーがある。
ゲームにはプレイヤーの経験値をめぐるストーリーがあるように、定型詩にもプレイヤーの経験値をめぐるストーリーがあるのではないだろうか。たとえばここまではわかるがここからはわからない。でも何度もプレイしていると突然クリアできるステージがあるように何年かたったあとにふいに〈わかってしまう〉ことがある。でもわからないひともいるので、そこからは〈難解〉かどうかの境界線がひかれていく。クリアできるひととできないひと、難解かどうか、の境界線がおのおので生まれていく。でもそうしたクリア可/不可の複数の境界線もひっくるめながらゲーム/定型詩のジャンルがつくられていく。
「ゼビウス」という名作ゲームをうんだ遠藤雅伸さんがこんなふうに述べている。
良いゲームの条件として、難易度調整は一番大事だと思います。どんなクソゲーでも上手く難易度調整してやれば、そこそこ遊べるはずなんですよ。その辺を上手くやらないから、どんなにすごいゲームを作ってもクソゲーだって言われてしまうんですよ。
(遠藤雅伸『ゲームの流儀』)
この「難易度調整」というのは定型詩にも関わっているように思う。どこらへんに「難易度」を「調整」するのか。あまりに難易度が高すぎると「無理ゲー」がうまれてくる。ただときどき「無理ゲー」や「クソゲー」からそれまでのジャンルの世界観を更新するような(『デスクリムゾン』や『たけしの挑戦状』のような)ソフトが生まれることもある。
ゲームというのはプレイする人間の、プレイヤーの経験の質感(成功体験・失敗体験の微妙なバランス、プレイヤーをいかに成功させ・失敗させるか)をとてもよく考えられながらつくられるが、定型詩にもそうした〈読みの質感〉〈読みの経験値〉がどうなるかを微細に考えながらつくられるところがあるのではないだろうか。
そもそも、僕が初期のファミコンのゲームソフトに感じた魅惑の核心は、現実世界の惰性的に際限ない拡がりを、ゲームソフトの「狭いなりに広い緊張した世界」へと切り詰められるということだったと思う。
(千葉雅也『別のしかたで』)
定められた(少ない)容量のなかでプレイヤー(読み手)のプレイを考えながら工夫しつづけること。
ファミコンは、パソコンと考え方の違うハードだし、何しろ動かし方も違うし、容量もパソコンに比べていきなり小さい。色数も少なければ、プログラムはアセンブラ。ゲームもシューティングとアクションばかりでしたから。
『ドラゴンクエスト』が出たときに衝撃を受けましたよ。「ふっかつのじゅもん」という形でセーブもできて、きっちりとしたRPGになっていたから。「工夫さえすれば、ファミコンでもRPGができるんだ」って。『ドラゴンクエスト』がきっかけで『FF』を作ろうと思ったんです。
「もう大学を八年間も留年してるし、ファミコンの3Dゲームも上手くいかないし、次のゲームがダメだったら大学に戻ろう」と思ってました。それで『ファイナルファンタジー』というタイトルに。
当初は『ファイティングファンタジー』という案もありましたけど、「自分自身のファイナルなゲームにしよう」と思っていたんですね。「これでゲームの仕事は終わりになるかもしれないけど、頑張ろう」って。
(坂口博信『ゲームの流儀』)
仮の思考実験として7世紀『万葉集』の万葉人や9世紀『古今和歌集』の歌人を、1899年寝たきりの正岡子規を、ゲーム・クリエイター=ゲーム・プレイヤーとして想像してみること。
意外なことかもしれないけど、ゲームと定型詩はよく似ているように、思う。
プレイヤーは難しいゲームを好みます。プレイヤーは失敗が好き。だけど大好きではない。ゲームに気持ちよく没頭できる「フロー」と呼ばれる魅力的な心理状態にプレイヤーを引き込むのはこのようなバランスだと言われます。
(ユール『しかめっ面にさせるゲームは成功する』)
あえて言い換えてみよう。
読み手は難しい定型詩を好みます。読み手は失敗が好き。だけど大好きではない。定型詩に気持ちよく没頭できる「フロー」と呼ばれる魅力的な心理状態に読み手を引き込むのはこのようなバランスだと言われます。
(ユール(偽)『しかめっ面にさせる定型詩は成功する』)
(『ゲームの流儀』太田出版・2012年 所収)
2017年9月7日木曜日
超不思議な短詩204[筑紫磐井]/柳本々々
行く先を知らない妻に聞いてみたい 筑紫磐井
筑紫さんの句のひとつの特徴に、〈非-自己完結性〉(自己完結しない)ところがあるんじゃないかと、おもう。
たとえば掲句だが、「行く先」を「行く先を知らない妻」に「聞いて」いる。しかも率先して「聞いてみたい」と言っている。語り手は妻が行き先を知らないことを《知っていて》それでも「聞いてみたい」というのである。しかも〈そういうこと〉が俳句になっているのだ。
とうぜん、妻は行く先を知らないので、知らない、というだろう。それでも聞いてみたいのである。行く先を。だとすると、この行く先は、いま・どこにある行く先なのだろう。なんの目的のための行く先なのだろう。いま・ここに踏みとどまるための〈行く先〉ではないか。しかしそれはここでも私でもなく「妻」にゆだねられている。つまり、外へと。
筑紫さんにはこんな句もある。
さういふものに私はなりたくない 筑紫磐井
