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2017年10月13日金曜日

超不思議な短詩239[野口る理]/柳本々々


  チャーリー・ブラウンの巻き毛に幸せな雪  野口る理

前にも書いたが、俳句とは、世界のアクセスポイントをさぐる試みでもあるのではないかと思っていて、たとえば、

  おおかみに蛍が一つ付いていた  金子兜太

  本の山くづれて遠き海に鮫  小澤實

「おおかみ」と「蛍」のアクセス・ポイント、「本の山」が崩れる瞬間と「鮫」のアクセス・ポイントなどがこれまで名句として発見され引用されてきた。俳句は、ただ、アクセス・ポイントを、提出する。こういうアクセスが、そのときありました、ということを(あるいは、アクセスしてしまいました、ということを)。

関悦史さんにこんな句がある。

  内臓のひとつは夏の月にかかる  関悦史

ここでは「内臓」が「夏の月」にアクセスしている。「夏の月」という〈清潔〉そうなものに「内臓」が「かか」り、血みどろにしてゆく(海外ドラマ『ウォーキング・デッド』ではゾンビ避けのために登場人物が死体の内臓をぶらさげてあえて死臭を放ちながら歩くシーンがあった)。

冬の季語「おおかみ」に夏の季語「蛍」がアクセスし神話的な時間に、「本の山」の「くづれ」に「遠」い「海」の「鮫」がアクセスし可傷的瞬間に、「内臓」に「夏の月」がアクセスしプレーンなものが血みどろになるサブカルゾンビ的侵犯の時間に。

じゃあ、野口さんの句ではどうだろうか。

私はかつてもこの句を考えてみたことがあるのだが、「チャーリー・ブラウン」というマンガ・アニメの身体が、「巻き毛」という記号の線から実体を伴った「毛」を手に入れ、さらにその「毛」に「雪」がのることがこの句のアクセス・ポイントになっているのではないかと思う。

 マンガ・アニメのチャーリー・ブラウン(線の記号的身体)
   ↓
 巻き毛という毛をもったチャーリー・ブラウン(毛をもった実質的・脱キャラクター的身体)
   ↓
 雪がちゃんと毛のうえにのるような巻き毛をもったチャーリー・ブラウン(モノの身体としてのチャーリー・ブラウン)

雪が毛の上にのるということは、その毛はモノであり、いつかは抜けるということでもある。抜けるということは、このチャーリー・ブラウンの身体は、やがては、老いて、死んでゆくということでもある。この「幸せな雪」の「幸せ」とはそういう身体をもちながらも、それでも〈いま・ここ〉の時間を「幸せ」と感じることのできることをあらわしている。

だからここでのアクセスポイントは、チャーリー・ブラウンが〈老いる身体〉と出会ったというそのことにある。それでも、その〈老いる身体〉のうえに、「幸せな雪」がふり・つもった。その〈重み〉がこの句の生になっていると、おもう。

  チョコチップクッキー世界ぢゆう淑気  野口る理


          (「Ⅰ おもしろい」『天の川銀河発電所』左右社・2017年 所収)

2017年9月17日日曜日

超不思議な短詩223[さやわか]/柳本々々


  コンピュータゲームとはもっとも素朴な形に還元すると「入力すると反応がある」ということである。  さやわか

ゲームと俳句の話が続いているのでせっかくなのでもう少し冒険して続けてみようと思う。さやわかさんがゲームの本質について次のように語っている。

  ゲームの本質。コンピュータゲームとはもっとも素朴な形に還元すると「入力すると反応がある」ということである。それはAボタンを押すとマリオがジャンプするということだったり、エンターキーを押すと次の画面が表示されることだったりする。我々はしばしばモニタの前で、どうしても選びきれない選択肢を選ぶ羽目になる。その時も、ボタンはいつも通りに軽いし、ボタンそれ自体は画面内で展開されているいかなる物語やキャラクターとも関連がない。重要な選択であっても実際に行うのはエンターキーを押すか否か、「する/しない」という些細な選択なのだ。たったそれだけのことにすべてを左右させることで、スリルと不安を喚起する。選択自体には意味がないが、しかしその行動が世界を改変してしまう。
  (さやわか「ゲームのように」『ユリイカ臨時増刊 涼宮ハルヒのユリイカ』)

ここでさやさんが言っているのはたぶんこのようなことだと思う。ゲームというのは、非常にシンプルな行為、入力すると反応があるという行為が、世界をつくりあげ変えていく行為なんだと。

前回、フローな俳句として鴇田智哉さんの俳句をあげたが、ときどき、鴇田さんの句集を読みながら、任天堂のアクションゲーム『スーパーマリオブラザーズ』に近いんじゃないかと思ったりしたことがあった。これはさやさんで引用したような、シンプルな入力が、世界への触知とつながっている感覚と思ってもらえばいいと思う。たとえば、

  水面ふたつ越えて高きにのぼりけり  鴇田智哉
   (『句集 凧と円柱』)

あえてマリオっぽい句を選んでみたのだが、〈水面をふたつ越えて高いところにのぼった〉というのはふつうなら「それがいったいなんなんだ」的なところがあるが、もしこれがマリオが読んだ句だったら、どうだろう。水面をふたつ越えて・高いところにのぼったなら、ステージ=世界を攻略してゆく喜びがある(プレイヤーも同様にその喜びを感受する)。マリオにとっては、こうした原始的で・シンプルな行為が、至上の意味をもつ(マリオ=プレイヤーにとってすべての価値観はステージを前進することなのだから)。

ちなみにこの句集のタイトルは、『凧と円柱』で、高い場所やポールのような突端が気にされているのだが、そうした〈高い場所〉や〈とがったもの〉への至高もマリオ的である(土管、城のポール、キノコ)。

  春めくと枝にあたってから気づく  鴇田智哉

この世界では突端に触れる、というただそれだけの行為が「春」に気づくという世界そのもののベースへの触知につながっている。これはマリオがクリボーに触れて命を失ったり(触れることが世界の終わり)、キノコに触れる(食べる)ことで身体を巨大化させたり(世界の視野の改変)することにも似ている。

こんな句もみてみたい。

  近い日傘と遠い日傘とちかちかす  鴇田智哉

遠近に「ちかちか」と視覚的なデジタル・ノイズが入ってくる風景。これなども処理落ちのマリオのステージのようなノイズ的風景を想起することができる。

  裏側を人々のゆく枇杷の花  鴇田智哉

  断面があらはれてきて冬に入る  〃

世界の「裏側」や「断面」の意識。マリオ3では、↓ボタンを押しっぱなしにすることでステージの裏側にすとんと落ちることができる裏技とは言えないまでも小技があったが、あるいはさいきんのペーパーマリオではステージを3Dで断面的に見ることが可能になったが、「裏側」や「断面」はゲームの世界(ステージ)では、たびたび〈世界の果て〉として出会うことでもある。

鴇田さんの俳句がゲーム的世界観に支えられているというつもりはないのだが、さやさんが述べたようなゲームの本質、シンプルな入力が世界の原理につながっていく感じは、鴇田さんの俳句の風景によく似通っているのではないかと思う(というかそういう思いがけない枠組みを導入すると鴇田さんの俳句はぐっと理解しやすくなったりするのではないだろうか)。

