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2017年9月20日水曜日

超不思議な短詩226[千葉雅也]/柳本々々


  ツイッターの一四〇字以内というのも、短歌の五七五七七やフランス詩の一二音節も、非意味的切断による個体化の「原器」であると言えるでしょう。  千葉雅也

千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』という本は、すごく乱暴に簡略に(かつ私が理解できた範囲で)言えば、現在のなんにでもすぐアクセスできてしまうような接続過剰の世界で、どのように〈切断〉をみずから持ち込み、取り入れるか、〈動きすぎてはいけない〉をつくりだせるか、ということが書かれていたように思うのだが、その〈切断〉の〈器〉のヒントは、実は、ツイッターメディアの制約された文字数や定型にもあるのかもしれない。

たとえばすごくかんたんに言うとこんな経験はないだろうか。あの番組をみなくてはならない、あれをブログに書いておかなくてはならない、あのサイトをチェックしなくちゃならない、Amazonがまた商品をおすすめしてきていて・しかも自分の嗜好にどんぴしゃなので・買わなければならない。これは、接続過剰の一例である。わたしたちはたぶんもう〈とまっていて〉も、どんどん・動く。動きすぎる。動きすぎて(どこにも)いけない。

つまり、今考えなければならないのは、どれだけわたしたちが動いていけるか、ではなくて、どういうふうに工夫して〈動きすぎない〉でいられようにするか、接続過剰な世界で、切断をはぐくんでいけるか、ということなのだ。

  ツイッターの一四〇字以内というのも、短歌の五七五七七やフランス詩の一二音節も、非意味的切断による個体化の「原器」であると言えるでしょう。これら様々なフォーマット、決まり事は、私たちの「もっと」=欲望の過剰を諦めさせるものであり、精神分析の概念を使うならば「去勢」の装置である。けれども、おそらくこう言えるのではないでしょうか。去勢の形式は複数的である、と。つまり、《諦めさせられ方は、複数的である》。だから、別のしかたでの諦めへ旅立つこともできるのです。
  (千葉雅也「あとがき」『別のしかたで』)

千葉さんのこの本の「別のしかたで」というこのタイトルが重要だと思うのだが、この文章を読んで気付くことがふたつある。

まずひとつは、あ、そうか、定型っていうのはひとつの去勢の練習になるんだということだ。そして、もうひとつは、去勢というのはひとつなんかじゃない、実はいろいろあって複数なんだ、ということだ。

ここには二重の「別のしかたで」がある。

ひとつは、とまらない欲望をあえて切断し、定型をとおして、去勢させることで、みずからの欲望の「別のしかた」、言語や思想や世界の「別のしかた」に出会うこと。

もうひとつはその「別のしかた」の去勢のありかた、欲望や、発話や、思想や、世界の去勢された「その別のかたち」自体にさらに「別のしかた」が《いろいろ》あるのだという《別のしかたの複数性》に気付くこと。

以前とりあげた筑紫磐井さんの句をみてみよう。

  行く先を知らない妻に聞いてみたい  筑紫磐井

「行く先」という〈意味論的な答え〉を「聞いてみたい」のだが、定型という「非意味的切断」に〈去勢〉されてしまう。ここには意味論的に問いかける主体が、非意味論的に切断される様態があらわれる。でも、こうした主体の去勢のありかた、躍動のありかたが定型詩なのだとも言える。定型詩は、いくら問答体のていをなしても、答えをみちびきださない。さいごに、去勢されるから。

じゃあこんな短歌はどうだろうか。

  雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤

たしかに答えはでている。問い、「なんでしょう」。答え、「これはのり弁」。でも、このぶちまけられているのり弁にであっている出来事の「行き先」にたいする答えはない。それは定型が締め切ってしまっている。主体がわからない「ぶちまけられて」の無人称の暴発的な挿入。ここではまるでのり弁よりも人称がぶちまけられている。この歌の解釈は、いくつもの主体の「別のしかたで」が付随していくだろう。でも答えが定型詩そのものにはない以上、読み手の主体もつねに「別のしかたで」を続けてゆくしかない。定型詩は、答えることなく、締め切ってしまう。語り手に対しても、読み手に対しても。

定型詩というのは、〈わたし〉という主体の「別のしかたで」をずっと考えていく詩学なのかもしれない。ただそれは、答えがでた瞬間、その答えの「別のしかたで」がすでに・つねに待っているような、そういう詩学だ。