すぐに宮沢賢治「雨ニモマケズ」の「サウイフモノニワタシハナリタイ」を彷彿とさせるが、しかし「さういふもの」とは、なんだろう。「私はなりたくない」とさきほどのようにやはり〈欲動〉は発動している。しかしその目的がわからない。目的論的にならない。「さういふもの」がどういうものか、わからないからだ。さきほどの句のようにいま・ここにぐるぐる踏みとどまる句だが、「さういふもの」という何かを指し示す語があることによって、やはり〈外〉にでている。外へ。
こんな句もみてみよう。
サムシングが足りぬと言はれさう思ふ 筑紫磐井
なにかが足りないと言われる。語り手は、言われて、そうだとも、思っている。しかし、その何かとは何なのか。しかもその何かはサムシングとなっている。この何かのサムシングの何かとは何なのか。何が足りないのか。何故サムシングなのか。「さう思ふ」と完結しそうになりながらも、「サムシング」によってやはり読み手は外に連れ出されてしまう。
この筑紫さんの俳句における「外」への連れだしエネルギーのようなものは、なんなのだろう。俳句の外へ外へとおもむこうとするエネルギー。俳句そのものを問いただしかねないエネルギー。それを俳句がもってしまうこと。
私はかつて筑紫磐井さんの掲句の拙評を書かせていただいたときにフロイトのこんな言葉を引用した。
人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれると考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心というかたちで表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。
(フロイト、本間直樹訳「マゾヒズムの経済的問題」『フロイト全集18』岩波書店、2007年)
フロイトによると、欲動の断念、あきらめ、というのは、あきらめなきゃだめだ、があって、あきらめる、のではなくて、むしろ、逆だというのだ。最初にとつぜん、あきらめさせられて、その後に、そのあきらめさせられたことによって、あきらめなきゃだめだ、という「良心」や「倫理」がやってくるという。
あきらめなきゃだめだ→あきらめる
ではなくて、
あきらめる→あきらめなきゃだめだ
この外からの強制的諦めが自意識の倫理や良心を育むというのは、どこか、定型という強制的枠組みと似てはいないだろうか。
わたしたちはまず定型によってあきらめさせられる。妻にこれからの行く先をききたいし、そういうものが何かをしりたいし、サムシングが何なのかをききたいけれど、あきらめさせる。しかし、その諦めによって、定型をめぐる自意識のようなものを養っていく。これは、よいことなのだと。これこそまさに定型詩であり、俳句なのだと。まもるべきものだと。
筑紫さんの俳句というのはこうした定型と外部の交通や折衝、緊張のありかたをそのまま俳句化しているように、おもうのだ。
もちろん、わたしも知りたい。しりたいけれど、あきらめなければいけない。そしてあきらめることはよいことだと、わたしは〈もう〉おもっている。
定型は、自意識を育むことがあるのだろうか。そもそも、自意識とは、どうやってうまれているのだろう。しかしそうした自意識の探求をあきらめさせるのも、また、定型が育んでいく自意識である。
定型は欲動させながらも欲動するわたしを断念させる。
定型的自意識は、「なんにもしない」私をよしとするだろう。
うるふ日をなんにもしないことにする 筑紫磐井
(『俳句新空間 No.4』2015年 所収)
2017年8月28日月曜日
続フシギな短詩182[芦田愛菜]/柳本々々
ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 ……なんだったかな下の句 芦田愛菜
『徹子の部屋』のゲスト芦田愛菜さんの回をみていたら、いま中学校で百人一首が流行っているという。黒柳徹子さんから、好きな歌あります? と聞かれ、芦田さんがすらすら暗唱したのが、
いにしへの 奈良の都の 八重ざくら 今日九重に 匂ひぬるかな 伊勢大輔
「八重」と「九重」の掛けが好きだという。たしかに視覚的にわかりやすいし面白い。芦田さんはすらすらと朗唱する。ほかに、
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ 崇徳院
この歌はストーリーが好きだという。やはり芦田さんはそらですらすら朗唱する。川の水が割れてもまた合流する感じを、ひとが別れてもまたいつか出逢うことにたとえた歌はたしかに話として面白い。
でも学校では「ちはやぶる」の歌がいちばん人気なのだというと、黒柳さんが「やって」という。「やって」と。「なんだっけ」という芦田さん。でも、やってみる。
ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 ……
