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2017年10月11日水曜日

超不思議な短詩238[岡崎京子]/柳本々々


  いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。いつも。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ち方というものを。  岡崎京子

「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」の図録『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』に寄せた文章のなかで小沢健二は次のように書いている。

  岡崎京子は『ヘルタースケルター』で、「みなさん」という言葉を使っている。マーケティングの会議/思考がとらえようとするのは、この「みなさん」の動向だ。
  ……
  でも、「みなさん」は、実は存在しない。
  「みなさん」は、実は数字だ。
  (小沢健二「「みなさん」の話は禁句」『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』)

小沢健二は『ヘルタースケルター』に埋め込まれた「みなさん」と「あんた達」の差異について語る。「みなさん」に取り巻かれた主人公のりりこ。表の「みなさん」と裏の「あんた達」の二重構造的環境にとりまかれるりりこ。

ここで興味深いなと思うのが、岡崎京子マンガが喚起してくる全体性である。岡崎京子は、冒頭に掲げたように「たった一人の」「女の子のことを書こうと思っている」と述べるのに、そして実際それは納得できるはずなのに、岡崎マンガでは、その「一人」が〈全体的ななにか〉を立ち上げていく。それは「女の子」を取り巻く全体的な「みなさん」や「あんた達」かもしれないし、「一人の女の子」が「全体」(終末感と奇妙な明るさが同居した80年代)の「女の子」を代表してしまう。「一人」が「全体」に結びついていってしまう風景を岡崎マンガは描いていたのではないか。

冒頭の引用部分は『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』の「ノート(ある日の)」からだが、こんな続きがある。

  いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。
  いつも。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ち方というものを。
  一人の女の子の落ちかた。
  一人の女の子の駄目になりかた。
  それは別のありかたとして全て同じ私たちの。
  どこの街、どこの時間、誰だって。
  近頃の落ちかた。
  そういうものを。
  (岡崎京子『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』)

「一人の女の子」の風景は、「別のありかたとして全て同じ私たち」につながっていく。それはもう女の子/女性/男の差異もない「全て同じ私たちの」風景である。

『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』には穂村弘さんの短歌が寄せられているが、やはり、〈全体〉を想起させる短歌になっている。

  長い夢から覚めたら世界がなんか変 タクシーの基本料金がちがう  穂村弘

  「商社ってシステムでかいから一度海老に決まると一生海老だ」  〃


  真っ青な目に僕たちを入れたまま台風はゆっくりとウインク  〃

  「目玉焼き、かたさどのくらい?」と問いかける誰かの声が永遠になる  〃

  「気をつけて一OLのあやまちは全OLのあやまちだから」  〃
  (「インターフォンにありんこがいる」『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』)

夢から覚めると「世界」が変わり、「システム」は「海老」が「海老」で一生ありつづけることを決め、「台風」の「真っ青な目」のなかに「僕たち」はいて、「誰かの」なにげない「声が永遠にな」り、「一OLのあやまちは全OLのあやまち」になる〈世界〉。

  そうよ あたしはあたしがつくったのよ
  (岡崎京子『ヘルタースケルター』)

〈ひとり〉の「あたし」の世界は、〈ぜんぶ〉の「あたし」の世界に結びついてゆく。

  日本の女の子の人生の幸福と不幸と困難さと退屈さについて行ってみよう。
  (岡崎京子「ノート(ある日の)」『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』)

「いつも一人の女の子のことを書こうと思っている」と書き出した文章で岡崎京子は「日本の女の子の人生の幸福と不幸と困難さと退屈さ」について書き始めている。岡崎マンガでは、絶望的に、ひとりの女の子とぜんぶの女の子が結びついてゆく。それは、時間さえも、超えて、だ。

  あなたが これから 向かうところは わたし達が やってきたところ
  (岡崎京子『チワワちゃん』)


          (『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ』平凡社・2015年 所収)