去勢を、別のしかたで、を考えること。

  しかし、真剣に少しでも新しいものを作ろうと思ったら、あまりにも多くのことがなされてしまったという歴史に真剣に絶望しなければならないのです。
  (千葉雅也『高校生と考える世界とつながる生き方』)

「別のしかたで」と極端に構えるのも、千葉さんの哲学のカラーとは少し違うように思う。たとえばこんなふうに日常のなにげない、とるにたらない、意外なところに「別のかたちで」は密輸できたりもする。それは「なんとなく」を「環境設定」としてとりこんでいく〈創造的な抜け穴〉になるかもしれない。

  重要なのは、惰性的にやってしまう日々のルーチンのなかに、なんとなく勉強してしまえるタイミングとかをうまく組み込むこと。「惰性的に創造力を高めるための環境設定」をする。
  (千葉雅也『別のしかたで』)

諦めることは、生成に、創造に実は深く関わっているんじゃないか(締め切りも)。

  なぜツイッターの一四〇字以内がこんなに書きやすいかというと、それは、書き始めた途端にもう締め切りだからである。
  (千葉雅也、同上)

  

          (「あとがき」『別のしかたで』河出書房新社・2014年 所収)

2017年9月7日木曜日

超不思議な短詩204[筑紫磐井]/柳本々々


  行く先を知らない妻に聞いてみたい  筑紫磐井

筑紫さんの句のひとつの特徴に、〈非-自己完結性〉(自己完結しない)ところがあるんじゃないかと、おもう。

たとえば掲句だが、「行く先」を「行く先を知らない妻」に「聞いて」いる。しかも率先して「聞いてみたい」と言っている。語り手は妻が行き先を知らないことを《知っていて》それでも「聞いてみたい」というのである。しかも〈そういうこと〉が俳句になっているのだ。

とうぜん、妻は行く先を知らないので、知らない、というだろう。それでも聞いてみたいのである。行く先を。だとすると、この行く先は、いま・どこにある行く先なのだろう。なんの目的のための行く先なのだろう。いま・ここに踏みとどまるための〈行く先〉ではないか。しかしそれはここでも私でもなく「妻」にゆだねられている。つまり、外へと。

筑紫さんにはこんな句もある。

  さういふものに私はなりたくない  筑紫磐井

すぐに宮沢賢治「雨ニモマケズ」の「サウイフモノニワタシハナリタイ」を彷彿とさせるが、しかし「さういふもの」とは、なんだろう。「私はなりたくない」とさきほどのようにやはり〈欲動〉は発動している。しかしその目的がわからない。目的論的にならない。「さういふもの」がどういうものか、わからないからだ。さきほどの句のようにいま・ここにぐるぐる踏みとどまる句だが、「さういふもの」という何かを指し示す語があることによって、やはり〈外〉にでている。外へ。

こんな句もみてみよう。

  サムシングが足りぬと言はれさう思ふ  筑紫磐井

なにかが足りないと言われる。語り手は、言われて、そうだとも、思っている。しかし、その何かとは何なのか。しかもその何かはサムシングとなっている。この何かのサムシングの何かとは何なのか。何が足りないのか。何故サムシングなのか。「さう思ふ」と完結しそうになりながらも、「サムシング」によってやはり読み手は外に連れ出されてしまう。

この筑紫さんの俳句における「外」への連れだしエネルギーのようなものは、なんなのだろう。俳句の外へ外へとおもむこうとするエネルギー。俳句そのものを問いただしかねないエネルギー。それを俳句がもってしまうこと。

私はかつて筑紫磐井さんの掲句の拙評を書かせていただいたときにフロイトのこんな言葉を引用した。

  人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれると考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心というかたちで表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。
   (フロイト、本間直樹訳「マゾヒズムの経済的問題」『フロイト全集18』岩波書店、2007年)

フロイトによると、欲動の断念、あきらめ、というのは、あきらめなきゃだめだ、があって、あきらめる、のではなくて、むしろ、逆だというのだ。最初にとつぜん、あきらめさせられて、その後に、そのあきらめさせられたことによって、あきらめなきゃだめだ、という「良心」や「倫理」がやってくるという。

  あきらめなきゃだめだ→あきらめる

ではなくて、

  あきらめる→あきらめなきゃだめだ

この外からの強制的諦めが自意識の倫理や良心を育むというのは、どこか、定型という強制的枠組みと似てはいないだろうか。

わたしたちはまず定型によってあきらめさせられる。妻にこれからの行く先をききたいし、そういうものが何かをしりたいし、サムシングが何なのかをききたいけれど、あきらめさせる。しかし、その諦めによって、定型をめぐる自意識のようなものを養っていく。これは、よいことなのだと。これこそまさに定型詩であり、俳句なのだと。まもるべきものだと。

