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2017年6月4日日曜日

続フシギな短詩123[柳本々々]/柳本々々


  ジャイアント馬場それも霊体がマーライオンを通過する  柳本々々

以前、ある川柳のイベントで話をするとして十句選を提出してくださいと言われ、私は次の十句を提出した。

 (テーマ【世界の終わりと任意の世界】)
  みんな去って 全身に降る味の素/中村冨二
  頷いてここは確かに壇の浦/小池正博
  ファイティングポーズ豆腐が立っている/岩田多佳子
  オルガンとすすきになって殴りあう/石部明
  妖精は酢豚に似ている絶対似ている/石田柊馬
  人差し指で回し続ける私小説/樋口由紀子
  中八がそんなに憎いかさあ殺せ/川合大祐
  おはようございます ※個人の感想です/兵頭全郎
  毎度おなじみ主体交換でございます/飯島章友
  菜の花菜の花子供でも産もうかな/時実新子

テーマをつけろとは言われてなかったのだが、テーマもつけて提出した(私はときどきそういうなんだかずるいリークみたいなことをすることがある)。

で、最近、川柳作家の川合大祐さんと電話していて、川合さんが、あのやぎもとさんの、マーライオンの句、あれ、過剰ですね、と言われたときに、あれっ、そう言えば、川柳って〈過剰性〉ってキーワードになるんじゃないの、と思ったりした。「過剰性、そう言えば」と私は言う。

「前に、川柳のイベントで提出した十句も今思えば、ぜんぶ、過剰性ですよね。『みんな去って/全身に降る』という演劇的過剰性、「頷いてここは確かに」という肯定の過剰性、『ファイティングポーズ豆腐』という豆腐の過剰性、『殴りあう』という武闘的過剰性、『似ている絶対似ている』という認識の過剰性、『回し続ける私』という私の過剰性、『さあ殺せ』という自虐の過剰性、『※個人の感想です』という相対化する過剰性、『主体交換』という主体の過剰性、『子供でも産もうかな』というジェンダーの過剰性。なあんだ、ぜんぶ、過剰性なんだ」と私は言った。それから「はぁはぁ」と。少し息も切らずに過剰性過剰性しゃべったので。

ああ、あああ、あ、ああ」と川合さんも言う。「いやあのね、やぎもとさんの句の『それも』ってのが、なんか気になったんですけどね、それも過剰性ですよね、まあなんでもかんでもこの句ぜんぶ過剰性なんですけどね」

あーあ」と私は言った。気を抜いていたので変に伸びたが、勘違いされるかもしれないので、すぐに「ああ」と言い直した。「どうしてね、川柳が過剰性を引き受けるようになったのかは謎なんだけど、たとえばね、アルチュセールが、フーコーが、バルトが、ラカンが、クリステヴァが、もし現代川柳を読んだらね、すごく喜んだじゃないか、嬉しがったんじゃないかって思うときがあるんですよ。それはなんだろう。主体の過剰なぐずぐず感、あらゆることの過剰性かなあ、でもそれってまさにポスト構造主義じゃないですか、ポスト構造主義は構造主義にはなかった主体の過剰性、構造からぐずぐずはみ出していくなにかを見つけた。現代川柳ってポスト構造主義のぐじゅぐじゅしてる感じと実はとっても親しいような気がするんです」

「たしかにね、構造主義と定型は似ていて、でもその構造主義=定型から、なんだかはみ出ていくものも定型は同時にかかえもつ場合がありますよね。それってポスト構造主義的な部分に近づいていくのかもしれない」と川合さん。

「ああ、そうですよ。ほんと、そうだ。うーん、だから現代思想とか文学理論で現代川柳って読み解きやすいのかな。私は実は現代川柳の感想を書くとき、ぜんぶ、現代思想か文学理論の枠組みでしか読んでないんですよ。だから最初は怒られてパンチされたりするのかなとか思ってたんですよ。でもとくに怒られはしなかった。それって現代川柳がそういう部分をかかえてたからなんですかね」とわたし。

「ああ、そうですよ。そうかもしれない」と川合さん。

そうですよね。そうなのかな」とわたし。

そうだなあ、そういうことなのかなあ」と川合さん。

そう。うーん。あ、ああ。そう」とわたし。

しかし、これ以上、無駄に会話も続けられない。さすがに「そう」「そう」だけで電話もしていられない。フシギな短詩ではなく、フシギな会話になってしまう。

「そう」を「それでは」に切り換えて、「はい。失礼します」と言って私は電話を切った。

電話を切って、正座して、部屋のまんなかでぼんやりして、絨毯をひとさしゆびで無駄になぞりながら、ああ、そうだ、あの人のことも言えばよかった、と私は思った。わたしはいつも大事なことを忘れてしまう。ジャック・デリダのことだ。

