-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年8月29日火曜日
続フシギな短詩185[小久保佳世子]/柳本々々
一人称単数として滝の前 小久保佳世子
小久保佳世子さんの句集『アングル』にとって〈一〉というのはとても大事な数字だ。〈一〉がさまざまな「アングル」を語り手にもたらすからである。
掲句も、「一人称単数として滝」をみている〈わたし〉という「一」のアングルが、わたしに新しい滝を発見させている。滝をみる一人称単数、一人称複数、二人称単数、三人称複数。滝は、〈だれ〉がみているのかではなく、〈どの人称〉がみているのか、で微分されていく。アングルは、実は、〈眼〉ではなく、〈主語〉にある。
「一」をめぐる句をみてみよう。とっても多いんだ。
丹頂の一声徹る子宮まで 小久保佳世子
変はるため一本の裸木になる 〃
引算の途中や十一月の森 〃
一歩ずつ海に近付く懐炉かな 〃
一囲ひづつの冬日を獣らに 〃
秋草の一種サナトリウムの香 〃
海にある一線憲法記念の日 〃
太陽の一色強し河骨に 〃
鶴の足一本二本さみだるる 〃
台形の滝の一辺人歩く 〃
水温む穴一対は河馬の鼻 〃
一億の蟻潰しゆく装甲車 〃
一万歩来てぼろぼろのチューリップ 〃
まるで「一」をめぐる俳句アンソロジーができるくらいにたくさんある。偶然だろうか。偶然だとは、おもわない。「一」は「アングル」という句集タイトルが示すとおり、同時に、視覚(アングル)をあらわすイメージにもなっているからだ。
「一」という棒線によって、「子宮」まで届く声が示される。変わるための、あるいは憲法の、境界線が示される。「一歩づつ」「一万歩来て」と道程そのものがあらわされる。一人称単数でみていた滝は、こんどは図形としてあわらされ、「台形の滝の一辺」になる。
この句集では「一」が意味のアングルをもたらすと同時に、視覚のアングルをももたらしている。一は意味であると同時に、図形でもあるのだ。
これは、偶然ではない。
小久保さんは「あとがき」にこんなふうに書かれている。
句集『アングル』の作品にほんの少しでも飾りや作り物ではない私自身の見た「もう一つのほんとう」が描かれていたら本望です。
(小久保佳世子「あとがき」『アングル』)
ここにも「一」があらわれている。「一」とは「もう一つのほんとう」なのであり、いや、「一」そのものが、アングルであった。
除夜の鐘一音一音に行方 小久保佳世子
(「綿虫空間」『アングル』金雀枝舎・2010年 所収)
2016年9月30日金曜日
フシギな短詩45[荒木飛呂彦]/柳本々々
漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の著者である荒木飛呂彦さんは、自らの創作方法を語った『荒木飛呂彦の漫画術』の「導入の描き方」において次のように語っている。
五・七・五になっているセリフ 荒木飛呂彦
最初の一ページにどんなセリフが来れば次のページも読みたくなるのか、考えつくものを挙げてみましょう。
・ドキッとするセリフ
・しっとり落ち着くセリフ
・癒されるセリフ
(……)
・五・七・五になっているセリフ
・ラップのように韻を踏んでいるセリフ
(荒木飛呂彦「導入の描き方」『荒木飛呂彦の漫画術』集英社新書、2015年)
興味深いのは、最初の一ページのセリフ例のひとつとして五七五定型が現れていることだ。なぜ、五七五定型が「次のページも読みたくなる」ようなセリフなのだろう。
荒木さんは「最初の一ページで、その漫画がどんな内容なのかという予告を、必ず描くようにしてい」るという。そこらへんにヒントがありそうだ。つまり、たった一言のセリフが全体をそのままあわらすということ。
実はそうした俳句の働きについて言及している小説家がいる。アメリカの詩人ジャック・ケルアックだ。ケルアックはインタビューにおいて子規について言及したあとでこんなふうに俳句について話した。
俳句? 俳句が聴きたいか? すごいビッグなお話を短い三行に圧縮するんだよ。