まで行ったものの、「なんだったかな下の句」と止まる芦田さん。黒柳さんも、わからない。ふたり、だまる。とつぜん、「どなたかご存じ?」と観客席に話しかける黒柳さん。観客席への下の句のヘルプ。観客席に百人一首にくわしいひとがいるのか。すると、観客席から反応が。黒柳さんが「ん?」と聞き返すと、(すいません、知りません)というただの負の反応で、「あ、ご存じじゃないの」と黒柳さん。会場は穏やかな笑いにつつまれた。終わり。
いや終わりじゃなくて、私が興味深いなと思ったのが、芦田さんが上の句まではすらすら暗唱したにもかかわらず、下の句を忘れてしまったように、上の句と下の句の間にある微妙な〈裂け目〉である。575と77のあいだにある微妙な記憶の境界。これは、歌の記憶の整理のされ方が、〈575〉というパッケージングと〈77〉というパッケージングに別れていることをあらわしていないだろうか。
ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 から紅に 水くくるとは 在原業平朝臣
《すごい神々の時代にも聞いたことがないような龍田川だ。紅葉で水がまっかに染め上げられている》というような意味なのだが、「八重/九重」「割れた川/別れた人」という上の句と下の句の対照がないので下の句を忘れてしまうと思い出しにくい。また第3句が「龍田川」と名詞で終わることによって、体言止めの〈終わった感〉が出てくるのもいっそう忘れやすくなっている。下の句で、川がすごい! と思った理由が示されるが、すぐわかるような覚えやすい上の句と下の句の対照がないのだ。
575(上の句)と77(下の句)の間には、こんなふうに各歌にしたがって、接合やアクセスの仕方が異なり、その差異が読み手の心象や記憶にそのつど違ったバイアスを与えているといえないだろうか。図示してみると「八重/九重」の歌は、
575⇄77
「割れた川/別れた人」の歌は、
575=77
「ちはやぶる」の歌は、
575←77
こうした接続方法の差異により、57577のトータルイメージとしての心象が変わってくるように思うのだ。あるいは、記憶のありかたが(ちょっと漱石『文学論』のF+fみたいだが)。
上の句と下の句の接合点(ジャンクション)のようなものについていつも思考をめぐらしているジャンルがある。連句だ。浅沼璞さんは、1句、2句、3句、4句と続いていくときの連句の接合イメージをこんなふうに視覚化している。
┃(発句=立句)
\(脇句)
─(第三句)
─(平句)
(浅沼璞『俳句・連句REMIX』)
詳しくは浅沼さんの本で確認してほしいのだが、私が乱暴な言い方で解説すると、連句のいちばん最初の発句は、縦にすっと落ちてゆく線になる(俳句が、そう)。縦に落ちてゆくので、もう後はいらないよ、というイメージである。だから、縦棒。自立できている、一人前の大人のような句だ。
ところが連句は、そこから続いていく(連句の大事なところは、前進あるのみ、なので)。二番目の「脇句」は、いちばんめの発句を気にかけながら、三番目にくる句も気にかけなければいけない。脇にそうコーディネーターみたいなところがある。だからここではどっちも気にかける視覚イメージの「\」が用いられている。大人にも子どもにもなれない、どちらへも揺らいでいる青年のイメージといってもいいかもしれない。
三番目、四番目は、平句といって、べたーっとした句がつづいてゆく。これは、つながっていく句で、ひとりだちしない、こう言ってよければ、自立できない、こどものような依存する句である(ちなみにこの平句が川柳である。だから川柳には「切れ」がない。べたーっとしているが、そのべたーっが散文的な詩情を呼び込んでくる)。でもそのかわり、どんどん横に続いていくこともできる。この横に移動していく運動は、実は、短歌にも川柳にも俳句にも確認できる。「連作」と呼ばれるものだ。「連作」は合間合間につまらない、ひらたい、意味もないような、つなげるだけの歌や句を入れなければならない、というのはここにある(と思う)。
こういうふうに連句は、接合ポイント、アクセスポイントをたえず気にかけている。というか、私は連句とは実は〈そこ〉を気にかける文芸であり、そして〈そこ〉を気にかけたときはじめて「座」の意識がでるのではないかとも、おもう。
芦田さんに戻るが、芦田さんの「なんだったかな下の句」はこうした接合ポイントはなんでしょう、という問いかけを行っているようにも、思う。もちろん、おまえが思ってるだけだよ、と言われればそれまでだし、それまでだが、今回は、それまでを書いてみたかった。
寺山修司は「現代の連歌」について、「日本文学の縦の線を横の線におきかえる意図にはじまっている」とエッセイのなかでのべています。
(浅沼璞『「超」連句入門』)
(「芦田愛菜」『徹子の部屋』テレビ朝日・2017年8月28日 放送)
2017年8月21日月曜日
続フシギな短詩168[坂野信彦]/柳本々々
律文は拍節が形成されることによって成立します。拍節は、通常、八音をもって構成されます。 坂野信彦
音律は、難しい。音律についてのわかりやすい本はないかとずっと探していたのだが、浅沼璞さんの本を読んでいるときにこの本が紹介されていて、読んでみるととてもわかりやすい本だった(同じ坂野信彦さんの『ハとガ』も助詞の「は」と「が」の違いについてわかりやすく書いたものでおすすめ)。