小津夜景さんの句集『フラワーズ・カンフー』を読んでいて、或いは関悦史さんの俳句を読んでいて思うのは、俳句がB級的な要素をそれとなく密輸しながら成立してきていることだ。そのB級的要素とはなんだろう、と時々考えるのだが、たとえばそれはこうしたゲーム的世界観との思いがけないリンクと言うこともできないだろうか。

たとえば、小津夜景さんは関悦史さんとのトークで、

 ぷろぺらのぷるんぷるんと花の宵  小津夜景

は自分がはじめて俳句をつくったと実感することができた《写生句》だと述べたが(たしか夜景さんは海辺で吟行していたときにできた句だと言ったような気がする、ぼんやりだが)、「ぷるんぷるん」している「ぷろぺら」もゲームのCG世界ではごくまっとうなゲーム的リアリズムとしてあらわれそうではある(例えば私ならプレイステーションソフト『クーロンズ・ゲート』を想起する)。

関さんのこんなリアリズムとゲーム的リアリズムが融合する句。

  牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服  関悦史

現実のリアリズム的世界では非常識なことが、ゲーム的リアリズムの世界では、なんのためらいもなくまっとうで・ノーマルなことがある。

  蝉の死にぱちんぱちんと星が出る  鴇田智哉


          (「ゲームのように」『ユリイカ臨時増刊 涼宮ハルヒのユリイカ』2011年7月 所収)

2017年9月1日金曜日

続フシギな短詩192[小澤實]/柳本々々


  「はい」と言ふ「土筆摘んでるの」と聞くと  小澤實

前回、金子兜太さんの句のアクセスポイントの話で終わった。

  おおかみに蛍が一つ付いていた  金子兜太

古代のWi-Fiのように「おおかみ」に「蛍」が「一つ付」くことで、「おおかみ」と「蛍」がイーブンになり、「おおかみ」から「蛍」へ、「蛍」から「おおかみ」へなにかがそそぎ込まれてゆく。それがなんなのかはわからないけれど、ともかくWi-Fiのように、アクセスポイントを発見したのだ。これを古代のアクセスポイントの発見と呼んでみたい。

思い出したのが、小澤さんの次の句だった。

  本の山くづれて遠き海に鮫  小澤實

本の山がこちらに崩れてきたときに、アクセスポイントを発見してしまう。これは、現代の意識のWi-Fiのアクセスポイントと言ってもいいのではないだろうか。本の山がこちらに崩れるという唐突な可傷性を通して、遠い海にいる鮫と近接して遭遇するような可傷性とつながってしまう。意識は「遠き海」に伝送されている。しかし、傷は、ここにある。

俳句にはこうした意識のアクセスポイントを〈見つけてしまう〉ところがあるのではないだろうか。

掲句。「土筆摘んでるの」と聞くと「はい」と言われる。それが倒置法で句になっている。ここにも私は開通されてしまったアクセスポイントがあるような気がする。

土筆を摘んでいるひとをみた語り手が、あああのひとは土筆を摘んでいるのだと意識し、その土筆を摘んでいる行為を語り手は(土筆を摘んでいるのだな)と心的に言語化し、それを相手との適当な関係性のもと「土筆を摘んでいるのですか」ではなくラフな感じで「土筆摘んでるの」と声にして身体を通して聞こえるように発話し、その発話化された問いかけに対し、土筆を摘んでいるひとは無意識で土筆を摘んでいた行為を(ああ自分は今あらためて思ったが土筆を摘んでいるのだ)ということを〈意識〉化し、そしてそれが自分への問いかけだったので「はい」か「いいえ」で答えなければならず「そうです。土筆を摘んでいます」ではなく語り手への応答としてやはり適当な関係性を考慮した上で(うん)ではなくて(はい)を選択し、声に出して「はい」と言った。

これだけのことが、見いだされた意識のアクセスポイントをとおして、一瞬のうちに、伝送されるのが、俳句なのである。

そしてその「おおかみ」の、「本」の、「土筆」の、意識のアクセスポイントは、やがてメディアが〈進化〉し手元で戦争の動画を見られるようになって、「人類」の意識のアクセスポイントに到達する。〈戦争〉と〈団欒〉という人類の意識のアクセスポイントを発見してしまった句としてこんな句を最後にあげてみたい。

  人類に空爆のある雑煮かな  関悦史

          (『セレクション俳人5 小澤實集』邑書林・2005年 所収)

2017年3月13日月曜日

フシギな短詩92[夏石番矢]/柳本々々


  立入禁止・かんらからから・Coca-Cola  夏石番矢


夏石番矢さんの編著に『現代俳句キーワード辞典』(立風書房、1990年)という、俳句を季語ではなくテーマごとに分類したアンソロジーがある(実はこの本は生駒大祐さんに教えていただいた)。「キーワード辞典」という名前の通り、キーワードに沿って俳句が分類されている。夏石さんは「はじめに」でこの辞典のコンセプトを次のように語っている。

  この本は、辞典と銘打ってあるが、同時にアンソロジーでもある。詩的エンサイクロペディアと呼んでもいい。二四五のキーワード別に秀句を編集し、一つ一つのキーワードごとに、そのキーワードの歴史や意味あるいは詩的方向性をとらえながら、掲出した俳句作品を読解してゆくスタイルを選んだ。

この本で面白いのは、〈俳句〉からなにかを考えられる点ではなくて、〈テーマ〉から〈俳句〉を考えられることだ。事態が逆走することで、ふだんとはちがった発想を〈俳句〉に対して得ることができる(もしかするとすべてのキーワード事典というものはそうした役割をもつのかも知れない)。

この項目も生駒大祐さんから教えていただいたものだがこの辞典には「コカ・コーラ 〈Coca-Cola〉」という項目がある。俳句とコカ・コーラ。なかなかふだんセットで考えない発想ではないだろうか。

しかしそこには、まだ、番矢さんの一句しか置かれていない。それが掲句である。1990年の時点では辞典にはコカ・コーラ俳句はこの一句しか載らなかった。

この辞典/時点で番矢さんは「コカ・コーラ」の項目でこんなふうに記述している。

  コカ・コーラが日本に定着したのは第二次世界大戦後だが、すでに大正八年に明治屋によって輸入されていた。…
  コカ・コーラは、戦後日本のアメリカナイゼーション文化の象徴から、無国籍文化の象徴へと変質した。
  そもそも1886年にアメリカで誕生したコカ・コーラは、コカインも採れるコカ葉の抽出液とコーラ果実の抽出液を主原料にしていたが、コカ葉の使用はアメリカ政府の勧告で中止された。それでも名前に「コカ」が残っている。もともとはどこかうさんくさい商品が、無害化されて公認され、日常生活に定着してゆく運命が、この飲み物の名前に潜んでいる。

だから番矢さんのコカ・コーラの一句の「かんらからから」には「日常生活に定着し」ながらも「無害化」され空無化された〈文化物〉の〈空き缶〉のような響きがある。

「立入禁止」というタブーが無意味化していくことと、コカ・コーラが無害化しボーダーレス化していく文化的力学は足並みをそろえている。しかしだからといってそれがニヒルにも虚無にもならず、むしろコカ・コーラは現在も祝祭的であり(無害とは祝祭である)、さらに無害化どころか、コーラはやがて人工甘味料の導入によってゼロ・カロリーになり、そしてさらに驚くべきことに今やコーラは「脂肪の吸収を抑え、脂肪の排出を増加す」る「特定保健用食品」になっているのだ(誰がそんなことを想像しえただろうか)。