ビッグなお話を圧縮したミニマルな形式で提出すること。それがケルアックにとっての俳句だった。(ケルアック、青山南訳『パリ・レヴュー・インタヴューⅠ 作家はどうやって小説を書くのか、じっくり聞いてみよう!』岩波書店、2015年)
荒木飛呂彦さんやケルアックなどの定型に対する考え方、つまり全体を部分として圧縮したのが定型、から考えてみたいのは、定型詩というのは提喩的な働きをなすということだ。
提喩(シネクドキ)とは、なにか。それは、全体を部分であらわす喩え方だ。たとえば、「文学とパン、どちらが大切だろうか」とあなたが問いかけられたときに、ここでの「パン」は「パン」だけでなく、「食べること全体、食べ物全体」をも同時にあらわしているはずだ。つまり、文学と食べ物、どっちが大事か、と。それを提喩であらわせば「文学とパン、どっちが大事か」になる。食べ物(全体)をパン(部分)によってあわらしたのだ。それが提喩である(ちなみに他の例では、「目玉のおやじ」や「口裂け女」も「目玉/口」(部分)が「おやじ/女」(全体)をあわらしているので提喩だ)。
定型詩は、提喩的な働きをなす。それはつまりどういうことかといえば、提喩の働きがそうであるように、部分によって全体を、最小によってこれから展開される広大な空間をあわらすことになる。だから五七五を一ページに置けば、それはこれからの物語空間の全体の予期になる。
それはどんな一部をもぎとっても、そのもぎとった部分そのものが全体そのものと似てしまうフラクタル構造のようなものと言ってもいいかもしれない。部分イコール全体であり、全体イコール部分であるフラクタル。
荒木さんはデビュー作の漫画『武装ポーカー』の最初の一ページに「『5W1Hの基本』『他人とは違う自分ならではの個性』『同時に複数のねらいを描く』『漫画全体の予告』」という「最後まで編集者にページをめくらせたい」「必要な要素」を「すべて」込めたという。そういう読者の欲動を一気に鷲掴みにするような最小形態は先ほどのケルアックの言葉を借りればこんなふうにも言えるだろう。
「短くてスウィートで思考がいきなり跳躍するような文章は、まあ、俳句だな」
しかしこれらの最大にして最小のフラクタルは定型詩そのものにもあてはまるのではないか。すべてが込められていて、全体でありかつ部分であり、最大で最小の、スウィートな跳躍。それが定型詩なんだと。
荒木飛呂彦さんやケルアックをめぐりながらもいったいなにを言いたいのかというと、定型詩は、定型詩〈内〉の空間だけをめぐりめぐっているわけではないということだ。定型詩はわたしたちの知らない〈奇妙〉なところにそっと密輸されているかもしれない。俳句の空間だけにあるのが俳句ではないかもしれないし、短歌の空間にあるものだけが短歌でもないかもしれない。それそのものの根っこはいつも〈外側〉にある(と、ラカンは言っていた)。
ちなみに『ジョジョの奇妙な冒険』と俳句をめぐっては、荒木飛呂彦責任編集のムック『JOJOmenon(ジョジョメノン)』誌上において「ジョジョ句会」が開かれている。ジョジョ文化と俳句文化がどういうふうに衝突しあい融合しあうかが実況的にわかるので興味のある方はぜひ読んでみてほしい。
ジョジョ立ちの正中線や秋の天 堀本裕樹
運動会子ら吠える午無駄無駄UURRRYY! 柴崎友香
「あなたも河馬になりなさい」だが断る 千野帽子
(「ジョジョ句会」開きました。」『SPURムック JOJOmenon』集英社、2012年)
落ちつくんだ…「素数」を数えて落ちつくんだ…「素数」は1と自分の数でしか割ることのできない孤独な数字……わたしに勇気を与えてくれる
(荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』6巻、集英社、2001年)
(「導入の描き方」『荒木飛呂彦の漫画術』集英社新書・2015年 所収)
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