私がふだん音律について感じていた疑問がひとつあって、先日取り上げた『川柳少女』の主人公がつくる川柳もそうなのだが、どうして中が八音になってしまうのか、ということだった。
575ではなく、一般に流通している句は、585が意外と多い。
もちろん「8になっちゃった」というのもあると思う。でも「なっちゃった」っていうのはそれこそ〈生理的リズム〉なのではないか。時実新子があんなに中7は死守せよと言ったのに、テレビでみる句は585が多い。なぜなんだろう。
だからよく575はきもちのよいリズムだと言われているが、ほんとうにそうなのかどうかわからなかった。きもちのよい方に行かないでなぜ一般のひとはきもちのわるい8音にむかう(ことがある)のか。
坂野さんによれば、日本語は2音がリズムの基本単位になっていると言う。
「あっ。」「えっ?」「じゃっ。」というふうに、日本語の発話の最小単位が二音であること。一音の語は、しばしば二音ぶんにのばして発音されます。
たとえば「目見て」を「めーみて」、「絵かく」を「えーかく」というぐあいです。のばして発音しないばあいは、「め、みて」「え、かく」というふうに一音語のあとにちょっとしたポーズを置きます。一音だけでは、落ち着かなかったり、発音しにくかったり、聞き取りにくかったりするのです。このことも、二音が日本語の発話の最小単位であることと関連しているでしょう。
(坂野信彦『七五調の謎をとく』)
2音は4音に、4音は8音になってリズムを構成している。坂野さんがあげている例文だが、たとえばこんな言葉を思い出してみよう。
鬼ごっこの「もういいかい」「まあだだよ」ということば。これは声に出していることばを視覚化するとこんなふうになる。
もう┃いい┃┃かい・・ まあ┃だだ┃┃よー・・
「もう」「いい」「かい」「・・」「まあ」「だだ」「よー」「・・」と2音ずつ口に出して読んでいるはずだ。
「もう」「いい」と「かい」「・・」の2音が対になり、
もう/いい かい/・・
「もういい」と「かい・・」の4音が対になり、
もういい/かい・・
「もういいいかい・・」の8音は、となりの「まあだだよー・・」の8音と対になる。
もういいかい・・/まあだだよー・・
「あした天気になれ」は、どうだろう。
あー┃した┃┃てん┃きに なー┃ーー┃┃れ・┃・・
「あー」「した」「てん」「きに」「なー」「ーー」「れ・」「・・」と2音が、
あー/した てん/きに なー/ーー れ・/・・
と対になり、「あーした」「てんきに」「なーーー」「れ・・・」の4音が、
あーした/てんきに なーーー/れ・・・
と対になる。そして「あーしたてんきに」「なーーーれ・・・」のそれぞれ8音が、
あーしたてんきに/なーーーれ・・・
と対になる。こんなふうに2音の基本単位が増幅し対になることで日本語は律文をつくると、坂野さんは述べている。
8音の対をつくろうとするのでそこには数に応じて「・・・」の休みが入る。その休みが入ることによって音律というかリズムができる。その休みをじゃあいれなかったらその文はなんと呼ばれるのか。それは「散文」と呼ばれることになる。たとえば小説中で、
あしたてんきになれあしたてんきになれと私は繰り返した。
という一文がでてきたら、上のように休みをいれたりのばしたりして読まないはずだ。ところがこれが歌だとちがう。いくら「あしたてんきになれ」と書かれていてもそれを歌うときには、「あーしたてんきになーーーれ・・・」と声にだして歌うのだ。歌詞カードなんかはそういうふうに休みの記号はいれられていないが、歌をきいているとその文字テキストの速度とはちがうはずだ。
この坂野さんの本を読むと、8音によって律文を生成しているので、たとえば一般のひとが中8で川柳をつくったとしても実はそんなに不自然にならないんじゃないかという気もする。7音プラス休みの1音のための、その休みはなくなり、だから早口になるのだが、しかし休みがなくなるだけで、音律としては成立してしまう。でもリズムの問題ではなく形式の問題として、条件がなければ8音は難しいと坂野さんは述べている。
容易に打拍の破綻が生じる以上、八音は定型の音数としては失格ということになります。これはリズムの善し悪しといった相対的な問題ではありません。絶対的に、必然的に、失格なのです。
もしどうしても八音をもって定型の音数としたいというのであれば、「四・四構成の八音にかぎる」といった条件をつけなければなりません。「ホンネとタテマエ」(「ホンネと┃┃タテマエ」)はよくても、「タテマエとホンネ」ではダメなのです。
お経が八音を基本としながら四律拍で通せたのは、漢字一字を一律拍とする唱えかたのためでした。
(坂野信彦『七五調の謎をとく』)
八音で定型をつくることはできるがそれには4音と4音が対になるような条件がいるという。7音の場合はかんたんにいうと、ポーズ(休み)をとる場所が自由にうごかせるぶん、そうした条件付けの必要がない。うしろがきつきつになっても前でポーズなり休みをとることができるからだ。
だから律を支えているのは八音の感覚なのだが、そのなかでどう休みを入れるかで定型というのが決まってくる。そのときに、八音めいっぱいにつめると、休みのとりかたが不自由で、音律ががたがたになることがある。