俳句とコカ・コーラ。わたしは今、1990年から27年たって、2017年現在にいるが、現代俳句のコカ・コーラ俳句はどうなっているのだろう。たとえば、

  古墳から森のにおいやコカコーラ  越智友亮

越智さんのこの俳句には番矢さんのコカ・コーラ俳句にあったような「コーラ」に対する〈消費物的〉まなざしはもはや、ない。プレーンに、「コカコーラ」をまなざしている。それがわかるのが、「古墳」「森」「コカコーラ」の並立である。この句では違和感なく、「古墳」「森」「コカコーラ」が当然のように並べられている。そしてこの「コカコーラ」には消費物のかおりは感じられない。むしろ「古墳」のような文化物に対するゆっくりした時間意識さえ感じられるのだ。

コカコーラ観は、変わってきているのではないか。というよりも、今や、わたしたちのとってコカコーラは消費物というよりは、いっしょに時代や歴史を過ごしてきたホームのような文化物になってきているのではないか、と言ったら言い過ぎかもしれないが、しかしこの越智さんの句には「コカコーラ」に対する過剰な距離の取り方は感じられない。あくまで平坦にコカコーラに接している。森、と等価のように。まるでコカコーラは〈自然物〉であるかのように。

  日本文化はある面で「消費文化を継続・徹底する」という、メタ伝統文化的側面を備えているとみなすことができる。
   (新井克弥「ジャパン・オリジナル化するTDR」『ディズニーランドの社会学』青弓社ライブラリー、2016年)

消費文化は継続・徹底される。

番矢さんにとって「コカ・コーラ」は「かんらからから」と笑い飛ばすべきものでもあり、そのぶん、批評的距離が確保されるものであったが、ひょっとしたら、もはやコカコーラは〈内面〉化され、距離が無化されてしまっているのではないかと私は越智さんの句を読んで思った。実はたまたま今トクホのコーラを飲みながらこれを書いているのだが、まあ、こんなふうに。

内面化とは、それに気づかなくなることなのではないだろうか。ナイこと。内(ナイ)として、気づかないこと。

「内面の吸収を抑え、内面の排出を増加」するコーラ。

コーラを内面化だなんてなにを言っているんだと言われそうだが、でも、実際、箱庭的内面とコーラが不意に接点をもってしまうこんなコカコーラ俳句もあるのだ。

  箱庭に不意に置かるるコーラの缶  関悦史


          (「コカ・コーラ」『現代俳句キーワード辞典』立風書房・1990年 所収)


2017年3月10日金曜日

フシギな短詩91[加藤知子]/柳本々々


  海峡の白菜割って十二階  加藤知子


ふだん〈俳句を読まない〉人間が〈俳句を読む〉ということの難しさを考えたときに、その難しさは、〈季語〉にあるのではなく、実は〈切れ〉にあるのではないのかと思うことがある。

わたしたちはふだん本を読むときに、テレビを観るときに、スマホを見るときに、〈切れ〉に注意していない。季語なら季節の言葉だろうなあとなんとなくわかるが、〈切れ〉に注意して読めと言われてもいったいどうすればいいかわからない。

ここで〈切れ〉に注意しながら読みつつ、なおかつ〈切れない〉ことにも注意した読みをもし、最終的にそれらを合わせ読みしてしまうというアクロバティックな読みを展開するとはどういうことかを加藤さんの句+関悦史さんの読解を例にみてみたい。

関悦史さんが『ウラハイ=裏「週刊俳句」』の「水曜日の一句」でこの加藤さんの一句に〈プロセス〉のような読みをほどこしている。そのことによってふだん俳句を詠んでいる人間がどのように俳句を読んでいるのか、俳句の読みの可能性をさぐっているのかの一例がわかるはずだ。

まず関さんは、この加藤さんの句を「素朴実在論的リアリズムに寄った読み方をしてしまえば、上五「海峡の」で軽く切れ、海峡の見下ろせる高層住宅の十二階のキッチンで白菜を割っている図ということになろうか」とさっそく「切れ」を提示している。

この「切れ」をまず感触することによってこの俳句はイメージがたちあがってくる。「海峡の白菜」ってなんだ? と性急に考えてしまってはだめだということだ。「海峡の」でいったん切ることによって、「海峡」と「白菜」を分割しながらイメージをつくる。

外山一機さんが〈俳句は接続詞を必要としない〉と書かれていたことがあったが、はじめて俳句を読む人間の〈とまどい〉はこの「切れ」た箇所を〈つなぎあわせる〉ことにあるのかもしれない。俳句は〈つなぐ〉ことによってイメージをつくるのではなく、〈切る〉ことによってイメージをつくるのだ。

ただし、じゃあ、「切れ」がわからなければもう俳句を読む〈余地〉はないのかというとそんなこともないらしいことが関さんの〈読み〉を読んでいるとわかってくる。だからふだん俳句を詠まない/読まない〈わたしたち〉にもまだ可能性はある。あきらめてはいけない。
 
  だが言葉の並びの上では「海峡の」は「白菜割って」に直結しており、あたかも白菜を割ることによって「海峡」が生成させるかのようなダイナミズムが堂々と隠れているのだ。……
  割られる白菜と海峡は「分離されている」という形姿によってすでに結びつけられているのである。

「白菜」と「海峡」で「切れ」ているのかと思いきや、「白菜」と「海峡」は《分離されている》という同じ性質が見いだされる以上、直結することもできるという。つまり、関さんは驚くべきことに「切れ」の読みの提示を示すやいなや、「切」らない読みの可能性も続けて示したことになる。

ここにはもし「切れ」として〈俳句を読む〉やり方を知らないのだとしても、俳句を自分なりに読むことができるかもしれないというひとつの読みの可能性が示唆されている。かんたんに言うと、あきらめるな、とも言っている(ように聞こえる)。

俳句は〈こう〉いう読みしかできないものだと一見考えられがちだが(決定的な俳句観、おまえに俳句はわからない)、もしかするとまったく別の読みが可能な場合もあるのであり(非決定的な俳句観、おまえにも俳句はわかるかもしれない)、そのどちらにも回収されない場合もある(かもしれない)。

わたしは実は『週刊俳句』で、はじめて関悦史さんや小津夜景さんの俳句をめぐる記事を読んだときそういった俳句の〈非決定性〉のようなものを率直に感じた。後に『俳句新空間』における外山一機さんの一連の時評を読んでいったときも〈あなたたち〉の文学ではなく、〈ぼくたち〉の文学としての俳句というものがあることを感じた。これも素直な印象と驚きとしてだ。

それがいいことなのかどうかわたしにはわからないし、そんなことは必要でないかもしれないし、そもそも「違うよ」と一蹴されてしまうことかもしれないけれど、俳句には、はじめて触れてしまった〈ぼくたち〉への余地があるかもしれないということ(ただし、同時に〈なくてもいい〉という立場もあっていいように思う。〈ない〉場所から始めるのも俳句のような気もするから。だから「かもしれない」)。

わたしたちが俳句に出会うということは、こうした読みの可能性を選択可能性として引き出し、捨て置かず、そのまま提示してある〈読み〉に出会う、ということでもあるのではないか(もちろんその逆の絶対的な〈読み〉に衝撃的に出会ってしまうのもありなのだけれど。だから「ではないか」)。