筑紫さんの俳句というのはこうした定型と外部の交通や折衝、緊張のありかたをそのまま俳句化しているように、おもうのだ。

もちろん、わたしも知りたい。しりたいけれど、あきらめなければいけない。そしてあきらめることはよいことだと、わたしは〈もう〉おもっている。

定型は、自意識を育むことがあるのだろうか。そもそも、自意識とは、どうやってうまれているのだろう。しかしそうした自意識の探求をあきらめさせるのも、また、定型が育んでいく自意識である。

定型は欲動させながらも欲動するわたしを断念させる。

定型的自意識は、「なんにもしない」私をよしとするだろう。

  うるふ日をなんにもしないことにする  筑紫磐井


          (『俳句新空間 No.4』2015年 所収)

2016年2月15日月曜日

またたくきざはし 8 [筑紫磐井]     竹岡一郎



美しくありますやうに妻に言ふ   筑紫磐井

二年ほど前に掲句を読み、妙に印象に残っていて、時々考える。最初、恐妻家の句かと思い、あるいは惚気の句かとも思ったが、どうも違う。この妻が美人か否か、それは問題ではない。たぶん、人としての立ち振る舞いとか心情の有り方とかそういうことを言っているのだと思う。これは「妻に言ふ」のだから、妻に対して要求している、とひとまず取れるのだが、本当にそうだろうか。

そう思う理由は、「ありますように」という措辞にある。「なりますように」や「いられますように」なら、これはもう妻限定であるが、目の前にいる当人に向かって、「ありますように」とは、あまりにもおかしい。だから、これは妻に対して、妻以外の何かが美しくありますように、と言っているのである。「やうに」とあるから、冀(こいねが)っている。そうなると、眼前の妻は何かを祈禱する対象である。妻に向かって、何かの、たぶん叶わぬ美しさを祈っているのだ。

上五の前に来るべき名詞が省略されているため、それは読者の頭の数だけ想像できよう。近所とか地域とかが美しくありますように。俳壇とか会社とか人間関係とか世間とかが美しくありますように。政治とか経済とかが美しくありますように。人類が美しくありますように。過去が或いは未来が或いは現在が美しくありますように。もしかしたら、天や神が美しくありますように。

即ち、作者と妻以外の、作者と妻を取り巻く何か、または取り巻く全てが美しくありますように、と希(こいねが)っているのである。

これは途方もなく贅沢な祈りなのか、あるいはこの上なく慎ましい祈りなのか。慎ましく且つ贅沢な祈りなのであろう。

私は一寸、ミレーの「晩鐘」を思い出したりもするのだ。あれは何を祈っているのか、子供の頃から疑問だったが、最近、世界の美しさを祈っているのだと思うようになった。

橋本無道の「無禮なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ」を思い出したりもする。あれは妻を罵っているようで、実はそうではない。毎日、ごはん作ってくれて有難う、とはとても照れくさくて言えぬが、何か言ってやりたいので口に出すと、あんな風になる。掲句も、祈る対象で居てくれる妻を有難く思っていることは言うまでもない。

<「我が時代」実業広報社2014年所収>

2014年12月27日土曜日

人外句境 5 [筑紫磐井] 佐藤りえ


礼装が那由他の蝶をささめかす   筑紫磐井

那由他は不可思議の手前、阿僧祇の次の単位で、10の60乗(※1)である。
アラビア数字表記してみると、1那由他は
1,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000
…です。

正直視認できるイメージの範疇を超えていて「ゼロがたくさん並んでる」としか思えない。
そんな膨大な数の蝶がささめく背景に「礼装」がある。

虫が大量出演するパニック・ムービーではないが、蝶にまみれて窒息してしまいそうな「礼装」が、むしろ蝶をコントロールする側にまわっているのが、さりげなく奇妙だ。

「礼装」の人でなし感(※2)が、うんざりするほどの数の蝶を可憐な存在にしてみせているがやはりこの句の主役は「蝶」だろう。

気の遠くなりそうな羽ばたきに取り巻かれ、礼装の内もいつしか蝶で溢れる幻想を見せられる。


※1 10の72乗という説もある。
※2 この「人でなし」は江戸川乱歩「人でなしの恋」のそれにあたる。



〈俳誌「俳句新空間」No.2 2014所収〉