2017年9月9日土曜日

超不思議な短詩208[佐々木紺]/柳本々々


  妖精の嘔吐や桜蕊ふりぬ  佐々木紺

この句には横に「#金原まさ子resp.」(金原まさ子さんをリスペクトして作った句)と詞書がついている(もともとTwitterのタグだったのかもしれない)。

この句の「妖精の嘔吐」に注意したい。紺さんの句をみてはじめて気づいたような気もしているのだが、金原さんの俳句は、出会うことのないふたつの物を強い悪意によって出会わせる、という質感がある。

たとえばかつて取り上げた金原さんの句。

  蛍狩ほたる奇声を発しおり  金原まさ子

「ほたる」と「奇声」が出会っている。私はかつて金原さんの句を川柳だと思っていて読んでいたことがあったのだが、たぶんその勘違いは、この強い《悪意の出会い》にあったようにおもう。

ただ《悪意の出会い》というのは前回BLをめぐって話したように関係性の詩学である。だから『庫内灯』創刊号で、佐々木紺さんと金原まさ子さんが往復書簡をしているのは、《必然的》なようにも思うのだ。BLとは、このような関係もある、あのような関係もある、と関係的想像力の強度を高めることであるならば、金原さんの俳句とはまさにその関係的想像力の強度がそのまま俳句になっているからだ。

紺さんは往復書簡でこんなふうに述べている。

  また他の人の俳句をBL読みすることは、萌えを見つける遊びであるのに加え、世界に対する小さな反旗を翻すことでもあると考えています。
  (佐々木紺「往復書簡 金原まさ子×佐々木紺」『庫内灯』)

ここで興味深いのは、「BL読み」は「萌えを見つける遊び」だけでなく「世界に対する小さな反旗」と〈小さな戦い〉にもなっていることだ。それは、〈関係〉は《こうあらねばならない》という強制される関係への「反旗」なのだ。

たとえば、妖精は嘔吐してはいけない、光って踊って楽しげにふるまっていなくてはならない、蛍は美しく光り続けていなくてはならない、奇声を発してはいけない、そうした要請=強制された関係を、関係的詩学のBL的枠組みは問い直し、抑圧された関係性をひっぱりだす。妖精の嘔吐、蛍の奇声として。

金原さんは紺さんの「ここ最近でときめかれた作品はありますか?」という手紙に「仮面の告白」「塚本邦雄」「マイケルジャクソン」「森茉莉」「ドグラ・マグラ」など作品を羅列したのだが、そのなかにこんな漫画家たちがいた。

  萩尾望都 山岸凉子 竹宮恵子

漫画史的には24年組と呼ばれる1970年代に少女マンガの革新を行った漫画家たちだ。

  萩尾望都たち24年組の特徴は、死や異世界や過去へのノスタルジーという、いわばロマン主義的な「退行」を作中に必ず抱え込むことだ。それが彼女たちの甘美さを担保している。その上で「死の世界」と「現実」との往復が主題となる。これは24年組の末裔としての岡崎京子の「リバーズ・エッジ」にまで通底する。
 (大塚英志『ジブリの教科書9 耳をすませば』)

考えてみると、金原さんの蛍の「奇声」も、紺さんの妖精の「嘔吐」も、「死の世界」への「退行」ととらえることもできる。ところがその「退行」が俳句で行われたときに、新たな関係性を俳句にもちこむ。

最近たまたま私も山岸凉子と竹宮恵子を読んでいたのだが、彼女たちは、凄絶にキャラクターの抑圧された〈内面〉をひきずりだす。それが「美少年」でも、その「美少年」性を食い破るような〈内面〉やそのたびごとの枠を逸脱するような関係性を描こうとする。

この佐々木紺さんと金原まさ子さんの往復書簡における《関係性》を読みながら私がみえてきたのは、BL読みは楽しみとしてだけでなく、ときに、〈そうあらねばならない〉関係性をそれがほんとうに〈そうあらねばならないのか〉、たまたま偶有的に〈そうあっただけでないのか〉という、関係の「小さな反旗」になるということだ。

逸脱することで、偏差がみえてくる。関係は決して対称的なものではないこと。それが逸脱によってみえてくる。すごくシンプルなことなのだが、なかなかできそうにないこと。

  逸脱のたのしさでヨットに乗らう  佐々木紺


          (「A Film」『庫内灯』2015年9月 所収)