わたしは、関悦史さんの〈プロセス〉をそのまま提示していくという〈読み〉に、〈俳句〉の魅力を感じてしまったひとりだ。関さんはこの加藤さんの句を「一気にかけぬける一句」と評しているが、実は俳句を読みながらたえず「かけぬけ」ているのは関さん自身なのではないかと思うこともある。

関さんはこの加藤さんの読解を示した回の文章をこんな一文でしめくくっている。

  「白菜」にこれほどの混沌的出会いを引き寄せる通路が潜在していたとは。

〈俳句〉に、ではなく、関さんは最終的に、〈白菜〉に、驚いたのだ。

この鑑賞文の最終目的は、《白菜》におののくことにあった。

「白菜」に驚く俳句鑑賞文。しかもその白菜が用意した「通路」をかけぬけながらの。

それって少し、ずるくて、かっこよかったのではないか。ずるくて、かっこいいとは、「混沌的出会い」を用意してしまう者のことではなかったか。


          (『短歌と俳句の文学誌We』3号、2017年3月 所収)

2016年8月9日火曜日

フシギな短詩30[田島健一]/柳本々々



  噴水の奥見つめ奥だらけになる  田島健一


ずっと、田島健一さんの俳句をフシギだなあと思っていた。《どう》理解すればいいんだろうと。今回はこの問いからはじめてみたい。


ここでひとつ大きな補助線を引こう。


  ひらく雛菊だれのお使いか教えて  田島健一

   (「春は寝てから」『オルガン』5号・2016春)


たとえば関悦史さんが田島さんのこの句についてこんなふうに語っている。


この句から確かに言えることは、「ひらく雛菊」と「お使い」をめぐってある質問あるいは対話がなされ、その背後には誰かを「お使い」に出した何ものかが想定されているということだけとなって、それが誰なのか、またその誰かの存在がなぜ想定されたのかという謎は開かれたまま終わる。…もはや誰が不審者なのかすらわからない。明るく無邪気でフラットなものとして書かれた春そのもの、及びそのなかにいる誰もが、こうした稀薄で正体不明な不審者であるのかもしれない。
  
(関悦史「●水曜日の一句〔田島健一〕関悦史」2016年5月4日」『ウラハイ = 裏「週刊俳句」』)

ここで私が大事だと思うのは関さんの次の指摘だ。


「もはや誰が不審者なのかすらわからない」。


これは関さんが「謎は開かれたまま終わる」と書いたように、〈問いかけ以前〉の問題である。〈問いかけ〉を通してすべてが〈問いかけそのもの〉になっていくという〈問いかけ以前〉への地点に関さんは田島さんの句を通過することによってたどりついたのだ。


〈読む以前〉の場所に。それは〈俳句〉が〈俳句〉としてはじまる前の地点であり、しかし〈俳句〉が〈俳句〉としてはじまることによってしかたどりつけなかった地点でもある。


ふつうひとは句の〈読解〉をした後に、なんらかの〈たしかな場所〉にたどりつく。それが〈読解〉であり〈鑑賞〉である。でなければ、句を読む意味なんてない。意味が決定される場所へ赴くためにわたしたちは半ば暴力的に〈鑑賞〉を行うのだ。


ところが関さんが田島さんの句を読解してたどりついた場所は、〈読み以前の場所〉だった。「誰が不審者なのかすらわからない」、〈状況〉そのものが〈不審者〉化する場所にたどりついたのだ。


全方位的に主体が解体される場所。


その場所に田島さんの句(の関さんの読解)を通じてわたしがたどりついたとき、田島さんの句というのは《そういうもの》なのではないかとわたしは思った。


どういうことか。


冒頭の掲句をみてみよう。「噴水」は夏の季語だが、語り手はその夏の季語を通して〈どこにも〉たどりついてはいない。


たしかに「奥」を「見つめ」ながら「奥だらけ」の場所にたどりついてはいる。しかし「奥だらけ」とは〈奥〉が意味をなしえない〈解体された〉場所なのである。


語り手は〈奥〉以前の場所に〈奥〉を通してたどりついたのだ。


そしてそれこそが田島さんの俳句そのものではないか。〈奥〉が〈奥そのもの〉になろうとすること。〈問いかけ〉が〈問いかけそのもの〉になろうとすること。俳句が俳句そのものになろうとする俳句。

俳句が俳句化する過程を通して、語り手が、読み手が、俳句そのものが、「正体不明な不審者」になってしまうこと。それが田島健一の〈俳句の現場〉なのではないか。

田島さんの俳句とは、俳句が生成された瞬間、俳句が解体される〈現場〉そのものなのである。俳句だらけの場所なのである。それは、もちろん、奥が奥になりえなかったように、俳句ではない。しかし、それは、もちろん、俳句をめぐる俳句だらけの俳句なのである。


俳句は俳句にどこまで近づけるのか。俳句はいつ俳句になるのか。


わからない。わからないけれど、田島さんの俳句を読んだわたしは田島さんの俳句を通してこんなふうに思う。俳句は俳句であろうとするその限りによって俳句となる、と。


だから当然田島さんの俳句においては「出来事」は「出来事」そのものであろうとするだろう。「出来事」が「出来事」であることを問われながら、〈出来事だらけ〉のなかに置かれるだろう。つまり、


  菜の花はこのまま出来事になるよ  田島健一
   (「春は寝てから」『オルガン』5号・2016春)



          (「射る女子」『オルガン』2号・2015年7月 所収)

2016年3月4日金曜日

フシギな短詩6[関悦史]/柳本々々



  テラベクレルの霾る我が家の瓦礫を食へ  関悦史


「霾(つちふ)る/土降る」は春の季語だ。春風によってもうもうと土やほこりが舞っている。それを〈つちふる〉という。

ところがその季語が、放射性物質の飛散によってリスキーな季語になっている。春を感じることが、どうじに、リスクを感じることにもつながっているのだ。

語り手はいまや季語をあんのんと使える世界には暮らしていない。季語を使い、季節のなかに身を置こうとすると、〈テラベクレル〉をも抱えこまざるをえない世界。それが語り手が身をおく春である。語り手にとっては〈季節〉を考えるということはリスクを抱えることであり、〈震災〉によってもたされた逆説的な「うるはしき日々」を詠むことにつながっている。

  現実なるレベル・セブンの春の昼  関悦史

それは、ある意味で今までなかった〈超‐時間〉だ。しかし、それでも《春》は、やってくる。

掲句のすぐ隣に並べられた句が、

  テラベクレルの霾る我が家の瓦礫を食ふ  関悦史

である。


  テラベクレルの霾る我が家の瓦礫を食へ

  テラベクレルの霾る我が家の瓦礫を食ふ


ここには明らかな対比がある。「食へ」と「食ふ」の。

語り手は、「食へ」と怒りをあらわにしたのちに、「食ふ」とただちにみずからそれを「食」おうとしている。「食へ」で対象化された訴求相手はすぐさま「食ふ」と自己に回収されてしまう。

これは震災から発する言葉の位相の難しさを端的にあらわしている。

わたしたちはいったい震災をめぐる言葉を《誰に》むかって発信しているのか。その言葉を受け取るのは《だれ》なのか。自分を《さておいて》震災のことを語れるのかどうか。しかし、自分《も》込みで震災のことを語れるのかどうか。

震災をめぐる発話はつねに発話(と受信)の主導権の闘争がある。

いったい、誰が震災のことばを食べているのか。

この発話をめぐる闘争が、関さんのふたつの並置された句にはあるようにおもう。というよりも、それはどこにも回収されず、葛藤しあったままずっと緊張関係をつづけている。「食へ」と「食ふ」の拮抗のなかで。

