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2017年9月19日火曜日

超不思議な短詩224[芝村裕吏]/柳本々々


  ゲームって、究極的に言えば、絵を描くというか、写生の一つなんです。  芝村裕吏

去年、ながや宏高さんとお話したときに、ながやさんが短歌=定型詩とゲームの関係について話されていて、そうかあ、ゲームの箱庭的な部分と定型詩と
いうのは似ているのかもしれないなあと思った覚えがある。

たとえば定型をハード=ゲーム機として考えてみよう。そしてその定型にセットするソフトを短歌、俳句、川柳と考えてみよう。定型(ハード)のスペックや容量は決まっているのだが、そこにセットされるソフトによって、さまざまにプレイ(読み)は変わってくる。

ゲーム・デザイナーの芝村裕吏さんは、ゲームは「写生」だと言う。ある現実や日常の一瞬を切り取る。その切り取られたものが世界観になり、ミクロなグランドデザインになる。

  ゲームって、究極的に言えば、絵を描くというか、写生の一つなんです。現実の一部を切り取って、それを描くことがゲームデザインだと思うんですよね。何かの瞬間とか現実の一部、あるいはファンタジーでもなんでもいいんですけど、その一部を切り取れるかどうか。その切り取り方によって、ゲームデザインが変わる。人によっては、格闘してるところを切り取って提示する。格闘ゲームは、まさにそうですよね。
  (芝村裕吏『ゲームの流儀』)

ある切り取られたミクロな現実が、マクロな世界そのものとなる。たしかにそう言われてみると、格闘ゲームは奇妙な世界で、たとえば『ストリートファイターⅡ』を例にとってもいいが、〈格闘しかしていない〉のだ。そこには〈成長〉もなければ、〈ストーリー〉もほぼない。ただし、現実世界から切り取られた〈格闘だけの世界〉が、象徴的にマクロな世界を提示し、象徴し、代替する。

ここで大事なのが、ゲームにはハードの機能、ソフトのコンテンツにもうひとつ大事な関数が関わることだ。それは、プレイヤーの経験値としてのストーリーである。たとえばマリオをはじめてプレイしたとしよう。最初はクリアできなかったステージも、何度も死にながら何回も同じところをプレイしているうちにプレイヤーの経験値がたまってゆき、そのステージをクリアできるようになる。マリオ自体には、ただ複数のうちのひとつのステージをクリアしたというストーリーしかないが、プレイヤーのなかではどうしてもクリアできなかったなんどもなんども死んだステージをクリアできたというプレイヤーの経験値としてのストーリーが生まれる。

つまり、ゲームのストーリーは、ゲーム本編のストーリーと、プレイヤーが経験値のなかで育んでいくストーリーがある。

ゲームにはプレイヤーの経験値をめぐるストーリーがあるように、定型詩にもプレイヤーの経験値をめぐるストーリーがあるのではないだろうか。たとえばここまではわかるがここからはわからない。でも何度もプレイしていると突然クリアできるステージがあるように何年かたったあとにふいに〈わかってしまう〉ことがある。でもわからないひともいるので、そこからは〈難解〉かどうかの境界線がひかれていく。クリアできるひととできないひと、難解かどうか、の境界線がおのおので生まれていく。でもそうしたクリア可/不可の複数の境界線もひっくるめながらゲーム/定型詩のジャンルがつくられていく。

「ゼビウス」という名作ゲームをうんだ遠藤雅伸さんがこんなふうに述べている。

  良いゲームの条件として、難易度調整は一番大事だと思います。どんなクソゲーでも上手く難易度調整してやれば、そこそこ遊べるはずなんですよ。その辺を上手くやらないから、どんなにすごいゲームを作ってもクソゲーだって言われてしまうんですよ。
 (遠藤雅伸『ゲームの流儀』)

この「難易度調整」というのは定型詩にも関わっているように思う。どこらへんに「難易度」を「調整」するのか。あまりに難易度が高すぎると「無理ゲー」がうまれてくる。ただときどき「無理ゲー」や「クソゲー」からそれまでのジャンルの世界観を更新するような(『デスクリムゾン』や『たけしの挑戦状』のような)ソフトが生まれることもある。

ゲームというのはプレイする人間の、プレイヤーの経験の質感(成功体験・失敗体験の微妙なバランス、プレイヤーをいかに成功させ・失敗させるか)をとてもよく考えられながらつくられるが、定型詩にもそうした〈読みの質感〉〈読みの経験値〉がどうなるかを微細に考えながらつくられるところがあるのではないだろうか。

  そもそも、僕が初期のファミコンのゲームソフトに感じた魅惑の核心は、現実世界の惰性的に際限ない拡がりを、ゲームソフトの「狭いなりに広い緊張した世界」へと切り詰められるということだったと思う。
  (千葉雅也『別のしかたで』)