だから7音と8音の違いはこうだ。
《そこに1音ぶんの休みを入れたいかどうか》。
坂野さんは、「七音と五音の優位性」を次のように述べている。
けっきょくのところ、七音と五音の優位性をもたらしたものは、たった一音ぶんの休止なのでした。この一音ぶんの休止の効能を箇条書きにまとめておきましょう。
一、句に変化とまとまりをもたらす。
一、リズムの歯切れをよくする。
一、句をつくりやすくする。
一、打拍の破綻を防止する。
(坂野信彦『七五調の謎をとく』)
8音でもできるのだけれど、8音だと柔軟性がきかないため定型の律をつくるのは難しい場合があります、7音だとなにも考えなくてもフレキシブルなため律をつくりやすいです万能です、という話なのだった。
(「音律の原理」『七五調の謎をとく』大修館書店・1996年 所収)
2017年4月6日木曜日
フシギな短詩99[明恵上人]/柳本々々
定型詩は定型がある以上、定型を満たすまでしゃべり続けなければならない。以前このフシギな短詩で富野由悠季さんの富野ゼリフをめぐりながらそんなことを書いた。
丸の内の出光美術館で江戸時代の禅僧・仙崖(せんがい)による禅画を展示した「大仙崖展」をみたことがある。仙崖というひとは〈ゆるかわいい禅画〉として再発見されていった面があるが、展示には筆で大きく○を描いた円相の軸もかけられていた。いろんな○があったのだが、それをみていてちょっと思ったのが、《他にもたくさん描けるものがあったはずなのに○しか描かなかったのはどういうわけなんだろう》ってことだ。
円相っていうのは○として完全な悟りをあらわす。だから余計なものをそこに描いてはだめなのだが、むしろ大事なのは○なのではなくて、そこにほかにも描けたはずなのに・描かないということなのかなと思ったのだ。
絵と短歌というのは実は形式においてよく似ている。それは絵がかならず額や枠やコマを必要とする点が、短歌の定型と形式的に類似するからだ。絵や言葉の意味を決めているのは、実は絵や言葉そのものでなくて、《枠=定型》という形式そのものかもしれないということ。
鎌倉時代前期の僧である明恵上人の掲出歌。定型で29音使えたはずのところをほぼ「あかあかや」で使い切ってしまっている。それ以外も語れたはずなのに、語らなかったこと。もしかして定型において円相を描くのだとしたら《これ》なのかなと思った。「月」という形の○も際だっている。
歌人の橋本喜典さんが『自然と身につく 名歌で学ぶ文語文法』という著書のなかでこの歌を引いてこんなふうに解説している。
この「あかあか」は「明明」で明るく澄みきった月を詠んでいます。戯歌(ざれうた)のように言われますが、無限・夢幻の感のただよう宗教性が私には感じられるのです。
(橋本喜典「副詞」『自然と身につく 名歌で学ぶ文語文法』角川書店・2016年)
橋本さんがどうしてこの歌に「宗教性」を感じたのか。それはこの歌が「あかあかや」を繰り返すことによって言葉=意味の領域を離脱し、無限に円環する○の領域に入ったからではないか。それは言葉=意味=分節の支配しない主客のない領域だ。ただ○だけが茫漠と月のように浮かぶ領域。もちろんその○に意味などない。あってもなくてもどうでもいい○だ。そもそもそれを認識する〈わたし〉などそこらじゅうに溶け込んでいないのだから。
明恵上人の質感に似た現代短歌を引用してみよう。
んんんんん何もかもんんんんんんんもう何もかもんんんんんんん 荻原裕幸
(『あるまじろん』沖積舎、1992年)
なぜ語り手は「んんんんん」で埋め尽くさなかったのだろう。「何もかもんんんんんんん」なら「何もかも」さえ語らずに「んんんんん」で埋め尽くせばいいではないか。ところが語り手はそれをしなかった。「何もかも」が「何もかも」と繰り返されている。ここがこの歌の《ポイント》なのでないか。「んんんんん」ではなくて。
「んんんんん」と「ん」を繰り返していくうちに、「何もかも」という有意味的=構造化できる最小限の統語意識さえも《繰り返し》の渦のなかに巻き込まれ「何もかも何もかも何もかも何もかも何もかも」と新たな渦の生成に巻き込まれてゆく。「何もかも」というかすかな意味性さえも「ん」の螺旋のなかで意味をうしなっていく。この短歌はそうした《巻き込まれ》を実況中継的に描いたものなのではないか。
円相という完全な悟りには実は《あと》がある。悟りが悟りとして《終わった》と思ったら、それは《悟り》になりえない。《悟り》と勘違いしているにすぎない。《悟り》には終わりが、ない。だから、悟りのプロセスを描いた十牛図には、円相のあとにさらに絵が続いてゆく。○で終わりではないのだ。終わらないことをうけいれられることこそが、悟りだから。
わたしはその「○で終わりではない」をこの「んんんんん」の歌に見いだしたいと思う。《巻き込まれ》ながら、《巻き込み返し》ながら、「んんんんん」の大海のなかで悟りかけながら・悟りきらずに生きてゆくこと。そこにひとつの「難題をすり抜けていく」希望を見いだしたいと思う。
難題をすり抜けていくんんんんん 吉田吹喜
(「副詞」『自然と身につく 名歌で学ぶ文語文法』角川書店・2016年 所収)
2017年2月24日金曜日