「食へ」と言った刹那、その言葉を「食ふ」こと。震災をめぐる言葉を発するとき、わたしの身体も汚染された瓦礫を食らう可傷性をもたなければならない。ことばはいつも〈誰か〉向かって発信されている。でもそこには必ず言葉を発した代償としての〈私の傷〉が潜在的に予期されていなければならないはずだ。


  春の日や泥からフィギュア出て無傷  関悦史


〈無傷〉を見つめる言葉はいつも〈傷〉を背負っている。



          (「うるはしき日々」『六十億本の回転する曲がつた棒』邑書林・2011年 所収)

2016年2月29日月曜日

またたくきざはし 10 [関悦史] 竹岡一郎



人類に空爆のある雑煮かな   関悦史

金、暴力、この二つは古来から「この世の君」即ち悪魔の王国を支える双柱であると、若い頃は思っていた。しかし、つまるところは一本である。本来、金が悪いわけではない。それが暴力という色彩を帯びるとき、人間を容赦なく卑しめる。歴史を繙けば明らかではないか。そして、古代から今に至るまでの政治を見ても明らかではないか。

先の大戦以来、この地上に一日たりとて戦争のない日は無かった。空爆が無かった日は多少あったかもしれないが、地上戦が無かったときはない。絶えずどこかで紛争という名の戦争は起こっている。そして、戦争こそは最大の暴力であり、空爆こそは戦争が続いていることが誰の目にも明らかな証である。勿論、天から俯瞰する時、なお一層明らかであろう。

そして、「雑煮」という、誰の目にもめでたい、しかし極めて庶民的な正月の料理を「空爆」に取り合わせることにより、如何なるめでたさも、本来、この地上には存在し得ない事を冷徹に告げているのだ。

(これが仮に、正月の他の料理ではどうか。例えば、伊勢海老や数の子ではどうか。それらは贅沢に過ぎる。雑煮は贅沢ではない。主成分は餅という炭水化物である。雑煮に存する贅沢は、正月の淑気のみである。そのささやかな、雰囲気でしかない贅沢さえも、空爆という地獄の前では、途方もない贅沢に見えるところに、この季語の必然性がある。)

雑煮を食う場所である茶の間のテレビが、空爆のニュースを映し出している必要はない。テレビは吉本新喜劇を映し出していても良い。或いは振袖姿の若い娘たちが嬉々としている初詣を中継していても良い。或いは穏やかな能舞台を映し出していても良い。だが、テレビが何を映し出していようと、たとえテレビが消えていて、正月特有の静かな雰囲気の中に家も町も浸っていようとも、この地平の遙かどこかで空爆は続いている。殊に湾岸戦争以来、空爆はずっと続いている。米国の盟友である日本では、安保協定に守られて雑煮を食えるが、一方で、米国による空爆は中東の無辜の人々を吹き飛ばし、それこそ雑煮の中に散らした具のように肉片や骨を砂漠に撒き散らし続けている。

我々の意識するとしないとに拘らず空爆は続き、そして、我々日本人が一番それを意識したくない時、言い換えれば、無関心でありたい時があるとすれば、例えば正月、淑気に満ちた景の中で穏やかに雑煮を喰い、暖かに腹を満たしている時だろう。

現代の我々は、いつ如何なるめでたさの只中においても、現実には暴力の上に存在し、放射能を日々気付かずに呼吸するかのように暴力を呼吸し、暴力の上に平和を謳歌している。
尤も、それは現代に、或いは日本に限った事ではない。人間が、本来、そういう性質の生き物なのだ。「人の痛みは百年でも我慢できる」という言葉がある。動物は他者の痛みを百年でも我慢しているのだろうか。動物は口を利けないので、わからない。少なくとも、人間はそうである。これは如何に人間の在り方が不良品かということを端的に示している。

ここで掲句が「人間」ではなく、「人類」という語を用いている事には理由がある。鳥類、爬虫類などのように、人類といえば、或る生物の種を指す。つまり、ヒト類ヒト科ということだ。ここで「人類」という語を用いることにより、掲句に人類の側からの視点ではなく、他の生物も含めて人類を公平に見る如き、俯瞰的な視点が暗示される。末尾に「かな」を置くのも、同様の視点ゆえであろう。激すべきところを敢えて、諦観とも取れるような冷静さを漂わせるべく、「かな」で流している。

だから、これは人類という生物には常に暴力が付きまとうという地獄の事実を、正月の普遍的な食事という、最もその事実を突き付けられたくない状況において突きつけているのだ。
(「暴力」と言ってしまえば、概念になる。空爆といえば、これは具体的な、且つ最も一方的な、且つ最も容赦のない、無差別の暴力である。)

さて、この事実を突き付けられて、我々はまだ雑煮を食えるか。食えるのである。食う、とは生物が生き延びるための基本だからだ。極端なことを言えば、頭上で空爆があり、目の前に血泥の雑煮と化した死体が転がっていても、死ぬほど腹が減っていれば食える。それは先の大戦における大空襲の後、焼け跡で何よりも食料が大事であったことを思い起こせば自明である。

我々は地獄の住人なのか。恐らく、そうであろう。我々はそれを認めたくなく、だがそれを先ず認めなければ地獄の住人である事から脱却できないから、だからこそ、この句は存在意義がある。我々人類という種の容赦ない悪を、めでたい食事の只中で突き付けているからだ。もしも将来、人類が高度な道徳観念を本能として持ち、戦争がなくなる日が来れば、その時に漸く、掲句は役目を終えるのであろう。
<「六十億棒の回転する曲がつた棒」2011年邑書林所収>

2016年2月12日金曜日

フシギな短詩1[御中虫]/柳本々々



  こんな日は揺れたくなるなと関は言った  御中虫


2011年から5年が経った。〈関悦史〉さんがさまざまな位相で揺れ続ける御中虫さんの句集『関揺れる』。たとえば掲句のように、だんだんと〈震災の揺れ〉そのものの意味はゲシュタルト崩壊し、フィクショナルなものへと移行していく。「こんな日は~したくなるな」とドラマのような〈安い定型フレーズ〉に〈揺れ〉も〈関〉さんも収められていく。

でも、〈揺れ〉がリアルで高尚なものと〈誰〉が決めたんだろう。

わたしたちは常に〈揺れ〉をテレビの中で、ドラマの中で、映像の中で、マンガの中で、映画の中で、フィクショナルな文法で語り・思考していたのではないか。
だとしたら、その〈揺れ〉をめぐるフィクショナルな文法そのものをもう一度〈再―文法化〉しなければならないではないか。

つまり、わたしたちはなにかを〈うたう〉ときの語法そのものを〈揺らし〉つづけなければならない。わたしたちは出来事は忘れないでいようとしながらも、すぐにその出来事を語法化するやり方そのものは無意識に置いてしまう。でもそうした忘却の淵に腰掛けて、関さんはずっと揺れ続けている。

そのために、関さんはいる。

2016年の〈今〉も、わたしたちの〈すべて〉の関さんは、揺れる。

          (『関揺れる』邑書林・2012年 所収)

2015年8月20日木曜日

またたくきざはし3  [関悦史] / 竹岡一郎




誰よりの電話か滝の音のみす    関悦史  

電話が鳴ったので、取ったのだが、声がない。もしもしと問いかけても返事がない。ただ滝の音だけが延々と聞こえてくるのである。これが4分33秒続けば、ジョン・ケージの最良の曲となろう。