  デリダは大胆にも、ハイデガーの現-存在とは電話の呼びかけに応えて「電話に出ること」だという。人間は存在にではなく、電話というテレコミュニカシオンに拘束され、電話に釘づけにされ、電話へと運命づけられているわけである。
  (上利博規『デリダ』)

私は電話に手をかける。いやもう夜遅いしさすがに今度でいいよくだらないことに電話を使うなよ、とデリダの声。はい(oui)、と私。

  怒られたらどうしようと思う眠る  柳本々々

          (「暗い人間」『川柳の仲間 旬』211号・2017年5月号 所収)

2016年7月19日火曜日

フシギな短詩26[兵頭全郎]/柳本々々



  受付にポテトチップス預り証  兵頭全郎


全郎さんには〈ポテチ川柳〉なるポテトチップスをめぐる一連の句がある。紹介しよう。

  ポテチからポップコーンの上申書  兵頭全郎

  小銭ともポテチの厚みとも言えず  〃

  タンカーに横付けされるポテチ工場  〃

  拳からポテチがのぞいている 許せ  〃

  ポテチ踏む戦争映画はエンドロール  〃

ここにみられるのは徹底的なしつこいまでの〈ポテチ〉への執着である。

注意したいのは〈ポテトチップス〉ではなく、〈ポテチ〉という呼称が一貫して使用され続けていることだ。〈ポテトチップス〉は〈ポテトチップス〉ではなく、語り手にとっては〈ポテチ〉と略される何よりも〈言語存在〉なのである。だから「ポテトチップス」という正式名称が使われたときにはそれは「受付」に「預」かられてしまい、語り手の手に入らないカタチになるのだ。

これらの〈ポテチ川柳〉を通して、これだけ語り手がポテチに執着しているにも関わらず、わたしたちはなにかがおかしいとすぐに気づくはずだ。ここには重要ななにかが決定的に欠けている、と。それは、なにか。

《なぜ、語り手はポテチを食べようとはしないのか》。

語り手は決してポテチを口に入れようとはしない。これだけポテチに執心しながらも、ポテチの周縁をえんえんとめぐっているだけなのである。手を出そうとしないのだ。

これはどこまでいっても〈ポテチ〉を円心に据え置いた〈ポテチをめぐる周縁〉なのである。たとえば「ポテトチップス預り証」や「横付けされるポテチ工場」、「拳」からちら見しているポテチ、「ポテチ踏む戦争映画」など、なにかそれはつねに〈間接的〉なのだ。言語的に略された〈ポテチ〉が、〈ポテトチップス〉の物質性を奪われてしまうように、全郎さんの句にあらわれる〈ポテチ〉とは言語によって構造化された食べることが不可能なポテチなのである。

だから、ポテチはここでは〈核心/確信への迂回〉として機能していることになる。しかしそれが〈迂回〉だからこそ、語り手はかたくなにポテチに執着しつづけることになる。いつまでも食べられないし、意味が終わらないからだ。

そう、実はこのポテチとは〈意味〉に置換してもいいものなのである。受付に「意味」の預り証があるように、横付けされる「意味」工場のように、拳からちら見している「意味」のように、「意味」を踏む戦争映画のように、ポテチは〈意味〉を担保してもいる。ポテチが、食べられてしまうポテトチップスにならないことによって、だ。

そしてその意味の担保=保留=迂回にあえて執心してみせること。意味のエンドロールをえんえんと遅延させること。それが兵頭全郎の川柳なのではないかと私は思うのだ。

私はこれまで、川柳は執心をくりかえすことによって意味の大気圏を突破しようとすることがあると思ってきた。でも全郎さんのポテチをめぐる川柳を通して、今はこう言い換えてみたいと思っている。

川柳は執心をくりかえすことによって意味が公転し続ける〈意味の太陽系〉を織りなしていくことがあるのだと。それは大気圏の突破ではない。ぐるぐるシステムを循環しつづける〈太陽系〉の生成なのだ。

だからこそ、全郎さんの句集にはこんな太陽系的なぐるぐるした句もある。

  風車風見鶏風くるくるくると墜ちていくのが最後尾行から直帰刑事は夜の顔という顔がくるくる遊園地にも足跡のない轍とも堀ともとれる幅に立つとすぐ椅子を持ち去る第二秘書くるくるさっきまでの罠らしく唇として開けてある  兵頭全郎

句集タイトルは、『n≠0』。0は一枚のポテチにも見えるだろう。しかし、もちろん、0≠0であるように、それは〈ポテチ〉ではないのだ。

n≠0。意味の任意性としてのnを、どこまで行っても無意味ではないという「≠0」というかたちで生き続けること。意味に負けないよう、燃え尽きないよう、くるくると循環し続けること。無限のポテチ(∞)と共に。

          (「開封後は早めにお召し上がり下さい」『n≠0』私家本工房・2016年 所収)