フシギな短詩87[富野由悠季]/柳本々々
悲しいけどこれ戦争なのよね 富野由悠季
ガンダムをつくったアニメ監督・富野由悠季さんには独特な言い回しからなる「富野ゼリフ(富野節)」というものがある。
たとえば映画『劇場版 機動戦士ガンダムⅢめぐりあい宇宙(そら)編』のなかでジオン公国軍の試作型モビルアーマー、ビグ・ザムに特攻する前につぶやいたスレッガー・ロウ中尉のセリフ「悲しいけどこれ戦争なのよね」。有名なセリフだが、これを富野節を抜いて一般的な言い回しにするならば、
悲しいかもしれないが、これが戦争をするということなんだ。
になるだろう。中性的な文体だし言い回しにクセもないが、どこか〈ひとごと〉のようなセリフである。
これが富野節をとおすと、
悲しいけどこれ戦争なのよね
になる。注目したいのは、〈短さ〉である。助詞が切り詰められながらも語末に「よね」とみずからの認識を再確認する終助詞を置くことで切り詰められたセリフがぐっと生きている。「悲しいけどこれ戦争」と極端に切り詰められながらも最後の「なのよね」と冗長にさせることでスレッガー・ロウ中尉がそのセリフを個人的に〈どう〉生きようとしているかが一瞬でわかる。
この独特なクセをもつ富野節はどのようにして生まれたのだろう。
やはり富野由悠季さんの作品『∀(ターンエー)ガンダム』のプロデューサーを務めたサンライズの河口佳高さんは『劇場版∀ガンダムⅡ 月光蝶』(2002年)の映画パンフレットにおける「スタッフ座談会」において次のような興味深いことを述べている。
今回僕が、わかったことは、 「富野ゼリフ」はなぜ生まれるのかっていうこと。あれは、尺に合わせてセリフをつくるからなんだよね。口パクに合わせるために、セリフを全部言わせないで短くして、エッセンスとリズムのセリフ構成にしちゃう。きっとファースト・ガンダムの劇場版をやったあたりから、その傾向が強くなったんじゃないかな。アフレコでセリフを直す様子を見てそれは思った。
(河口佳高「スタッフ座談会 いかにして『∀』映画は生まれたか」『「劇場版∀ガンダムⅡ 月光蝶」パンフレット』、2002年)
アニメーションの画としての「尺」=「口パク」に合わせるために「セリフ」=言葉を「短く」して「リズム」を与えること。これは31音、或いは、17音の定型にことばを「短く」して「リズム」を与える《定型詩の思考》に近いではないか。
もし定型詩にクセのある文体が生まれるのであれば、富野ゼリフがそうであったように、定型と言葉との照応関係によって生まれるのではないか。そうした枠組みとことばの相互作用のありかたが富野節にはあるように思うのだ。
すでに決まっている形式(アニメーション/定型)があって、《それでもしゃべらなければならない》ときにどのように不自然でなく、しかし、切り詰めていくなかで《文体》をつくることができるのか。17音、31音を与えられたわたしたちは、2音や8音だけでことばをやめてしまうことはできないから。
定型詩は定型がある以上は、しゃべらなくてはならない。
ここですこし具体的に短歌をみてみよう。
春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令狀 塚本邦雄
よく引用される有名な短歌だが、わたしはずっとこの短歌の「あっ」が気になっていた。なんだろう、この「あっ」は、と。なんなんだ。
もちろんこの「あっ」を意味内容から考えることもできる。この「あっ」という感動詞によって「召集令状」に対する語り手の驚きや緊張感や現実のてざわりがあらわされる。「春の夜の夢」のあいまいな〈きぶん〉は、「あっ」によって打ち砕かれる。
でもこの「あっ」を形式的に考えてみたらどうだろう。「あっあかねさす」は下の句の七七における7音だが、もしこの短歌に「あっ」がなければ、7音の箇所が「あかねさす」で5音になってしまう。そうするとこの「あっ」は定型が発話した「あっ」とは言えないだろうか。もし定型がなければ「あかねさす召集令狀」で終わったかもしれないものが定型が介在することによって「あっ」が召喚された。
定型が話しはじめてしまった「あっ」。そこにわたしは定型詩の非生命的な身体性やぶきみさが即物的なてざわりがあるように思うのだ。そして画によってことばに〈生命のクセ〉が生まれるアニメーションにも。
批評家の福嶋亮大さんがこんなことを述べている。
富野由悠季は、生身の人間どうしの闘いではなくて、メディア化された人間とメディア化された人間の闘いを演出し、戦争を反復した。
(福嶋亮大『神話が考える』青土社、2010年)
定型というメディアを介してメディア化された発話形式をもつ歌人/俳人/柳人もまた「メディア化された人間とメディア化された人間の闘い」をひきうけるものたちといえるのではないだろうか。「あっ」に取り憑かれたものたちとして。
(『劇場版 機動戦士ガンダムⅢめぐりあい宇宙(そら)編』1982年 所収)
2017年2月3日金曜日
フシギな短詩81[尾崎放哉]/柳本々々
咳をしても一人 尾崎放哉
自由律俳句ってなんなんだろうと時々考えるのだが、次の上野千鶴子さんの言葉にひとつのヒントがあるような気がする。