滝が電話を掛ける訳はないので、向こうには誰かいる筈なのだが、どうも滝自体が電話を掛けてきたような気もする。滝は霊的な場であって、そもそもは誰にでも見える神の具現だ。

夏の滝は香り立つ。正確には、滝の飛沫が神気となって、あたりの緑を香らせるのである。尤も、絶えず流れる水は色々な霊的不浄を引き寄せたりもする。逆に、行者は浄められんとして滝に打たれる。滝行は注意しないと自我が極端に強くなることがある。行者によっては足元に蛇が蟠っているのが見えるという。蛇は行者の自我の具現化である。意識下に潜んでいたエゴが視覚化されるのであろう。

滝とは、神でもあり、山の涼気でもあり、浄められんとする執念でもあり、引き寄せられる不浄を黙って受け入れる場所でもある。、滝は、此の世とあの世、執着と放擲、浄と不浄の見事な渾沌である。そういう渾沌が、途絶えぬ音として作者に語りかける。

滝の音は何を伝えたいのだろうか。多分、渾沌を観つづけよと言いたいのだろう。こういう情景を句にしている作者は、当然、渾沌を見ている筈で、ならば作者に電話を掛けて来た者は、あるいは作者のドッペルゲンガーか。およそ人間が、誰、と問いかけて、最も判然としないのは、実は常に自分自身ではなかろうか。

受話器を握っている作者の周りには、恐らく日常の雑然さが広がっているであろう。だが、滝の音に耳傾ける内に、それらの雑然さは徐々に、滝の音に呑み込まれてしまう。作者にとっては己の全てが耳だけとなり、眼を閉じて聴きいる内に、明るいとも暗いともつかぬ、茫漠としつつ閉じられてもいる空間が広がるのである。それが滝の世界であり、受話器の向こうから、滝を背に電話を掛けている者がもしも自身であるならば、作者は自らの内面に耳傾けている事となる。

「世界Aの報告書」(ふらんす堂通信134号、2012年10月)より。

2015年5月8日金曜日

今日の関悦史 2 /竹岡一郎




玉菜二個「われら死者のみにて生きん」  

慄然とするのは、中七下五の台詞部分である。この作者の場合、どこかからの引用ならば、必ずその旨を併記するから、この括弧書きの部分は作者の言であろう。ただ、括弧書きによって、作者の思いではなく、第三者の台詞という設定で書かれている。作者の脳裏に聞こえてきたのか、或いはどこか昏い彼方から聞こえてきたか、いずれにしても不思議な台詞である。

「われら」が死者を表わしているのなら冥府からの言であるし、「われら」が命ある者なら、この世のどこかで何か覚悟している者の台詞とも、或いは異次元からの台詞とも見えよう。

「生きん」というのが、ある決意或いは嘆きを表わしていると取るなら、これは作者の脳の深く、作者の無意識が認識し、決意し或いは嘆く台詞とも取れる。

この「われら」が死者であると同時に、生者でもあるという設定は可能だろうか。実は私は、その設定が一番現実味があるように思う。というのも、未だに繰り返す或る体験を私は思い出すからだ。
昼間、街中を歩いていて、大勢の行き交う人々の姿の間を歩き、過ぎ行く人々の顔を流し見ている内に、ふと彼等の顔に多くの顔が重なり、多くの者達の姿が重なって揺らぐことがある。そんなとき、私は、行き交う人々の存在の構造を見ているのだと気付く。

生きている者の顔に多くの死者達が重なり、死者達は多く断片であり、或る思いが凝り固まり特化したものであり、生きている者達が血肉と骨から出来ているのは当然だが、その血肉と骨という物質を動かしているのは「生者の心」であり、そしてその「生者の心」は実は多くの死者達の断片、様々に特化した思いから構成されているのだという認識が生ずる。

では、血肉と骨を伴って動くか否かを除いた場合、死者と生者の違いは何なのか。死者もかつては生きていたのだから、死者の心も生前は、多くの死者の心の断片から構成されていた筈だ。ならば、死者の心も生者の心も等しく、多くの凝り固まり特化した思いの断片が集合したものではないか。(ここで「思い」という語の定義を述べよと問われたら、刺激に反応して生ずる認識のパターンであると言おうか。)

例えば、数十年或いは百年または千年を耐えうる頑強さに固められた氷の歯車が、ある時は他の歯車と密接に絡み合って一つの機関を構成し、ある時は外れて他の機関に入り、その機関が自らを「単体の固有のもの」であるとして、外界を認識し思惟する。また、どの機関にも属さずに、ぽつねんと昏い片隅に回り続ける歯車もあろう。

ここで機関に喩えられるのは、生者の心であり、歯車とは死者の特化した思いである。恐らく、全ての歯車は、一定の悠久を耐えた後に、明らかなる光によって、水と融けるのであろうが、それはいつのことであろうか。

そこまで考えて、「われら死者のみにて生きん」とは、人間の心に対する、或る観照を、作者の無意識の直感が示しているとの思いに至るのだが、勿論、私の認識が単なる妄想であると一笑に付すのも有りだ。

上五の「玉菜二個」が良い。キャベツでも甘藍でも台無しである。

玉が魂に通じる事から、「玉菜」に魂の比喩を思い、キャベツが多くの葉が重なり玉形を構成していることを思うなら、それは魂の構成を示唆しているように思えてくる。(神道に「わけみたま」なる概念がある事をも思い出す。非常に簡単に言えば、魂は複写し分割する事が出来るという概念である。)

ここで改めて、中七下五の台詞を、玉菜の台詞として読む事も可能であると気付く。玉菜にそんな認識があるとは思えないから、そうなると、この玉菜は人間の象徴であり戯画であろう。
「二個」が惨くて良い。二個の方が、孤独を際立たせるからだ。人が孤独なのは、実は一人でいる時ではなく、二人でいる時であろう。人間は同じものを見ていても、各人の認識が必ず違う。だから、孤独を感じるのである。

 富澤赤黄男の「草二本だけ生えてゐる 時閒」を思うたびに、ジャコメッティの針のように細い彫像が浮かび、「草二本」は人間の孤独であろうと思い、ならば一文字の空白=沈黙を挟んで、「草二本だけ生えてゐる」と等価の如く置かれる「時閒」は、永遠に対比した時の、人間のまるで一点に過ぎないかのような生であろうと考えていた。

キャベツは多くの葉っぱ=草=断片が重なっている。重なっていても、やっぱり孤独なのだ。重なってキャベツという玉を構成する葉たちは、果たして互いを認識し合うことが出来ているだろうか。


「コッホ曲線」(ガニメデ第61号)より。



2015年4月26日日曜日

人外句境 15 [関悦史] / 佐藤りえ


少女みな軍艦にされ姫始  関悦史

『艦隊これくしょん』というブラウザゲームがある。プレイしたことがないので以下、すべて伝聞となる。

ゲームの内容は大日本帝国海軍の艦艇を集め、艦隊を強化しながら敵と戦闘し勝利を目指す、というものである。

これだけ書くと「戦争シミュレーションゲームか」と思われるかもしれないが、このゲームがそういった枠組みに入るのか否か若干の疑問を(プレイしたことがないのにもかかわらず)抱くのは、使用される艦艇が萌えキャラクターとして擬人化された「艦娘(かんむす)」と呼ばれるものだから、である。