定められた(少ない)容量のなかでプレイヤー(読み手)のプレイを考えながら工夫しつづけること。

 ファミコンは、パソコンと考え方の違うハードだし、何しろ動かし方も違うし、容量もパソコンに比べていきなり小さい。色数も少なければ、プログラムはアセンブラ。ゲームもシューティングとアクションばかりでしたから。
 『ドラゴンクエスト』が出たときに衝撃を受けましたよ。「ふっかつのじゅもん」という形でセーブもできて、きっちりとしたRPGになっていたから。「工夫さえすれば、ファミコンでもRPGができるんだ」って。『ドラゴンクエスト』がきっかけで『FF』を作ろうと思ったんです。
 「もう大学を八年間も留年してるし、ファミコンの3Dゲームも上手くいかないし、次のゲームがダメだったら大学に戻ろう」と思ってました。それで『ファイナルファンタジー』というタイトルに。
当初は『ファイティングファンタジー』という案もありましたけど、「自分自身のファイナルなゲームにしよう」と思っていたんですね。「これでゲームの仕事は終わりになるかもしれないけど、頑張ろう」って。
  (坂口博信『ゲームの流儀』)

仮の思考実験として7世紀『万葉集』の万葉人や9世紀『古今和歌集』の歌人を、1899年寝たきりの正岡子規を、ゲーム・クリエイター=ゲーム・プレイヤーとして想像してみること。

意外なことかもしれないけど、ゲームと定型詩はよく似ているように、思う。

  プレイヤーは難しいゲームを好みます。プレイヤーは失敗が好き。だけど大好きではない。ゲームに気持ちよく没頭できる「フロー」と呼ばれる魅力的な心理状態にプレイヤーを引き込むのはこのようなバランスだと言われます。
  (ユール『しかめっ面にさせるゲームは成功する』)

あえて言い換えてみよう。

  読み手は難しい定型詩を好みます。読み手は失敗が好き。だけど大好きではない。定型詩に気持ちよく没頭できる「フロー」と呼ばれる魅力的な心理状態に読み手を引き込むのはこのようなバランスだと言われます。
  (ユール(偽)『しかめっ面にさせる定型詩は成功する』)

          (『ゲームの流儀』太田出版・2012年 所収)



2016年10月11日火曜日

フシギな短詩48[ながや宏高]/柳本々々


  玄関に靴を浮かべて沈まないように祈ってから乗りこんだ  ながや宏高

どうして語り手は「沈」むかもしれないと思ったのか。「祈っ」たのか。

この問いから、はじめてみよう。

歌人の光森裕樹さんがこのながやさんの連作「水性ファンタジー」を「水に関する歌で揃えた〈水しばり〉の一連である」(「境界の表面張力」『『かばん』別冊・新人特集号 Vol.6』)と解説しているように、このながやさんの連作は〈水〉にあふれている。

ここで〈水〉のあるひとつの作用を思い出してみよう。それは〈不可逆〉を持ち込む点である。たとえば、なんでもいい、雨に濡れた本のことを考えてみよう。本は乾かせることができるかもしれないが、しかし《元の状態に戻ることはない》。

このながやさんの連作は「水性ファンタジー」の表題のとおり、全編水に満ちている。その意味では以前取り上げた野間幸恵さんの水をめぐる俳句の雰囲気にも似ている(拙稿「フシギな短詩18[野間幸恵]」)。水をとおして世界のそこかしこを思いがけないかたちで移動していく。しかし決定的なのは、その水の移動とともに、水の不可逆がセットで語られていくことだ。

  破裂した水ふうせんの結び目は悪魔のへその緒じゃありません  ながや宏高

  スライムの死体かよって言い合ったアイスキャンディー溶ける路上で  〃

  テーブルにこぼしたダージリンティーは「夕日に染まる湖」役に  〃

「破裂した水ふうせん」、路上で溶けた「アイスキャンディー」、「テーブルにこぼしたダージリンティー」。どれも《もう元に戻らない水》である。

連作の雰囲気から掲出歌を読むとするならば、語り手はこの《水と不可逆》の雰囲気のなかで、玄関に並んだ靴を履こうとしている。いや、「履く」ではなく、「乗りこ」もうとしている。靴は、語り手にとっては船だからだ。だから、「沈」む可能性があり、「沈」めば不可逆として二度と浮かび上がらない可能性も感じ取っている。それが連作の《雰囲気》のなかにおける「靴」のありかただ。

語り手が「沈」むかもしれない「靴」に「祈」りながら「乗りこんだ」のはそういうわけだ。この連作という不可逆の船そのものに語り手は乗っていたから。

この「水性ファンタジー」における水は明らかに不可逆の水である。その意味で、光森裕樹さんがこの連作を「境界への意識」から読み解いていたことに注意したい。不可逆とは、境界をこえたら、二度と戻ってはこられない境界線だからだ。

この連作の水は、このわたしに覚悟を要請してくる水だ。境界を越えるのか、越えないのかの、覚悟を。おまえはどうするのか、と。

  対岸で手をふっている人がいるこちら側には僕しかいない  ながや宏高

前回の笹井宏之さんもそうだったが、もしかすると短歌にはいかに不可逆を、境界を、越えるかが、つねに賭けられているのかもしれない。短歌の性質として。はじまったら《一方通行的に》終わらなければいけない定型詩の宿命として。

短歌とは不可逆をひきうける覚悟であること。或いはその覚悟への予期と準備と恐怖であること。「沈まないように祈」ること。たとえば穂村さんの予期と準備と恐怖の歌。

  「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士  穂村弘
   (『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』小学館、2001年)


          (「水性ファンタジー」『『かばん』別冊・新人特集号 Vol.6』2015年 所収)