放哉もある時期までは順当にエリートコースを歩んできた人ですよね。捨てて、捨てて、捨てて、捨てきったはずなのに、言葉を捨てないという
(上野千鶴子「「捨てて、捨てて、捨てきってもなおあふれでた言葉」『尾崎放哉 つぶやきが詩になるとき』河出書房新社、2016年)
私は今まで自由律を「自由」に「律」をつくりこむことから、〈盛る〉文学だというふうに考えていた。定型に加えて、さらに〈盛り込んで〉いくのが自由律なのだと。
でも、上野さんの言葉を読んだときに、実は逆なんじゃないかとふと思った。〈捨てる〉のが自由律なんじゃないかと。それはどれだけ長くてもそうなのだ。たとえば、
鳩が出はひりするまるいあながみんなうすぐらい 中塚一碧樓
この句もこれだけ長くても、捨てられた〈あと〉の句なのだ。
いったいなにを捨てているのか。
それは、〈定型〉である。定型が捨てられた地点から自由律は出発する。その意味でどれだけ長くてもそれは〈捨てた〉文学なのだ。
ただし、上野さんが「捨てきったはずなのに」と述べたように、「自由」を志向しながらもそのせつな「律」とふたたび「律」に支配されるところに〈自由律〉の特徴がある。〈定型〉を捨てたはずなのに、ふたたび、また別の顔で、ちがった顔をして、〈定型〉はやってくるのだ。
吉田知子が小説で書いていたことだが、〈捨てる〉ということのいちばんこわいことは、一度捨てたものは二度と捨てられないことだ。
もう帰る、と私は老婆に言った。…… 「あんたは帰れんよ」老婆は言った。「帰れる道理がなかろうがさ。これまでだって捨てられんかったんだ。あんたは捨てた気かしらんが。一度捨てたら二度は捨てられんよ」
(吉田知子「迷蕨」『お供え』講談社文芸文庫、2015年)
すなわち、〈捨てる〉ということは、どこかでそれを永遠に背負っていくことも意味する。
咳をしても一人 尾崎放哉
の〈孤独感〉とは〈定型〉を捨てた・にもかかわらず、せきを・しても・ひとり、と3・3・3の律(リズム)をつくろうとしているところにあるのではないか。しかし、その律は、孤独である。この句とともに、その律は運命を終えるかもしれない。その意味でこの律は「咳」のようなものだし、その「咳」の律はたとえ律だとして「も」〈一人〉だ。
だけれども、〈捨てた〉あとの風景とはそういうものではないか。
日本語の生理は、ものすごく五七五にひきずられていくんです。「適齢期みんなで越せば怖くない」とか「狭い日本そんなに急いでどこへ行く」とか、五七五にしてしまえばどんな標語でも何となく詩のフレーズになるみたいに、言語的に定型にひきずられていくでしょう。この重力を振り切るには、逆噴射みたいなものすごいパワーがいるはずなんです。
(上野千鶴子、同上)
俳句も短歌も川柳も定型を通して、定型のなかで、定型にふちどられて、定型に去勢されて、なにかを語るのだが、その意味では、定型に依拠した世界に対する〈失語〉なのだが、しかし、《定型そのものに対して失語》を感じた者はどうすればよいのか。世界に対して、ではなく、定型に対して言葉を失ってしまった人間。定型によってこわれてしまったにんげん。そのにんげんの律はいったいどうなるのか。
その問題が、自由律にはあるんじゃないか。
こわれても、こわれても、こわれても、なおあふれでた言葉。
春の山のうしろから烟が出だした 尾崎放哉
(「捨てて、捨てて、捨てきってもなおあふれでた言葉」『尾崎放哉 つぶやきが詩になるとき』河出書房新社・2016年 所収)
2016年9月30日金曜日
フシギな短詩45[荒木飛呂彦]/柳本々々
漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の著者である荒木飛呂彦さんは、自らの創作方法を語った『荒木飛呂彦の漫画術』の「導入の描き方」において次のように語っている。
五・七・五になっているセリフ 荒木飛呂彦
最初の一ページにどんなセリフが来れば次のページも読みたくなるのか、考えつくものを挙げてみましょう。
・ドキッとするセリフ
・しっとり落ち着くセリフ
・癒されるセリフ
(……)
・五・七・五になっているセリフ
・ラップのように韻を踏んでいるセリフ
(荒木飛呂彦「導入の描き方」『荒木飛呂彦の漫画術』集英社新書、2015年)
興味深いのは、最初の一ページのセリフ例のひとつとして五七五定型が現れていることだ。なぜ、五七五定型が「次のページも読みたくなる」ようなセリフなのだろう。
荒木さんは「最初の一ページで、その漫画がどんな内容なのかという予告を、必ず描くようにしてい」るという。そこらへんにヒントがありそうだ。つまり、たった一言のセリフが全体をそのままあわらすということ。
実はそうした俳句の働きについて言及している小説家がいる。アメリカの詩人ジャック・ケルアックだ。ケルアックはインタビューにおいて子規について言及したあとでこんなふうに俳句について話した。
俳句? 俳句が聴きたいか? すごいビッグなお話を短い三行に圧縮するんだよ。
ビッグなお話を圧縮したミニマルな形式で提出すること。それがケルアックにとっての俳句だった。(ケルアック、青山南訳『パリ・レヴュー・インタヴューⅠ 作家はどうやって小説を書くのか、じっくり聞いてみよう!』岩波書店、2015年)