長門、陸奥、大和など、戦艦の名前を与えられた彼女たちは、外見上にもととなった戦艦、艦艇の特徴を備えている。ためしにweb検索でこれら戦艦の名前を調べてみると、画像の上位に「船を背負った」みたいな外観の少女の絵が出てくる。それらはきっと「艦娘」だ。

艦娘たちは戦闘に使用されるので、攻撃を受ければ当然破損することもある。「小破以上でアイコンから黒煙が吹き出し、中破以上の状態になるとグラフィックが変化(服が破ける、武装が壊れるなど)」し、耐久力が0になると「轟沈」するらしい。

ちなみにプレイヤーはゲームの中では「提督」という位置づけで、ゲームのために接続するサーバ(複数ある)には、太平洋戦争期の大日本帝国海軍に実在した鎮守府などの名称が与えられている。

「萌え」はそんなものまで包括するのか、と目が点になるものだが、掲句を見てはたと思った。
「軍艦が少女にされている」を「少女が軍艦にされている」と言い換えると、「萌え」で覆われているもやもやした部分が一気に露わになる。

それによって「身近に感じることができる」とは、擬人化の方便のひとつであろう。

なればこそ、艦娘とくりひろげる姫始も想定の範囲内のことではないか。

どっちが受けでどっちが攻めか、といったところまでは、当方はいっさい関知しない。

〈『GANYMEDE』60号/銅林社・2014〉

2015年4月13日月曜日

今日の関悦史 1 /竹岡一郎



官邸囲み少女の汗の髪膚ほか    関悦史


「ケア 二〇一四年六月三〇日・七月一日」(「週刊俳句」第376号、2014年7月6日)より。

集団的自衛権反対デモに取材した十二句の連作の一句である。こういう社会運動を描写した作品は、私の属する結社「鷹」では親しいものであって、その代表は「鷹」創始者・藤田湘子の第二句集「雲の流域」(昭和三十七年、金星堂)に収められた、砂川闘争の連作であろう。「砂川 支援労組の一員として十月十一日早暁より砂川基地拡張反対闘争に加はりたり」という前書付である。

幾つか代表句を挙げると、

鵙の下短かき脚の婆も馳すよ      藤田湘子
農婦の拍手われらへ激し黍嵐      同
闘争歌ジヤケツがつゝむ乙女の咽喉   同
高度成長期という時代のせいか、或いはインターネットといういわば「渾沌たる正義」がまだ無かったせいか、関悦史と比べると、表現は直截で素直である。

社会性俳句にどれだけの普遍性があるかという判断は、時間の経過に掛かっているのであって、十年後、二十年後にどれだけ古びるか、どれだけ手垢が付いた類句に埋もれるか、というのが一つの基準であろう。十年後、二十年後なら、まだ当時の状況を理解できるのである。戦後七十年経っても、第二次世界大戦に関わる句が共感を呼ぶのは、まだ当時の経験者が存命し、その語りを聴いた者達が存命しているからである。これが百年後、二百年後となるとまた状況が違って来て、もはや誰も当時の状況を如実に聞いたことがないという場合、残る判断基準は、その句に詩的感興があるかどうかだけとなる。

関悦史は「共感の罠を避ける」(「俳句四季」2015年2月号)と題した攝津幸彦論において、攝津の俳句を『これは俳句が社会を相手取りながらそれに呑まれることなく、「共感」の罠を避けて、詩として斜め上に勝ち上がってしまった稀有な例と言えるだろう。』と記している。攝津のような非意味によるか、或いは幻想的にその本質のみを摑み出すか、或いは藤田湘子のように素朴に直截に詠うか、方法は作家それぞれであろうが、関悦史もまた、社会性俳句が如何にして時の流れに耐え得るかという問題に苦闘していると思う。

さて、掲句であるが、「官邸」という言葉が百年後に理解できるかどうかという点を除けば、充分な詩的感興はあるように思われる。

官邸というのは言うまでもなく、政権の象徴であって、目に見える国家権力である。官邸を囲むのは、決して少女たちだけではないのは、末尾の「ほか」に表わされているのだが、先ずイメージされるのは、少女の群であろう。汗ばんだ、或いは汗だくの少女たちである。少女とは、権力に対して無力な、暴力の世界においては更に無力な者であり、その思春期のほんの数年が永遠のように錯覚されるほど美しい者の謂である。もっと言うなら、「妹の力」、日本では古来、神を降ろす無垢の器として、時に崇められ、時に奉げられた者の謂である。天照大神が女性である事をも想起する。

少女と呼ばれるその者達が、俗世の汚濁に最も塗れねば生きていけぬ政治家という人種の、その代表者の棲家「官邸」を囲む。掲句では、世間的には無力な美しい神々が、世の地獄或いは深淵を囲んでいるのである。(基督教において、悪魔を「この世の君」と呼ぶ。悪魔こそがこの世の君主、という意味である。基督教に限った事ではない。人類史上、常にそうであった。ならば、あらゆる政治家は、その性情が如何に善良であろうとも、職業の性質上、その地位が上がれば上がるほど、どこかで世の地獄或いは深淵と手を結ばざるを得ない。)

掲句では、「汗の髪膚」と、少女の具象をその髪と肌にクローズアップしていることから、若々しい不安定なエロスが匂い立つのだが、その匂いは人間における山河の匂いとでもいうべきものであって、日本の神々が自然神と重なることを思うなら、神々の匂いが官邸を囲んでいるのだ。

こう読んだときに、掲句は超現実的であるか。むしろ現実を詠もうとして、その現実の背後に潜む神秘性を表現してしまっているのだ。それが詩人の特質であろう。

「ケア」には次の秀句もある。

怒り静けき地帯滝ほど怒鳴る地帯
「怒り静けき地帯」と「滝ほど怒鳴る地帯」は二物衝撃のようでいて、実は同じ念の渦巻く、陰の領域と陽の領域を表現している。今はこれをデモの描写として読む事が出来るが、百年後にこれを何の予備知識もなしに読めば、戦争、あるいはレジスタンスの描写と思うかもしれぬ。或いは、何か霊的なものの渦巻く因果の地の描写と読むかもしれぬ。そして「滝」とは、例外なく霊的な場なのだ。

いずれにしても、ここから感じ取れるのは、人間の群の思念の渦である。デモという臨場性のある現実を描こうとして、結果としてデモを発生させている思念の渦巻のみを摑み出しているという点において、詩的な抽出に成功している。それは「地帯」という、およそ人の群の描写には使われぬ語の手柄でもあろう。この語によって、怒りという思念も、怒鳴るという「思念の現れ」も、繁殖する植物のような趣を持つ。

汗や地下を嗄れし喉として帰る
ここでも、或る抽出が行われているのであって、それは自らを、またデモ参加者たちを「嗄れし喉として」という、ユーモラスで不気味な表現により特化している事である。帰路につく人々の情景に、叫び続けて疲弊した喉だけが地下を進んでゆく情景が二重写しとなり、それがある切迫した疲労感を浮かび上がらせている。仮にこれがデモの句と判らずに読まれたとしても、「嗄れた喉」は勿論叫び続けた喉であり、何の為に叫ぶかといえば訴える為であり、そして人間が喉嗄れるほど叫んで訴えるのは正義であると、昔から決まっているのだ。(しかし、私は、民衆の正義を、国家の正義や民族の正義と同じく、信じない。ただ、正義に殉ずるさまの美しさにのみ感ずるのである。)