荒木飛呂彦さんやケルアックなどの定型に対する考え方、つまり全体を部分として圧縮したのが定型、から考えてみたいのは、定型詩というのは提喩的な働きをなすということだ。
提喩(シネクドキ)とは、なにか。それは、全体を部分であらわす喩え方だ。たとえば、「文学とパン、どちらが大切だろうか」とあなたが問いかけられたときに、ここでの「パン」は「パン」だけでなく、「食べること全体、食べ物全体」をも同時にあらわしているはずだ。つまり、文学と食べ物、どっちが大事か、と。それを提喩であらわせば「文学とパン、どっちが大事か」になる。食べ物(全体)をパン(部分)によってあわらしたのだ。それが提喩である(ちなみに他の例では、「目玉のおやじ」や「口裂け女」も「目玉/口」(部分)が「おやじ/女」(全体)をあわらしているので提喩だ)。
定型詩は、提喩的な働きをなす。それはつまりどういうことかといえば、提喩の働きがそうであるように、部分によって全体を、最小によってこれから展開される広大な空間をあわらすことになる。だから五七五を一ページに置けば、それはこれからの物語空間の全体の予期になる。
それはどんな一部をもぎとっても、そのもぎとった部分そのものが全体そのものと似てしまうフラクタル構造のようなものと言ってもいいかもしれない。部分イコール全体であり、全体イコール部分であるフラクタル。
荒木さんはデビュー作の漫画『武装ポーカー』の最初の一ページに「『5W1Hの基本』『他人とは違う自分ならではの個性』『同時に複数のねらいを描く』『漫画全体の予告』」という「最後まで編集者にページをめくらせたい」「必要な要素」を「すべて」込めたという。そういう読者の欲動を一気に鷲掴みにするような最小形態は先ほどのケルアックの言葉を借りればこんなふうにも言えるだろう。
「短くてスウィートで思考がいきなり跳躍するような文章は、まあ、俳句だな」
しかしこれらの最大にして最小のフラクタルは定型詩そのものにもあてはまるのではないか。すべてが込められていて、全体でありかつ部分であり、最大で最小の、スウィートな跳躍。それが定型詩なんだと。
荒木飛呂彦さんやケルアックをめぐりながらもいったいなにを言いたいのかというと、定型詩は、定型詩〈内〉の空間だけをめぐりめぐっているわけではないということだ。定型詩はわたしたちの知らない〈奇妙〉なところにそっと密輸されているかもしれない。俳句の空間だけにあるのが俳句ではないかもしれないし、短歌の空間にあるものだけが短歌でもないかもしれない。それそのものの根っこはいつも〈外側〉にある(と、ラカンは言っていた)。
ちなみに『ジョジョの奇妙な冒険』と俳句をめぐっては、荒木飛呂彦責任編集のムック『JOJOmenon(ジョジョメノン)』誌上において「ジョジョ句会」が開かれている。ジョジョ文化と俳句文化がどういうふうに衝突しあい融合しあうかが実況的にわかるので興味のある方はぜひ読んでみてほしい。
ジョジョ立ちの正中線や秋の天 堀本裕樹
運動会子ら吠える午無駄無駄UURRRYY! 柴崎友香
「あなたも河馬になりなさい」だが断る 千野帽子
(「ジョジョ句会」開きました。」『SPURムック JOJOmenon』集英社、2012年)
落ちつくんだ…「素数」を数えて落ちつくんだ…「素数」は1と自分の数でしか割ることのできない孤独な数字……わたしに勇気を与えてくれる
(荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』6巻、集英社、2001年)
(「導入の描き方」『荒木飛呂彦の漫画術』集英社新書・2015年 所収)
2016年2月12日金曜日
フシギな短詩1[御中虫]/柳本々々
こんな日は揺れたくなるなと関は言った 御中虫
2011年から5年が経った。〈関悦史〉さんがさまざまな位相で揺れ続ける御中虫さんの句集『関揺れる』。たとえば掲句のように、だんだんと〈震災の揺れ〉そのものの意味はゲシュタルト崩壊し、フィクショナルなものへと移行していく。「こんな日は~したくなるな」とドラマのような〈安い定型フレーズ〉に〈揺れ〉も〈関〉さんも収められていく。
でも、〈揺れ〉がリアルで高尚なものと〈誰〉が決めたんだろう。
わたしたちは常に〈揺れ〉をテレビの中で、ドラマの中で、映像の中で、マンガの中で、映画の中で、フィクショナルな文法で語り・思考していたのではないか。
だとしたら、その〈揺れ〉をめぐるフィクショナルな文法そのものをもう一度〈再―文法化〉しなければならないではないか。
つまり、わたしたちはなにかを〈うたう〉ときの語法そのものを〈揺らし〉つづけなければならない。わたしたちは出来事は忘れないでいようとしながらも、すぐにその出来事を語法化するやり方そのものは無意識に置いてしまう。でもそうした忘却の淵に腰掛けて、関さんはずっと揺れ続けている。
そのために、関さんはいる。
2016年の〈今〉も、わたしたちの〈すべて〉の関さんは、揺れる。
(『関揺れる』邑書林・2012年 所収)
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