高みからの演説による喉の嗄れでない事は、地下を帰るからである。「地下」とは地下道か地下街であろうが、それを「地下」と表現する事により、為政者側或いは勝者側でないことは想像できよう。為政者或いは勝者ならば、意気揚々と地上を帰るからである。

句のリズムが功する処も大きい。上五の字余りと、上五の半ばで「や」とつんのめるように切字を入れる様、下五のやはり字余りと「と」と中七から躓くように続く様、全体にぎくしゃくとしたリズムが、疲弊に満ちた帰路の歩みをそのまま表している。

仮に片仮名でそのリズムを表わすなら、

アセ」ヤ」チカヲ」シワガレシノド」ト」シテカエル」

鍵括弧部分が、帰路の足取りが躓いている箇所である。

或いは、「嗄れた」を「カレタ」と読むのなら、中七の字足らずはやはり、つんのめるような足取りを表わすであろう。

アセ」ヤ」チカヲ」カレシノドト」シテカエル」

今掲げた三句が「ケア」の白眉であって、他の例えば「舗道は主権者ひしめき団扇拾ひ得ず」や「万の主権者と警官隊に夜涼のヘリ」や「法治国家の忌の涼風が群衆に」などは、かなり生硬な詠い方であろう。こういう生硬さ、つまり、ナマである事を観念的とか、こなれていないとか批判する事は容易であるが、むしろ批判を予期しつつも敢えて詠った勇を評価したい。なぜなら、社会性俳句というものが、その動機においてナマであるからだ。ナマである理由は、社会性俳句が、稚拙で観念的で且つ根底において正義を求め勇をふるわんとする人間という生き物そのものを抉り出すからだ。そして、ナマだろうが何だろうが、とにかく詠い続ける先にしか、先に挙げた少女の句、地帯の句、喉の句のような白眉は生まれ得ない。

今一度、主権者の句に戻ると、こなれていないように見える最大の要因は「主権者」という言葉が観念的に見えるという事であるが、なぜここで「民衆」という、共感を与え易い、耳慣れた語を使わずに「主権者」という語を使ったのかは、考えるべきだろう。

「ケア」の集中に、「広場なき国主権者蛇となり巻きつく」という詩的な句があるからである。この句においては「主権者」という語は、漸く或る普遍性を持ち、詩として昇華しているように思われる。

この句の上五、「広場なき国」に籠められた二重の皮肉を考える。一つには、民衆の集結する場所がないという皮肉であり、もう一つは「赤の広場」や「天安門広場」を思うとき、「広場ある国」においても容易に弾圧は行われるという皮肉である。

「蛇」とは、デモ隊のうねり、それを構成する人々の念のうねりの表現である。「蛇」はまた、首都に堆積した歴史のうねりでもあり、地祇神をも想起させる。そして、主権者は何に巻きつくのか。何に、という対象が示されていない以上、主権者は実際には触れ得ないものに巻きつくと見るのが妥当であろう。主権者は、具象を持つ物体又は個人、つまり官邸や総理大臣に巻きつくのではなく、国家や政権という概念に巻きつくのである。

なぜ「主権者」という言葉を使ったかといえば、それが法律の用語であり、国家の主権は国民にある、という憲法の条文を想起させるからであろう。主権者の句群において詠われる論点とは、「民衆の正義」という多分に情感に満ちた曖昧なものではなく、(民衆の正義というなら、かつてナチスを、あの論理的なドイツ国民が熱狂的に支持したのである)、憲法として記される条文の存在である。此の世に完璧な正義というものが存在しない以上、一国内における正邪の判断はその国の憲法を基とするより他ないからだ。

そして、人間はどうしても正義が欲しい。正しく義人として生きたく、意味のある死が欲しい。一方、人の世に完璧な正義が有ったためしは無い。此の世に有る限り、無いものねだりをする、それが人間の煉獄である。

デモの句を取り上げた以上、やはりここで集団的自衛権について、意見を述べねばならないのだろうか。私は、ぐしゃぐしゃと考える。一国における正義ということを考える、憲法遵守という理念を。一方で、自国の空母も大陸弾道ミサイルも持たぬ国が、米国の核の傘に守られるための代償ということを考える。では、強力な軍を持てば良いのだろうか。三つの軍事大国を相手取って、果てしない軍拡競争を続ければ、競争し続けている間は、危うく平和でいられるだろうか。或いは、軍需産業によって各国の軍の需要を充たし、武器商人として生き残りを図れば良いのだろうか。

此の世には存在し得ない穏やかな正義、如何なるときにも平和と両立する正義を夢想し、一方で、国が生き延びるための身も蓋も無さを見る。地獄の覇者に連なるために、他国に地獄を作り出さざるを得ない業を考える。

靖国を思い、遊就館を思い出す。館内に七十年変わらず充ちる悲愴さを思う。個々の兵は国際政治の為に命を賭けたわけではなく、国土即ちふるさと或いは家族、友垣、恋人の為に、命を賭けたのだ。

英霊の遺書の数々を思い出す。一人一人の遺書を読み返してみる。同時に、中東の砂漠で、大国の為に、何の恨みもない国の兵と戦わねばならぬ自衛隊員の姿を想像する。それは有り得る事である。その姿を思い描く時、自衛隊員は「自衛隊員という概念」ではなく、ある年齢に達し、ある背丈と面貌を持ち、先祖や家族と繋がり、喜怒哀楽を抱いて、兵器ではなく人間として呼ばれる、独自の名を持つ個人の姿なのだ。

「自衛隊員」と一括りにされる個々の人間の、それぞれの戦闘の様を見て、靖国の英霊はどう思うだろう、と考える。

兵が国家に属する限り、兵には戦争か否かの選択権はない。何の為に、誰の為に、なぜ戦うのか問う権利は与えられず、だから兵は黙っている。何処の国の兵でも同じである。その悲痛さを考える。兵の、吐くことの出来ぬ心情を考える。

社会性俳句とは、「身の丈を知らない」句の、代表の一つである。俳人という、権力的には全く無力な者が、世界の地獄を詠い、天下国家を批判し、五七五で「この世の君」の不条理に刃向かう。
詠うのは、どうにかして寄り添わねばならぬ、と志すからだ。その対象が、生者であれ、死者であれ、その無念に寄り添い、無念を共にしようとする。それが社会性俳句の動機であろう。




(注)英霊の遺書を読みたい方には、「私の遺書―アジア太平洋戦争」(NHK出版、1995年刊)をお勧めしたい。330通の遺書が収録されている。現在は絶版であるが、アマゾンで古本が入手可能。こんな貴重な本をなぜ絶版にしたままでいるのか、理解不能である。

2015年4月5日日曜日

今日のクロイワ 21 [関悦史]  / 黒岩徳将


布団の横白馬現れ消えにけり    関悦史

常套な読み方としては、布団に潜っている人の夢の中に白馬が…と思ったのだが「横」に引っかかった。白馬なので、足音はしないと感じた。また、白馬は何匹が出入りしている気がする。寝苦しいのか、それとも意外にすやすや眠れるのか。

筆者の読みの世界の範疇にはなかった作品である。例えるならピーカブースタイルのボクサーの堅固なガードをすり抜けて打つパンチのようだ。

(GANYMEDE vol.63 50句作品「断片A」より)